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Belief of Soul〜愛・犠の刀〜  作者: 彗暉
第十六章 皇燕の片翼
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九十五話

 意識が霧にもみくちゃにされ溶けまいと自分を掴み続けて、やがて風を失った木の葉のように意識が落ちてしまったことを目覚めた鉄の船室で知った。

 気を練り上げて、薄く延ばして体の隅々まで行き渡らせる。もはやお馴染みとなった感覚——血管を熱くし、それでいて高揚感と安堵感を同時に抱かせる——に頷くと、サンは立ち上がった。

 自分がいる船室は、相変わらず帝国らしい黒い鉄でできている。眠ったようにじっとしている鉄の戸、戸の正面の壁から生えたような椅子だけが部屋のすべてだった。寝台すらない。静かすぎる船室の中には、地面の奥底にでもいそうな怪物が唸るような振動音が響いている。

 鉄の戸に近づくも、今回は勝手に壁に吸い込まれて道を開けてはくれなかった。戸を叩いても一向に誰かがやってくる気配はない。戸と蹴ってやろうと足を突き出すと、なんということだろうか、空気を擦るような音と共に戸が壁に吸い込まれ、手に膳を持った兵士が現れたのだ。兵士は膳から滑るようにしなやかな動きで腰の黒い棒を抜き放つも、サンは蹴りを繰り出したついでにその棒を弾いた。

 黒い棒が床に落ちてやかましく金属音を響かせ、サンは肩をちょんとあげて見せた。


「間が悪かった、それだけだ」サンは咳払いをすると姿勢を正し、兵士をまっすぐと見上げた。「それより、あんたの将軍と話をさせろ。取引の話だ」


 兵士は空気にでも殺されると思っているかのように、手を払われた時とまったく変わらない姿勢でサンと床の黒い棒に視線を走らせる。サンは手を広げて首を振ってみせる。


「いいか、あんたが俺の望みを叶えてくれれば、今考えてる最悪の状況にはならない。言葉は通じるんだろう? ミュルダス将軍、いや、皇女殿下って呼んだ方がいいか? とにかくあの人に会わせてくれ」


 兵士は一歩下がり、胸を張りながら上着の下の部分を引っ張り、音が聞けそうなほどわかりやすく唾を飲み込んだ。


「ちょうどいい。将軍様に呼んで来いと命を受けていた。だが」兵士は、床に転がった膳と、肉が入った汁物に目をやった。「まずは腹を満たさせるよう仰せつかっている」


 サンは転がった肉の塊を摘むと、口に放り込み味わうと飲み込んだ。


「いけるな、これ。腹いっぱいになった」


 兵士は自分の胸に拳を当てて敬礼をすると、こちらへ、と言って大股で歩き始めた。

 狭いプルーシオン船内の通路を進み、やってきた船室はミュルダスの部屋だった。おそらく船長室と同等のものなのだろう。人が住むにふさわしいものが揃っていた。毛の柔らかい黄色と黒の何かの動物の縞模様の絨毯に、朱色の革張りの罪な椅子、木製の意匠の凝った長机、そのほかの小物までもが装飾品のように豪奢だった。特に派手に金や宝石を散りばめたわけではなく、作りがいいのだろう。

 ミュルダスが兵士に頷き、兵士は敬礼をして船室から出て行った。ミュルダスの隣には忠実な犬のような男、キュオンダスが腰の後ろで手を組み、黒と赤の軍服を着こなし斜め上に視線を投げて直立していた。

 ミュルダスは、広い襟が胸側に折れた将軍に相応しい外套を肩で着て、長机の上に組んだ手に顎を乗せて何日も寝ていないかのような顔で目を閉じている。


「ミュルダス。取引は――」


 サンの言葉を、ミュルダスは手の平で遮った。


「わかっている。約束を違えるようなことはせん。君の勝ちだ、龍人のサン」


「なら、約束通り陸につけてもらう。今すぐに。それに、刀を返しヴィアドラから去れ」


「ヴィアドラからは、いつか去ろう」


 サンが一歩踏み出すと、今まで石像のように動かなかったキュオンダスの目が、厳めしい像のようにサンの踏み出した足を睨みつける。サンはその視線を肌で感じると、それ以上踏み出すことはせずにミュルダスに声を投げる。


「いつか去る? 今すぐだ。あんたは取引しただろう」


「残念だか、去る時期についての言及はなかった。だが、これについては少々大人気ないと思っている。そこでだ、代わりに元老院と烈刀士(れっとうし)の内戦には手を出さないでやろう」


 もしも元老院側に、帝国の援助がないのだとしたら勝機はほぼ烈刀士にあると言っていい。烈刀士将ほどとは言わずとも、烈刀士は蒼龍軍の精鋭である五爪にも勝る猛者達だ。これは、いい落としどころなのではないか。それでも、サンはミュルダスを射るように見据えた。


「両者が疲弊するその時を狙って攻めて来る魂胆だろ」


 キュオンダスが鼻で一笑に付す。それに構うことなく、サンはミュルダスを見据えるも、ミュルダスは目を開けようとしない。


「それは戦法の定石だ。うまく使わない手はない。だが、今回はそれは許されない。私が必要としているのは、力ある君達の忠誠心なのだから。忠誠心とは、何から生まれると思う?」


 忠誠心とは何から生まれるか。俺は忠誠心を抱いたことはない。忠誠心を抱く相手がいないからだ。ヴィアドラの武士は、自分達に武士の位を与えた荘園主や大名に忠誠を誓っている。それは、位を得て土地を下賜されるからであり、主君である大名に多少の恩義があり武力を貸す。ヴィアドラの烈刀士や各國の道場の武士が武を磨くのは、戦神が守ったヴィアドラを守り継ぎ、大切なものを守るため。そして武を極めるのは、力を授けてくださった戦神の想いに報いるためでもある。


「忠誠心は、恩義に報いようとする心から生まれる」


「その通り。だが、重要なものが抜けている。畏怖だよ。人は恩義を感じることはできるが、山に積もった薄い雪如く儚く忘れるもの。忠誠心ほど根を張りはしない。だが、畏怖は山の冷たい芯のようにいつまでも忘れることがない。そのおかげで恩義を思い出すこともできる。重要なのは、畏怖だ」ミュルダスは、傷口を撫でるようなため息を吐いて肩を強張らせた。キュオンダスがそれを見て、身を僅かに動かしたが、命令を思い出したかのように再び胸を張り正面を見据える。


「君との約束を反故にしたら、その畏怖も忠誠心も得られない」


 ミュルダスは更に肩を強張らせ、キュオンダスが手を差し伸べようとすると脱力して呼吸を整え始めた。そして、椅子から立ち上がると片手を腰の後ろに回し、刀のような佇まいをとった。開いた眼の虹彩には、紫の光の筋が浮きだっている。ミュルダスの顔には、好奇心溢れる子供のような微笑みがあり、サンはその豹変に顔を顰めて見せた。


「龍人……魂を継ぐ者か」


 揚々とした飾り気のない話し方だった。ミュルダスが無理をして作った喋り方にしか感じない。だが、サンは本能で理解した。


「あんた、誰だ」


 サンがそう訊くと、ミュルダスは微笑む口角をさらに上げた。キュオンダスが目を見開いてミュルダスの足元に膝を突き、呼吸を荒くして首を垂れた。そしてサンに振り向くと唾を撒き散らすように「なんと無礼な! 御方に頭もさげぬとは!」と叫んだ。


 ミュルダスは片手で宥めるようにキュオンダスを制すると、再びサンを見つめた。


「僕が何者か。そうだな、サン君は平和を望むかい? 大切な人が笑顔で暮らし、時に喧嘩もしつつ手を取り合う、そんな世界を」


 ライガ、カゲツ、鬼火、ジゲンさん、キリ師範、ロジウスおじさん、ツバキおばさん、師匠……。その笑顔の数々が流れていき、心に優しい刃が刺さっていく。


「当たり前だ。そのために、戦っている。守るために戦っている」


「僕は、皆が抱くその気持ちってところだよ。世界平和を望み、全てを愛する者」サンの固まった顔を見て、その者はミュルダスの顔で眉を下げて見せると、皆そんな顔をすると言ってから続けた。「僕は、君に選択肢を与えたいんだ。ミュルダスを信じて、内乱を止め、ミュルダスというバルダス帝国と龍人というヴィアドラで手を組んで、世界平和のために力を振るう。または内乱に加担はするけど、個人的にミュルダスの世界平和に手をかす、とかね」


 サンはミュルダスの中にいる人物が誰なのかを考えるのをやめた。わかるのは、賢者やカグラが〝御方〟と呼ぶ者であること。そして、帝国の皇女であるミュルダスがその者と繋がっていることだ。もしかしたら、ミュルダスも賢者の一人なのかもしれない。


「俺に、賢者となるか、ヴィアドラの象徴としてバルダス帝国と手を組むか、その選択肢を与えるってことか。どっちみち、世界平和って言いつつ他国を侵略するんだろう。汚いやつめ。元老院と同じだ。何かまっとうな理由をつけて、私腹を肥やすことしか考えていない」


「確かに、そう見えるよね。表面はまったくもってその通りだよ」何度も使いまわしたような声の調子に、サンは嘲笑を滲ませた。こうやって賢者を集めているのだろう。「さっきミュルダスが言った通り、畏怖が必要だからね。でも、そもそもなぜ畏怖が、忠誠心が必要なのか。そんな怖いことしないで、皆が皆のことを愛して手を取り合うことをすればいいのにってなるよね?」


「そんなの理想に過ぎない。鬼だっている。その共通の敵である鬼のことで、同胞である元老院と烈刀士が争うようなことにもなってる」


「その通り。なら、わかるだろう? 人は個人としてばらばらであると、自分の心の居場所が欲しくて他者を殺してしまうんだ。争いは無くならない。でも、個人個人が一つの心の形を目指して進めば、その先に世界平和が創られる。僕はね、それを創るんだ。その一つの心が僕であり、ミュルダスであり、このキュオンダスでもある」


 名前を呼ばれたキュオンダスが、胸に拳を当てて強く握ると、ありがとうございますと熱く囁いた。


「でも、進むためには力が必要なんだ。それが、バルダス帝国であり、力となる可能性としてヴィアドラやサン君がいる」


「もしかしたら、あんたの言っていることやミュルダスの言っていることは正しいかもしれない。だけど、かもしれないなんだ。俺の大切なものを、あんたらが守れるとは思わない」


 その者は、重い釘を刺すような眼差しをサンに向ける。


「それでいい。僕は選択肢を与えただけだ。選ぶのは……わかるだろう?」その者が、手を握ったり広げたりしながら、そろそろかな、と呟き、揚々とした笑みをサンに送る。


「君が師匠と送りたかった世界は、とても美しいよ。物質的な豊かさではなく、大切なものを大切だと想い心を満たす、そんな世界」


 その言葉に、サンは心を締め付けられ思わず自分の胸元を握った。俺が、過ごしたかった師匠との生活と、師匠の信念を貫いた自己犠牲への怒り、喪失感が目から零れそうになり、歯を食いしばった。

 ミュルダスが机にしがみつきながら崩れ落ちそうになり、キュオンダスがすかさず肩を貸して椅子に掛けさせる。ミュルダスは荒い息と吹き出す汗に目もくれずサンを睨む。目は充血してはいるものの、紫色の筋は消えてバルダス人らしい赤銅色に戻っていた。


「龍人のサン。取引は成立か?」


 サンは床の縞模様の絨毯を見つめながら、湖に石を落とすように頷いた。


「あぁ。俺はヴィアドラに戻り、あんたらは内戦に手を出さない。取引はこれで成立だ。だが、その後のことはここで言っても意味がない」


「だが、考えておくべきだ。象徴たる龍人の意見が、今後のヴィアドラを決めることには変わりない」サンの言い返そうとする目を見て、ミュルダスは片笑んだ。「力には責任がある。私がそうだったからよくわかる。だからとは言わんが、剣を交えた者への餞別として助言をしてやる。信念は剣だ。剣はどんなものでも傷つける」


 折れた葦のように暗い乾きを浮かべるミュルダスは、かつてそよいだ風を思い出すように、俺を見ているようでどこも見ていなかった。

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