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Belief of Soul〜愛・犠の刀〜  作者: 彗暉
第十六章 皇燕の片翼
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九十三話

 〈鬼目郷(おにめきょう)〉に辿り着き、自分に子供がいることを知ったカゲツと別れたサンは、太陽がいまだ空高く輝いている〈鬼目郷〉の中に足を向けた。先ほどカゲツに愛していると叫ばせさせた酉族の男に教えてもらった食事処の前にくると、一つ呼吸を置いて暖簾をくぐった。

 店の中に入ると、勘定の仕切りに猪かなにかの動物の牙を首飾りにしている仲居が、いらっしゃいとにこやかに腰を折る。数人の仲居達がきりもりしている小さな食事処で、時期も相まってとても静かな雰囲気だった。入ってすぐに土間が広がり、一段高い畳の間に丸いちゃぶ台が四つ置いてあるだけで、満員になっても喧噪というほどにはならないだろう。部屋の端には、肩を壁に擦らせそうなほどに狭く急な階段が覗いており、二階もあるようだった。だが、物音もしないため客はいないのだろう。今〈鬼目郷〉に烈刀士(れっとうし)の姿は無い。それも当然だ。元老院との戦いと北の護りを両立させなければならない烈刀士に、休みなどありはしない。

 底の浅い盆に御絞りと徳利、猪口を載せてやってきた仲居が、口に笑みを湛えながら斜めに座り、ちゃぶ台に持ってきたものを並べる。


「なんだか静かだな。氏族の男達はみんな南へ行ったのか?」


 仲居は、口に笑みを湛えたまま、一瞬動きを止めて横目で俺を見てきた。そして、盆を腕に抱えて一礼すると去っていく。

 サンは、喉をお絞りで拭うと仲居達の顔をちらりと見やった。まずいことを訊いたかもしれない。いや、待てよ。

 盆に前菜を載せてやってきた別の仲居に、サンは暑いねと言葉をかける。川に流れる木の葉のように他愛ない会話をやりとりし、サンは同じように尋ねた。


「ずっと砦と北の森じゃ息が詰まって仕方がない。蒼龍将と南に行った奴らは今頃どうしてるんだか。近くには〈鬼目郷〉があって晩酌し放題なんだろうなぁ。のどかだな」


 仲居はむすっと不満を隠すようにゆっくりと瞬きをして、「あら、ちっとものどかじゃありゃしません。旦那なんかもう三日も帰ってきやしない。力仕事も、今じゃ女子供総出でやってるんですから」と口を零した。


「まぁ、だけど家である森を守るためだから、氏族は蒼龍将についていくんだろう?」


 仲居は言葉を出さずに、息だけを吐き出してサンの顔を見た。口をゆっくりと閉じて、正座している太ももの上に盆を立ててぴしゃりと背筋を伸ばしている。


「守るべきは、森ではないのでは? あなた方は森が家だとおっしゃいましたが、戻るべきは大切な人達のところなのでは? 家は大切な人達のいるところです。誰も住んでいない森の土なんか勝手に掘らせておけばいいのに、嵐様にのせられて出陣だと血の気をあげる男達は……」


 仲居は障子窓の向こう側に目を向けながら首を振る。


「烈刀士の中にだって、この戦を望んでない者はいる」仲居の視線にサンは肩を上げて見せた。「砦にいる烈刀士の中にも、戦はするべきじゃない、止めるべきだと思ってる者が大勢いるってこと。俺だってそうだ。蒼龍将と話合いができれば、もしかしたら……」


 仲居はこの話題に価値はないと、あからさまな溜息を一つ残すと、立ち上がり際に「そんなの、龍人様くらいにしかできないのでは?」と言う。その仲居の袂を、サンはちょいちょいと引いて自分を指差した。

 そこからはとんとん拍子にことが運んだ。旦那の帰りを待つ女達は、皆この戦に反対していたのだ。戦を止めるために南の戦線へと出向き、蒼龍将を思いとどませることを告げると、すぐさま船の都合をつけてくれた。船を調達する中で出会った男達は一様に顔を顰めて抵抗しようとしたが、なんせ今の〈鬼目郷〉の九割は女が占めていて、その誰もが溜まっていた不満を原動力に変えていたので、男達は渋々と従ってくれた。だが、そこまで協力的な彼女達にも、今一つの懸念があるようだった。

 桟橋から今出航しようとしている船に乗り込むサンに、亥族の女が声をあげてサンを振り向かせる。


「龍人様の力は十分に知っているつもりだけど、でもさ……」


 サンは胸を叩いて見せた。


「必要なら、刀を交えてでも止めてみせる」


 集まった氏族の女達の間にひそひそとした話し声が蜘蛛の糸のように広がっていく。


「龍人様は、動けない体になったって聞いたけども……」


「一度はな。今は、気を操ることでこの通りだ。」


 指先で不安を転がす女達に、サンは手を振って船に乗り込んだ。

 船を操るのは、酉族の者達だった。鷹の羽の耳飾りを風に揺らし、帆を広げて車輪の舵を切る。その操舵手以外、船長を含めて全員が女だった。

 酉族も例外ではなく、旦那を戦場に送った彼女達は、蒼龍将に楯突くことを最初こそ躊躇ったものの、亥族の〝家族とは〟という問いかけになにかを思い出したかのように決意して船を出してくれた。


「なるべく早く皇燕(こうえん)ノ國に行きたい」


「三日もあれば着く」


「一日も早く頼む」


「そんなんしたら船が保たないよ。今の時期は風が強いんだ」


「それでもだ」


 髪を短く切った船長が、船に寄りかかりながら自慢げな顔を歪ませた。負けず嫌いが逆撫でされたようなその顔のまま、操舵手であり船内唯一の男に、「聞いたか? 龍人様が二日で疾れとさ」と挑戦的に言う。そして、甲板で仕事をしている女達の方へ振り返り声を荒げた。「聞こえただろ! あたしらは慧鷹言命(けいようごんのみこと)様の末裔! あたしらに行いは命様の行いだ! ならば沈むことはない。全速前進!」


 全開に広げられた白い帆が風を掴み、船全体を軋ませて前進させる。恐ろしいほどに力強い衝撃に、サンは舷墻にぶつかるようにしがみつきながら彼女の信心に蒼龍将のようなものを感じた。

 確か、慧鷹言命はヴィアドラの憲律を定めた神だったはず。その神の末裔である彼らは自分たちの行いが神の所業であるり正しい、そう信じているのだろう。その信じる強さはなにかを救うかも知れないが、今の蒼龍将のように大切なものを壊す恐れだってある。

 サンは〈鬼目郷〉の方を振り返った。俺の選択は合っているだろうか。サンは己の迷いを振り払うように再び前を向いた。カゲツは付いて来るべきじゃない。これは、龍人である俺がやるべきことだ。



 甲板の上で二つの月が空を横切るのを見届けた夜が明け、曇り空の広がる海の地平線を眺めるサンは、船の進む方向が沖に変わったのに気が付いた。きっと、蒼龍軍の巡視船から逃れるためかもしれない。

 だが、次第に気持ちが悪くなりサンは甲板の柵にしがみつくようにして崩れ落ちた。


「大丈夫かいあんた!」


 船長が近づいてきて、サンの身を起こそうとするが、こんにゃくのようになったサンにしっかりしろと言いながら顔を覗き見る。


「おかしい。気が練れない。どうなってるんだ」


「そういうことかい。龍人ともあろう者が、海で気を練れないことを知らないのかい?」


 海で気が練れないのは知らなかった。だけど、それよりも気を練ろうとすると噛みきれない豆腐を食べているような歯痒さに襲われて叫びたくなった。


「俺は、気が練れないと体が動かないんだ」


 船長が、目に手を翳しながら太陽の位置を確認すると、操舵手の方をみる。


「少し陸に近づけろ!」


 操舵手は、ちらりと船長を見ると額に流れる汗をそのままに、進行方向を睨みつける。舵を握る手には力が入っていて、舵を切る様子は見られない。

 船長が立ち上がり、初めて見る物を見るかのような目で操舵手を睨みつけ、舵を切れと静かに言った。それでも切らない操舵手に、甲板の空気が張り詰める。


「なにをしている?」


 操舵手は、口の中の言葉を擦り切るように舌を動かし、意を決したように船長に振り向いた。


「蒼龍将に従うべきだ。女供はなにもわかっちゃいない。蒼龍将の言う通り、元老院の今回の動きを無視すれば、俺達の居場所はなくなっちまう。俺達の子供の、そのまた子供の時代にな。そうなってからじゃ、どちらかが滅びるまで続く戦いになっちまう」


 船長の、雲行きの怪しい水平線を見るかのような目を見て、操舵手は空気を呑み込み唇に舌を滑らす。


「そうだろ船長? この戦いで海路の所有権も主張できるかもしれない。そうなれば〈鬼目郷〉から堂々と取引ができるんだ。蒼龍、無色(むしき)、皇燕に荷を下ろせる。公式な取引ができればどれだけの利益が増えるか。なくなく子供を無色の連中に売る必要も無くなるんだ」


 船長が操舵手の頬をひっぱたいた。


「あんたの言いたいことはわかる。確かに、蒼龍将が勝って元老院が認めれば、あたしらは海賊みたいなことをしなくても済む。紅蛾みたいな連中に、子供を高値で売り払う必要もなくなり、堂々と交易品を売り捌けるかもしれない。でもな、そんな暮らしを余儀なくされてるのは、男じゃない。家を守り子供を育ててる女だ。旦那を失った女達は報復の念を心に抱き続ける。その闇は世代に引き継がれ、歪んで、いずれありもしない理由を刃として、己を正当化して他者を傷つける。それにな――」


 船長は、担架に載せられているサンと目を合わせた。


「龍人様が止めるって言ってんだ。戦神がそうしろって言ってるもんだろ。なら、蒼龍将は間違ってる。止めるべきなんだ」


「だが、そんな龍人になにができるってんだ!」


 船長が銛のような目で操舵手を睨みつける。その時、帆柱の上の檣楼から怒鳴り声が甲板に降りてきた。


「後ろになにかがいる! 帆がない。あれはプルーシオンだ!」


 双眼鏡を覗く見張りに皆の視線が注がれる。蒼龍の巡視船か、と船長が言葉を吐き捨てる。なぜこんな東まで、などと声が甲板に飛び交うが、それを見張りの声がかき消した。


「黒に赤い太陽……あれは、バルダス帝国のプルーシオンだ!」


 甲板の動きが止まり、すべての視線が船長の顔に注がれる。命令の一語一句を聞き逃さない決意の表情。臆病風を吹かせる目がないことを船長は確認すると、口の端を上げた。


「戦闘体勢! 左舷におびき寄せろ! 剛火砲、崩火砲用意!」


 サンは、慌ただしく沸騰したような甲板を見回しながら、息を荒げて船長に首をもたげた。


「もう少し岸によってくれ。さっきまでは気を感じることができた。これじゃ、俺は戦えないぞ!」


「海はあんたら烈刀士のでる場所じゃないよ。陸は陸、海は海。引っ込んでな! そこのお前、龍人様を船長室に運びな!」


 船長室は、刺繍が施された垂れ幕が窓ガラスを遮っていて甲板から中を覗くことはできない。その扉を船員が引き開けて船長室の中に入ると、担架ごと荒々しく地面に降ろされた。声をかける間も無く、俺を運んだ船員は甲板に戻っていく。船長室の扉が閉められ、絨毯を暖簾にしたかのような重い垂れ幕の向こうから、甲板を慌ただしく打ち付ける足音と怒鳴り声が聞こえてくる。

 やがて音が鎮まり、船が波に揺れる音だけが響く。

 船長室は、流石と言えるような物で溢れていた。木を削り躍動的な輪郭をもたせた調度品、壁には羊皮紙でできた縦に長い地図がかけられていた。ヴィアドラと書かれた地の遥か下、森を挟んで南の方には、ヴィアドラを造る四國を凌ぐ大きさの国が、バルダス帝国があった。そのバルダス帝国のプルーシオンがこの船を襲うというのだろうか? そんなことをすれば戦争は免れない。攻撃してくることはないだろう。

 突如、重い衝撃音が船の一部ごと静寂を吹き飛ばし、サンはこんにゃくのように床を転がり机の脚に頭をしたたか打ち付けた。左舷が天井になってもおかしくないほどに船が傾き、部屋の物が右舷側に滑ったり倒れたりする様子を、見開いた目で追いかけることしかできないでいた。天井に吊るされた飾り過ぎの室内灯が、あってはならない動きで揺れていて、空中でばらけそうなほどだった。

 サンは、身を守るために気を練り上げようとして、体が急激に重くなり頭に靄がかかるような感覚に首を振って荒い息を繰り返す。なんなんだこの感覚は、海だと気が練れないなんてことは初耳だ。まさか、船酔いじゃないよな。皇燕から烈刀士ノ砦への航海で船酔いに悩まされていた真は、この辛さをずっと味わっていたのだろうか。そういえば、無色流の道場でも、気の扱いに最も長けていたジゲン師範代も海に出れないから蒼龍軍に入ってなかったはずだ。そんな場違いな思考を頭の中で繋げながらも、サンは甲板の音と外の様子に耳を澄ませていた。

 爆発音とともに、再び船に衝撃が走る。規則的になるこれは、この船の剛火砲、崩火砲と呼ばれる武器の音だろう。応戦しているのだ。左舷が傾き始め、甲板の方から怒号と叫び声が扉の奥から聞こえてくる。窓ガラスを遮る刺繍の施された垂れ幕のせいで、外の様子を窺うことができない。

 サンは腑抜けた息を吐き散らかした。


「ちくしょう、なにもできないなんて」


 甲板の音が静まり返り、船底を叩くような軋んだ太い音だけが響く。船の左舷側の傾きはおさまることを知らず、サンは息を呑んでその意味を理解した。船が沈んでいる。

 船の底を擦るような音と軋む音以外に感じられるものはない。だが、扉の丸い取っ手が回るのがわかった。誰かが入ってくる。開いた扉から身を捩るように姿を見せたのは、肩を押さえ息も漫ろな女の船長だった。頭から流れる血で顔は真っ赤であり、爛々と見開かれた目は戦々恐々としていた。


「龍人様、お逃げくだ――」


 船長の後ろから鉄の手が現れ、船長の肩をがっしりと掴んだかと思うと、船長は人形のように無造作に引っ張られていなくなってしまった。あの鉄の手には見覚えがあった。龍人祭で俺の背骨を砕き、その身と心に絶対的な敗北感を俺に植え付けた存在、バルダス帝国の鎧兵士と同じものだ。

 船長の血がこびりついた扉から入ってきたのは、やはり金属の鎧を纏ったバルダス兵士だった。つるっとした黒いガラス質の兜は、やはり好きになれない。鎧兵士の後ろには、上下に別れた黒と赤の軍服に身を包んだ兵士達が、尖火槍と呼ばれる長細い飛び道具を持ってこちらをのぞいていた。その兵士達が壁に寄り道を開くと、そこから歩み出てきたのは赤銅色の針金のように生命力に満ち溢れた長髪を持つ女。鋭い目は同じく赤銅色で、薄い唇はこの上ない傲慢さを軽やかに湛えている。


「いたか、龍人のサン。会いたかったぞ」


 バルダス帝国皇女にして、ヴィアドラを喰らう将軍、ミュルダスだった。

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