八十九話
夜の冷えびえした空気が、緋色に渦巻く炎の竜巻となって岩肌を焼き息ができないほどの熱風に変わっていく。
「カゲツ!」
サンは友の名前を叫ぶと同時に、刀を両手に持って斜面を飛び降りるかのように下る。
あの火柱は、俺に龍人が宿る原因となった賢者との戦いで見たものと似ている。もしも賢者がいるのならカゲツには手に余る。最悪、あの火柱に呑まれて……。
サンは白緑の炎のように揺らめく羽衣を纏い、顔に血の鮮やかな赤色をした隈取りを浮かび上がらせ、光の矢の如く渦巻く火柱に突っ込んでいく。
炎の竜巻の舐めるように靡く細部までもが統率の取れた動きをしている。あれは自然の炎ではない。鬼火や炎魔のように、己の気を熱として炎を象らせている秘術の類だ。そして、あの竜巻は剣の道や体術の型のように定められた術式で顕現させた力。ならば、あれは闘気かシーナさんが使うような魔法と同じだ。型に決められたものは、変化に弱い。
サンは、羽衣を纏わせた渾身の一太刀を炎の竜巻に抗うように浴びせた。竜巻は一瞬歪み元の形に戻ろうとしたが、留まることができずに炎の雲にでもなったように空に放射して消えていった。
突如戻ってきた暗闇の中で、サンは剣気で活性化した視界で周囲を見渡す。
炎の竜巻の中心に、カゲツが刀を支えにしてなんとか立っていた。戦装束から煙が上がっている。だが、まるで棒が倒れるかのようにそのまま地面に倒れ、粉々に砕けた。
その光景に、まるで背骨が抜けたかのような感覚とともにサンは羽衣を手放し、地面に倒れ頭をぶつけた痛みにも気付かず、灰を抱く戦装束とその傍らに突き立つ刀を見続けた。強く打ち付ける自分の鼓動だけが世界に残った唯一のものであるかのように耳に響く。
カゲツだったものが風に乗って山肌に散っていく。突き立った刀の刃に刻まれた〝叢雲斬〟の銘が、歪む視界のせいで見えなくなっていく。
サンは言葉にもならない喚き声をあげて震え、浮つく冷たい虚な火が全身を駆け上がるかのような感覚に嗚咽した。
「カゲツ、カゲツ……」
名前しか出てこないその言葉はあまりに短く、重く、儚い。
サンは奥歯が鋭い音を走らせるほど噛みしめ、剥き出した歯の間から感情に焼き尽くされる息を吐き殺しながら、下の方で佇む人影を見つけた。
「殺す」
次の瞬間、サンは周囲を照らすほどの輝きを放つ羽衣姿で、文字通り光の矢となって人影に向かって飛翔した。
自分のあまりの速さに攻撃が当たったかもわからず、叫びながら五本の光剣を四方八方で暴れさせ、切断された岩や地面が熱で赤色を帯びていく。
サンの感情をそのまま体現させた光剣は、収束していた身を綻ばせながら地面を切り裂こうとして爆発を起こし、山肌をいとも簡単に砕き土砂崩れを起こした。
「俺を支えてくれていたのは、あいつだったのに」
人の気配が布を剥がしたように現れたのを感じ取り、サンは形を成さない羽衣をただ感情のままに放った。
白緑の焔が地面を穿ち突き進み、岩に当たって轟々とした悲鳴をあげながら夜空に巻き上がり消えていく。
気配は消えない。収まることを知らず、身を滅ぼすほどに焼けるものを羽衣にのせて放とうとして、自分の体が動かないことに気がついた。地面から太陽の光を砂にしたような輝きをした光の鎖が、いつの間にか手足に絡んでいた。
全力で足掻こうとしてもビクともしない鎖は、龍人の怒りに呑まれたときシーナがサンを抑えたものと同じだった。
暗闇に一筋の紫の光が閃いたと同時に胸に衝撃が走り、体の内側で握り続ける力がガラスに包まれたかのように触れられなくなった。俺の胸に突立つは明るい紫色の炎の矢。体から意識が突き放されていく感覚は、体という箱の中で自分がどんどん小さくなっていくようだった。周囲の音も耳に水がつまったかのようにはっきりとしない。それでも、誰かが俺の名前を呼んでいるのがわかった。何度も何度も呼ぶその声は聞きなれた声だったが、それはもう聞くことができないはずの声。ほんの数呼吸前に失った友の声。
そうか、俺は死ぬのか。
鎖を引きちぎり、胸の矢を引き抜いて自分の力を再び握り、一矢報いてやると唸り声を上げることすらできなかった。目に映る焼けて崩れた山肌の光景が、水に落とした絵の具のように掻き消えていく。描いた絵が剥がされるようで、その下から現れた光景は時間を戻したかのように、竜巻が消えた直後の状況だった。炎の竜巻が地面を焼いて黒ずんだ姿をしてる。違うのは、砂のような光に煌めく鎖に縛られていることと、灰になった親友の姿がないことだった。
「サン!」
その声に、サンは唯一動く目だけを向けた。
そこには、手足を黒い鉄で縛られたカゲツが、芋虫よりも不恰好に顔をあげて俺を呼んでいた。カゲツの名前を呼びたくても、体のほとんどが麻痺しているようで声も出せない。
カゲツの慌ただしい視線が俺から外れ、違う方向を見る。そこには、頭巾つきの真っ白な長衣を纏った賢者が立っていた。まるで庭の池でも眺めにきたというように後ろで手を組み俺を眺めている。
頭巾の目元にかかった模様のある紗のせいで、目元は窺えない。隠れていない口元には皺が刻まれているが、強張ってはおらず余裕すら感じさせるほど自然だった。
賢者が長衣の裾を上げながら、見つけた花でも摘もうとするような足取りでサンに近づいてくる。
「サン! なんとかしろ!」
電気の弾けるような音を立てている鎖の光が強くなる。
「やれやれ、ハザオントランカまで使わないと拘束できないか。流石は、古今東西に謳われるヴィアドラの剣といったところか」賢者は息がかかりそうなほどサンに顔を近づけてその眼を覗き込む。「混じっている。やはり収穫の時期が遅かった。まぁ、今からでも遅くはないであろう」
老年の賢者はそう言うと、喉を鳴らさないで蛇の声のように何かを唱え始めた。それは、シーナが神秘を操るときと同じ言語であり、鬼の言葉とも似ていた。
賢者の拳が紫色の炎のような揺らめきを帯びる。それをサンの胸に突き刺すように伸ばし始め、指先が胸に触れそうになる。
「お待ちくださいませ」
賢者の手がぴたりと止まり、山肌を急いで降りてきたのであろうカグラが裾を持ち上げながら、賢者の足下で膝をついて首を垂れている。サンとカゲツは、二人の会話を聞くことしかできないでいた。
「その者はわたくしめにお任せください。なにとぞ」
賢者がゆっくりとカグラの方に顔を向けた。
「君は、天ノ神楽かね。話は聞いている。かの御方に謁見された特別な存在だとも。お仲間は残念だったね。だが安心していい、私があとは引き継ぐ。もちろん、君の活躍の報告はしっかりとしておくから。君は晴れて賢者になれる」
カゲツが震える息を吸い込んだ。
「やっぱり敵だったんだな。サンはあんたを信じてたんだぞ、それなのに……」
カグラは紅い目を伏せたまま、微動だにしない。だが、カゲツの震える声が途切れるとカグラは口を開いた。
「わたくしめは、かの御方から勅命を頂いておりますゆえ、どうかここはお任せくださいませ」
賢者は呼吸三つぶんは黙りカグラを見下ろした。
「かの御方はこの百年、お姿を見せられてはいない。お声も届かぬ状態であるのを知らないのかね? それとも、この青年達に心を奪われたのかね」
賢者の声には、棘のようなものを一切含んでいなかった。
「いいえ。己の剣に従っているだけでございます」
賢者は夜空を見上げて、息をついた。
「紫星が夜空に輝いていたのは気づいていたが、かの御方は戻られているのか。そして君には勅命を」賢者はカグラを見つめた。「話せないことなのだな。わかった。ならば、私は私の成すべきことに戻るとしよう」
そう言って、賢者は何事もなかったかのように庭を歩くように夜の森へと姿を消した。
賢者の姿が見えなくなると同時に、カゲツの手錠が外れ、サンを拘束していた鎖が空気に溶け込むように消えていった。
サンは地面に崩れ落ち、数回呼吸を繰り返してから首をもたげてカグラを見る。
「カグラ……」
カゲツが荒く地面を踏みしめてカグラに近づくと着物の襟を掴んで顔を上げさせた。カゲツに睨まれているカグラは静かな目で見上げていた。その目を見て、カゲツは鼻筋に皺を寄せると突き放した。
「あんたは賢者なのか? ん?」カゲツは自分の刀を地面から引き抜くと、カグラの首に添わせた。サンがやめろと叫ぶも、カゲツは気にとめる様子もなく刃をカグラの首に押し当てる。「どうなんだよ。賢者はあんたの仲間だったみたいじゃないか。俺たちは賢者を倒している。あんたは龍人の力を狙いながら、そいつらの復讐も果たそうっていうのか? ライガの言うとおり女狐だったとはな!」
そう言ってカゲツは山肌の上の焚火の方を見ると、サンを一瞬見てから登っていく。
「お前が信じるっていうから一緒にいさせたんだ。お前がなんとかしろよ」
カゲツはそう吐き捨てると振り返ることなく焚火に戻っていった。
森を南下していくと、だいぶ暖かさを感じるようになった。戦闘区域の森は見慣れた鬱蒼とした深緑を重く垂れ、日が沈み夜になれば緑色の燐光を纏い、なんとも妖艶な姿になる。森の変化のおかげで、空が見えない森の中でも日の入りと一日の終わりの目処がつけやすかった。それに帰りの旅路は餓鬼に襲われることもなく、雨も地面を泥濘ませるほど降らず、自然が味方しているようだった。だが、唯一、一行の空気を悪くさせるものがあった。
「なぁ、カゲツ。肩、痛いんだろ。そろそろ――」
「結構」
カゲツは上半身をはだけさせ、首を痛めそうなほど後ろに捻りながら、擦り剥いた自分の肩の包帯を貼り替えている。貼り付いた包帯は、黄色と赤が滲んでいた。剥がすのは痛いはずだ。鼻筋を痙攣させながら、カゲツは呼吸荒く剥がしていく。剥がしたところの皮が剥け、カゲツの鋭い悪態とともに鮮血が浮き上がる。
賢者に一歩的にやられたあの日から、カゲツはサンとカグラと口をきこうとしていなかった。ライガを背負わせることもさせず、一人で担いでいるのだ。自分の肩の処置を意固地に続けているカゲツに、サンは鼻を鳴らしながら竹筒の水筒を呷った。
「カゲツ。悪かったって。支えてくれてたのはお前達だったのに、俺は気持ちを汲み取ろうとしなかった」
「こちらこそ謝らせるようなことをして悪かったよ」
カゲツは語気を強めてそう言った。
「なにがそんなに気に入らないんだ?」
「なにがだって?」
カゲツの肩越しに向けてくる視線は殺気じみている。
「わかってないんだな。俺はいいんだよ俺は。でも、ライガと鬼火が報われないじゃないか。お前には与り知らぬ事かもしれないけどね、こいつら、お前のために車椅子を拵えたりしてたんだぞ。自分達のことよりお前のことを心配してさ」カゲツは荒げる言葉と一緒に、肩に貼りついた包帯の残りを一気に剥がして、声に出して悪態をついた。
カグラが立ち上がり、カゲツに近づこうと一歩踏み出すも、カゲツがカグラの足下を睨みつけながら刀の柄をがっしりと握る。呼吸は浅く静かなもので、それを見たサンも、思わず顎を引いて刀の柄に指を触れていた。
「カゲツ。少し冷静になってくれ。確かに、俺は自分のことしか考えてなかった」
「ですが、それも人を想うあまりに起きたことでありましょう? それを責めることはできないと、わたくしは思います」
カグラは、サンを見つめながら寄り添うように言葉をかける。
「俺だって責めるつもりはないさ。ただ。ちくしょう!」
カゲツは額に汗を垂らしながら、肩から溢れる血に新しい包帯を当てた。
カゲツの言いたいことはなんとなくわかる。鬼火は生きているかもわからず、ライガは目を覚まさない。俺よりも長い間二人と共にいたカゲツは、二人がどれほど俺のために行動を起こしてくれていたかを知っているのだ。どれほど辛い状況だったかも。だけど、俺はそれを知らず、更に二人の想いに報いる手段がない以上、二人を想うカゲツの虚しさは報われない。
仲間達の想いに報いる方法は一つ、俺は行動で示す。カゲツが納得しなくとも、賢者であるカグラの話、鬼の話に耳を傾けなければならないのだ。龍人として。それが仲間に理解されなくとも、立ち止まるわけにはいかない。それが、最終的に大切なもののためになると信じている。
「カゲツ、カグラに肩を見てもらえよ。お前が今やってるのは、俺と同じことだろ。自分の思いを貫くばかりで、他者の気持ちを汲み取らない。お前が仲間だと認めなくても、カグラは本気で心配しているし、俺だってそうだ」
カゲツは刀の柄から手を離し、カグラとは反対の方に広がる森を見つめている。サンはカグラに頷いた。
カグラがカゲツのそばに膝をつき、懐から紙包みを取り出して広げる。包まれていた薬草を手にもち、鬼やシーナが唱えていたものと同じ喉を鳴らさない音を発した。その歌うような風の音に呼応してなのか、薬草が淡い光を帯びる。カグラが手でこすり合わせると薬草は緑色の光の液体へと姿を変えた。
「カグラ、それは?」
「秘術の一種でございます。異国では神秘と呼ばれている技です。薬草の形をほどき力の源へと姿を変え、即座に効果を発揮させる。そうですね、物を分解して気を取り出す、といえば伝わりましょうか」
かつて、蒼龍将が川の水から力を奪い氷にするということを見せてくれた。あのとき言ったことと同じことなのだろう。
「自然の気を自分の力として扱うということか」
カグラは風鈴の一つの音のように笑った。
「自分の力ではありませぬ。自然の力に自分の力を沿わせるのであります。これは形を崩したあと、己の気を自然の気に沿わせ動き方を少し変えているだけであります」
「そうか。沿わせるか」サンは地面に視線を落としてから、カゲツの肩に光の液体を塗るカグラに目を上げた。
「自分の気を完全に自然に沿わせたら、どうなる?」
カゲツの視線がこっちの方に動いたのを感じた。
「それは、自然の一部になることであります」
そういうことか。つまり、死ぬことと同じなのだろう。死んだら、魂という力は肉体を離れて、肉体に宿る前の存在に戻る。つまり、自然の力に戻るのだ。そして、その力は自然を活性化させる。鬼の種となる個体が数千年生き、やがて〈大霊樹〉となるように。
「そうか」
サンは水筒をもう一度呷ると、栓を締めて体を横にした。




