八十六話
巖亀の清涼な川の岩の上に、蛙がいたのを覚えている。蒼龍将と元老院議会に出るための道中で怪我をして、船室の窓から外を覗くだけの日々の中に、優しさも怒りも感じさせない眼差しの、そんな蛙を見た。そのときの蛙に似た視線を向けてくるカゲツに、サンは態とらしく溜め息を洩らした。
「いや、溜め息吐きたいのはこっちだけどね」
「もう済んだことだろ」
野営地でのライガ奪還作戦は無事に完了したらしい。俺が憶えているのは、鬼の視線を一点に集め、その視線をカグラに渡すこと。それをやり遂げて見張りについたところ、誤ってカグラの舞を見張ってしまったことだけだ。
気がついたら、アイラ=リーフの岩のところで横になっていて、隣にはやつれたライガが寝ていて、その傍で刀を抱いて船をこぐカゲツがいたのだった。
「我らが龍人様が、女の舞に見惚れて技にかかるなんてね。四國に口封じのために殺されてもおかしくない秘密だよ」
カグラの舞は、手足の動きと風鈴の音そのものが秘術の術式のようなもので、相手の視線を奪い幻術にかける技なのだという。この龍人を術中に陥れるとは、さぞや高名な秘技に違いない。きっと、代々受け継がれる家系の中でも特別な者が選ばれ、会得には幼少からきつい修行と鍛錬を繰り返すのだ。それでも、会得できるのは百年に一人くらいしか現れないくらい、すごいもの——であってくれ。
「カゲツ。間違っても、ライガには言うなよ」
サンは声を落としてカゲツを見据えた。カゲツの口元がこの上ない愉悦に緩むのを見て、首を振りながらライガを見た。ライガは弱い呼吸を繰り返すだけだ。
「冗談はおいといて、ライガはずっとこうなのか?」
「助け出したときは、目を血走らせて攻撃してきたよ。俺が姿を見せても、襲ってきたんだ。カグラが術にかけて、今はこの通りさ」
「そうか、この術は強力だからな」
カゲツの、朧月のように間遠な視線に、サンは「かかってないお前にはわからない」とかぼそい声で言った。
「さきほどの術は少々強めでしたので、致し方ないと思います」
カグラが、静かな笑みを添えてそう言った。ハワとの今後の話が終わったのだろう。
「やっぱりな。抵抗はしたんだが、強力だった」
カグラが、風鈴のように笑った。
「サン、無理はこたえるよ。仲間の心にね」
サンはがっくりと肩を落とすと、空気を肺いっぱいに吸い込んで顔をあげた。
「森の光が強くなってる。こんな昼間みたいに明るい森は初めてだな。今は深夜ってところか」サンはライガにもう一度視線を下ろす。「明朝発つのは難しそうだな。ハワ長老はなんて言ってたんだ?」
カグラは、小さな唇を絞って、ライガの体に痛いげな目を向けた。
「ライガ様は、衰弱しています。おそらく、鬼の血は取り込んでいなくとも、霊樹の森のものを食べさせられたのでしょう。体が毒されています」
「そうか。なら、早く砦に帰ってあったかい飯を食わせなくちゃな」
「それはできません」
サンとカゲツは揃ってカグラに目を向ける。カグラの堅い表情に、二人は黙って先を待った。
「きっと、体が受け付けないでしょう。このままでは、ライガ様は餓鬼になってしまいます」
叩き起こされたような気分になり、サンは立ち上がって顔を拭い、「どうすればいい」と語気を強めて言った。
「長老様は、ライガ様のためにできることはすると仰ってくださいました。今しばらくご辛抱くださいませ」
あの勝気なライガは過去のものになっていた。目を窪ませて頬はこけ、今にも呼吸が止まり目を覚まさないのではないかと、そう考えてしまう。手をとると、銀風月の森で見張りをしている時のように冷たかった。
「餓鬼なんかになるなよライガ。お前には、守りたいものが増えたばかりだろ。鬼火だってきっと生きてる」カゲツが非難するような棘をもってサンを見た。「それに、俺にはやっぱりライガが必要なんだ。なにが大切かを教えてくれるお前が」
ライガの手は、微動だにすることなく冷たいままだった。
ハワに呼ばれて、サンとカゲツはライガを今一度目に収めると、立ち上がって歩き始めた。
「ライガが起きてからも、さっきのような希望を与えるつもりかい?」
サンは、黙って歩いた。
「サン、お前だってわかってるだろ。鬼火のあの傷じゃ――」
サンは足を止めてカゲツを睨みつける。炎を湛えたその表情に、カゲツは正面から食い下がる。
「あの時のライガの様子を覚えてるだろ。燃えきった者の目だ。嘘の希望は、ライガを一時的に持ち直させることはできるかもしれないよ。でも、それが嘘だとわかったら? ライガを動かしていた希望の炎は、ライガ自身を焼く。そのとき、どんなことが起きるか想像はしないのか?」
「なら、お前は立ち上がる芽を踏み潰せっていうのか? あのままライガに死ねって言うのか? 鬼火は生きてるかもしれない、いや、生きてる。最後に見た時はまだ息はあっただろ」
「お前が無断で森に飛び出したときはだ!」
カゲツの言葉に、サンは何も言葉が出てこなかった。顔中が痙攣し、呼吸が苦しくなってくる。カゲツの赤くなってくる目を見てられず、震える息を抑えながら地面を見ることしかできない。
鬼火が、死んだ?
鬼火の腹を貫通した槍の先が、とめどなく溢れる赤い血が、槍のような凍てつく真実で心を殺す。
霞むほど柔らかく微笑んでいた鬼火と、それを包むライガの二人の姿が脳裏に浮かび、サンはぎゅっと目を瞑った。止められずに震える息は、抱えきれないもので地面を濡らす。
カゲツがサンの戦装束に掴みかかり、思い切り頬を殴りつけた。サンは地面に手を突いて嵐の後の草のようにうな垂れた。カゲツは詰め寄って拳を握り、歯を食いしばって見下ろした。
「なんて様だ! 悲しみは俺だって同じなんだ! お前がそんな様子じゃ――」
サンは、ばねのように立ち上がり、カゲツの胸ぐらを掴みあげる。
「涙も見せないお前に言われたく――」
カゲツの、食いしばる仮面を剥がさんと零れ続ける心の叫びを見て、サンは手を離した。
横で咳払いが聞こえて、サンとカゲツは鼻を啜りながら、小手の裏側で素早く顔を拭うと、咳払いの主を見上げた。
「ハワ長老、ライガを助ける手立てがあると、カグラから聞きました」
「あぁ。だが、もういいのかね?」ハワは、サンとカゲツの二人を交互に見て手をひらひらとさせた。「人間の、時に激しい交流には、お前達も同じ生き物だと親近感を覚えるゆえに、嫌いではなくてな。終わってないなら、儂はここで見物させて貰うのだが」
「いえ、終わりましたのでお気遣いなく」
「あぁ、終わった」
ハワは額を指で掻くと「そうか……」と言って、ついてくるように促した。
森の中は、奥へ進む度に光脈が増えていき一層明るくなった。大樹から垂れ下がる蔦や苔類は、まるでガラスのように見る角度によって色を変える。地面に咲く葉のない花々が、白い花弁を輝かせてこちらを向いている。雌しべや雄しべがある場所には、蜜なのだろうか、ぷるっとした液体と固体の中間のような物がある。いや、あれはハーリトの鬼が切り株から採取していた液体に似ている。なら、あれは森の生命力ということなのだろう。
一匹の小動物が木を伝って降りてきた。猫のような姿をしているが、尻尾が三本、足も六本と普通の森では見られない姿をしている。牙や爪は銀色をしていて、眼は黒目に金色の虹彩といったもので、鬼のそれと同じだった。
その猫にも似た小動物が、好奇な目でサンとカゲツの周りを跳び回り、やがて興味を失ったのか花の蜜のような液体を舐め始める。白い花弁が小動物に纏わり付き、鳴き声を上げる間も無く小動物は地面に引きずり込まれてしまった。
それを見てしまったサンとカゲツは、目を丸くさせてハワに説明を求めた。
「あれは植獣だ。蜜を出す花を咲かせ、寄ってきた動物を食べるやつでな。賢い連中だ。むやみに捕食せずに、蜜を与えるからこそ動物に危険だと学ばせない。そして、ある日パクりと食らうのだ。植獣の典型的な姿である」
サンは唾をごくりと飲んだ。周囲の植物となんら変わらない姿を見せられては、この森全てがそう見えてくる。
ハワが、サンの顔を振り向いて愉快そうに笑った。
「案ずるな。儂らは人は食わん」
サンは眉を訝しんだ。カゲツも同じ顔をしていたが、それだけでは足りず棘のある声で言い放つ。
「よく言うよ。人間は最高の獲物なんだろう」
ハワが、今度は声をあげて笑って見せた。
「儂らが人間を食うとな? 赤子の天ぷらや、臓物の漬物を好むというのを信じておるのだな」
カゲツが足を止めた。
「臓物の漬物……だって?」
カゲツの反応はもっともだ。俺だって、シキという人物の記憶の中で、鬼が赤子の天ぷらは最高にうまいと言っていたのを覚えているし、シキの母親を食料として使えると言って、木に吊るして捌いたのを鮮明に覚えている。
「まぁ、信じてくれても構わんよ。それで人間が、ウラドから離れて与り知らぬ場所で生きてくれるならばな」ハワは、そう言って足を止めると口笛を鳴らした。「着いたぞ。驚いてもそれを抜くでないぞ」
ハワが指差す刀の柄を握りたくなったが、サンは拳を握ってそれを留めた。カゲツも腰帯に親指を入れて、しきりに周囲へと目を走らせている。
脳天を劈くような金属音が頭から胸元まで貫き、サンとカゲツは地面に膝と手を突いた。痛みはないが意識を吸われるような感覚に、二人は努めて冷静に呼吸を繰り返し、知らぬ間に握っていた刀の柄から手を離した。
〝穢れよ、何を望みここに立つ〟
言葉、というより、思念そのものが頭の中に響いた。
身体中から噴き出すように汗が流れ落ち、視界がぼやけていく。それでも、意識は手でものを掴むように入り込んでくる思念を感じていた。
なにを望み、か。決まっている。大切なものを、ライガの命を救うためだ。
〝奪い、殺してきたものを助ける道理はない〟
まるで、俺がこの思念の何かを奪ってきたような物言いだ。鬼のことを言っているならば、それは生きるために必要だったことだ。鬼が襲ってくるから、俺は戦った。
〝紡ぐ歴史は雪の如く、その血は岩よりも確かなり。知るがいい、己が内に〟
そう思念が響くと、意識が頭のてっぺんから引き抜かれていく。太陽の光を目指して昇華していくその感覚は、焦がれたものへの高揚感から、湯船でひと息ついた時の解放感が混ざったようなものだった。
どれほどの時間、その感覚の海に漂っていたのだろうか。気がつけば、知らない砦の回廊に立っていた。胸の高さの狭間の向こうに広がる、高い陽射しに銀光放つ深緑の森を眺めるも、匂いも暑さも感じつことはなくガラスの箱の中から眺めている感覚だった。だけど、この感覚には見覚えがあった。シキの記憶を体験したときのそれだ。だけど、あの時とは違い体が動かないし、右目も見えない。
ここはどこなのだろうか。
眼下に広がる森を横断するように、いくつもの支流が流れていて、それらが一本の河となっていく。河の岸は少し入り組んでいて、この形には見覚えがあった。船着場、荷下ろしをする滑車、倉庫の類は一切見られず、森すら切り拓かれていないが、ここは蒼龍ノ國〈龍流京〉の玄関だ。そして、今立っている回廊は〈龍流京〉を取り囲む壁であり、観光用の展望台ではなく、防壁として存在している。
「死鬼様! 元老院からでありまする」
やはり、前と同じようにシキの記憶を見ているようだ。
死鬼が振り返り、伝令の方を向いた。女の伝令は戦装束に身を包み、懐から出したのであろう皺のついた手紙を差し出していた。息も荒く、胸元ははだけて巻いたさらしが見えている。
死鬼が開く手紙にはこう書かれていた。
〝元老右席 愛道克犠刀衆総長 死鬼
汝の度重なる逸脱行為及び、議定違反、もはやこれまでとし
元老院での審問の後、汝に処刑を言い渡す
元老院代表 天寵氏族〟
死鬼の手紙を広げた手は、読み上げるには十分すぎるほど動かずにいた。それもそうだ、処刑宣告を受けて平気でいられるはずがない。なのに、この人は浮ついた高揚感にも似た感覚を抱いていた。




