八十四話
俺達に選択肢はあったのだろうか。隣を歩くカゲツの握られた拳、強く踏み出す足取りと、重い石のような目を見れば、やはりなかったのだと思う。
緑の無い、黒く冷たい岩場を進むたびに、刀に触れたくなる。気を極限まで練り上げて体を包みたくなる。
前を歩く人の二倍はゆうに超える鬼の背中が、漆黒の画布となって月の光を鈍く写していた。周囲には一回り小さい鬼達が、槍を手に意識をこちらに向けている。少し高い岩場にいる鬼は、瞬きもせずに黒目に浮かぶ黄金の虹彩を爛々とさせて、俺達の一挙一動を見ている。
背後を歩くカグラは、振り向くたびに微笑んだ。今は、その微笑みが恐ろしくてたまらない。だけど、もっと恐ろしいのはこの先だ。
火季だというのに、北は寒く、風には雪が混じっていた。岩山の岩影には、いまだに雪がある。その岩山の頂上に辿り着き、サンとカゲツは息を呑んで互いの表情を窺った。
「あれが儂らの家〝リーフ〟だ」
ハワラビイことハワが、岩山より北側を指し示す。そこには、想像を絶する巨大さを誇る一本の大樹を中心に、背の高い妖魔の森が広がっていた。そして、その森の葉は黒みがかった銀色をしている。
鬼の家。俺達は、そこに入ることを選んだのだ。
あの滝で数百の鬼に囲まれて帰ることなんて許されるはずがない。鬼は、一緒に戦えないのなら、無事に返すと言った。だけど、誰がそんなことを信じられるだろう。カゲツの目にも、俺と同じものが見えた。そして、俺達は生きるためについてくることを選んだのだ。逃げ出せる機会を窺いながら……。
北の森のすべてが妖魔の森で、人とは相容れない。だが、その規模にサンとカゲツは畏怖の念すら覚えた。皇燕ノ國、その御役所の柱に使われていた木は、どこから持ってきたのだろうと考えたことがあったが、この森の姿を見れば一目瞭然だ。あれは妖魔の森の木なのだ。
一本一本が小さな家を納められるほどに太く、烈刀士ノ砦よりも背が高い。もちろん、森の中には陽の光が届くことはなく、はるか頭上にその存在をちらつかせるだけだ。目を凝らせば微かな光が見えるが、その陽光すら月のように弱い。森の中に下生えはなく、ふかふかとした土と、畏怖させるほどの存在感を叩きつけてくる黒い樹皮の大樹が、そこらに聳え立つだけだ。
その黒い大樹の幹で何かが動いたような気がして、サンは視線を凝らした。
あれは、鬼だ。
暗闇に慣れた目が数十の鬼達を捉えた。幹を這い上がり、へばりついて俺達を見下ろしている。
「来客は珍しいものでな。そのうち散るゆえ、辛抱だ」ハワが、大樹の仲間達を見回しながら言った。どこか楽しんでいるようだ。そして、森の中に現れた巨大な岩の前に来ると振り返って、手で何かを合図した。
振り向くと、今まで付いてきていた槍を持つ鬼達が、俺達の周りに円陣を作って整列した。俺達を見物しようと集まってきた野次馬への壁だ。野次馬の鬼達は槍を持っておらず、体も細かったり、小さい者もいた。もしかしたら、民のようなものなのかもしれない。鬼は皆戦い、筋肉を隆起させて鋼のような体で戦うものだと思っていたが、戦士とそうでないものとがいるようだ。
ハワが岩の上に立ち、四本の腕を広げた。暗くてよく見えないが、野次馬も応えるように腕を上げて手のひらをハワに向けた。
「彼らの挨拶です。今のは、腕を広げて傷がないこと、無事なことを教え、アイラの者達は、手のひらを相手に向けて迎え入れたのです」カグラが、サンとカゲツに微笑んで見せる。簪の小さな風鈴が、澄んだ音を立てた。
薄暗い森の中で行われている鬼の集会は、終始無言だった。ハワは何かを説明するように腕を動かしたりするが、言葉らしい言葉を発さない。あの名前を言うときのように、喉を震わせないように出す音を発したりはするが、やはり話さない。サンのその疑問に答えるようにカグラが口を開いた。
「彼らの言葉は、ルヴァの言葉です。私達が話しているのはアスロス語。今、彼らが使っているのはルヴァ語というものです」
そういえば、シーナさんが魔法を使うときに、歌うようでそうでない言葉を発していた気がする。どこかルヴァ語というものに音の流れが似ているあの言葉は、確か初めて賢者と対峙して龍人に呑まれたときだ。
「人も、そのルヴァ語を使う人はいるのか?」
「神秘を使うとき、ルヴァ語で形を決める方法があると聞いたことがあります」
形を決める。俺達の秘術でいえば、鬼火のように炎の燕を出したり、炎魔のように焔の魔人を出したり、烈刀士将のように羽衣で戦鎧を象ったりすることだろう。
「ルヴァってのは、どこの國なんだい?」
カゲツの質問に、カグラは紅い眼をきょとんとさせた。いつもは、謎めいて奥ゆかしいものを湛えているのに、こんな小動物な表情も見せるのか。サンはそんな思考を巡らせたが、カグラの言葉で思考は吹き飛んだ。
「国は知りませんが、戦神や他の神が国を築いたのなら、そこがそうでしょう」
「なんだって?」
カゲツの棘がある声は、思った以上に響いたようで、周囲の鬼の視線が集まり、サンは首元の襟に指を滑らせてカゲツに顔を顰めてみせる。
だけど、カゲツの疑問はもっともだった。なんで鬼が、俺達の神の言葉を話しているのだろうか。
カグラが、ハワや他の鬼達が解散するのを見ながら、サンを見て口を開く。
「長老殿の議はまとまったようです。殿方と共に戦場へ赴くことが可決されました」
「ま、待ってくれよ。力になるっていうのは、戦場に行くのかい? なんで鬼と手を組んで人を斬らなくちゃならないんだ」
カゲツの取り乱した様子は見ものだったが、さすがに笑うわけにはいかなかった。勝手に話が進んで、なんで戦場に向かわなくちゃいけないんだ。
「カグラ、ちゃんと説明してくれないか。カゲツの言う通り、俺達は人に刀を向ける気はない。ライガを助けるためであってもだ」
カグラは、小さく驚いたかのように口を開けて、それを手で隠した。
「忘れていました。殿方は、アイラ同士の戦いに力を貸すのです」
どうしてこうなったのだろうか。
俺よりも早く精神的に立ち上がったらしいカゲツが、鍔に手をかけながら吼えたてる。
「アイラっていうのは氏族みたいなものなんだよね? それに戦なんて最高の歓迎会だよ。はるか北までやってきて、鬼の喧嘩の仲裁をしたとなれば、末代まで語り継がれる偉業にもなる!」
「えぇ、誉れ高く、最高なことです」
「最高じゃないよまったく!」カゲツは、カグラを喰ってしまいそうな焼けつく目で睨みつける。だが、鬼の視線に気づいたのか、カグラに詰め寄ると鎮めきれていない声で続けた。「俺達は、ライガを助けられるって聞いたからきた。それに、鬼と手を組むなんてできるわけがない。こいつらは、人間の敵なんだぞ。君がなんでこいつらと仲がいいのかは預り知ったことじゃない。だけど、俺達は鬼を斬るモノノフだ。鬼のために刀を抜くなんてこと、あってはいけない」
カゲツは俺に視線を移してきた。なにかを待つように。だけど、俺の中にはカゲツの望む答えはなさそうだ。
「カゲツ、お前らしくないぞ。少し頭を冷やせよ」サンはカグラの方を向いて、終始冷静に努めて言葉を重ねる。「まだ、何か説明できてないことがあるんだろ。俺達が納得できるように話してくれないか」
カグラは微笑みながら目を伏せた。
「彼らには氏族と似たもの、アイラという集団があります。氏族、国、家族、それと同じです。そして、アイラ=リーフは、アイラ=ハーリトと対立状態にあります。ヴィアドラが二千年も戦い続けているウラドは、殿方達が鬼と呼んでいる者達は、そのアイラ=ハーリトの者達なのです」
ハワが岩から滑り降りてきて、三人の会話に入ってきた。
「儂らリーフは、人間との争いを望まんのだ。共に生きられる、そう思っておる。だが、ハーリトの者達はそうは思わん。あんたらは、あいつらにとって相容れぬ敵であり、先祖の仇だからだ」
「仇?」
ハワの大きな黄金の目は、俺とカゲツの目の中に何かを探すように見つめてきたが、その眼差しが遠くなった。カグラがまるで壁に描かれた絵でも見つかのような眼差しで、サンを見る。
「これが、赤子の揺り籠と呼ばれる所以なのです」
ハワは、カグラのその言葉に、顔を手で覆い拭った。
「人は、過去を、罪を捨てたのか」
その言葉に、サンは気づけば口を開いていた。
「そんなふうに言われる覚えはないぞ。俺達は鬼のことを御伽噺の中でしか知らなかったんだ。鬼と戦っている烈刀士の存在すら、京の連中には遥か遠い異国の存在なんだ。そんな仲間の存在も語り継がれない世の中で、どうやってあんたらのことを知れっていうんだ。どうやって過去を知れっていうんだよ」
ハワは目をぎゅっと閉じた。
「儂らウラドは、森の心臓である〈大霊樹〉から生まれる。そして同じ〈大霊樹〉から生まれたウラドでアイラを築き、〈大霊樹〉が育む森で生きる。そして、アイラ=ハリートの〈大霊樹〉は、ヴィアドラにあったのだ。君達の先祖が、ハリートの生きるための場所を奪い、北に追いやったのだよ」
ハワは、顔を背けて半ば諦めたような目だけをサンに向けた。
「ところで、サンよ。君がアル=アシャルの狂気というのは本当かね」
ハワは、俺がその意味を知らないとわかっていたのだろう。その意味を話してくれた。
アル=アシャル。あの旗印の鬼が、俺をそう呼んだ。それは、ルヴァの言葉で〝最悪な竜巻〟という意味らしい。嵐のようにやってきて、全てを無茶苦茶にしてしまう人間を忌みする名前。その人間の中でとりわけ危険な存在をアル=アシャルの狂気と呼ぶのだそうだ。
だけど、アイラ=リーフの者達は、俺達を一言もアル=アシャルとは呼ばなかった。それどころか、俺の名前を尋ね、呼ぶのだ。
強烈な視線を向けてくるカゲツが、息を荒くしている。俺を咎めるように、真っ直ぐと眉を強張らせて見つめてくる。俺は、口を緩めて見せた。カゲツが、口をきゅっと閉めて息をどっと吐いた。
「悪い、カゲツ」サンはそう言うと、ハワを見上げた。「戦うよ。だけど、ライガの救出となんの関係があるんだ」
ハワは頷いて、自分の顎をさすった。
「うむ。ハリートの者が、人を連れて集落に戻ったと聞いてな。儂らはそういうことがあると、人間を助けにいっておるのだ。だが選別はする。そのために偵察をするのだが、それがライガだと知ったのだ」
「あなたは、ライガの顔を知っているのか?」
ハワがカグラの方を見た。カグラは、長い睫毛の下の目を伏せる。
「このカグラ、多くのものを見ておりますゆえ」
サンはカグラの言葉を小さく笑った。〈鬼目郷〉で、カグラは俺のことを見ているから独りではないと言っていたけど、仲間達のことも見ていたということか。
「ライガが、今も生きていると?」
「さよう。人間が、グズリ、悪魔、餓鬼と呼ぶものが人の成れの果てということは知っているな?」
ハワの衝撃的な発言に、サンとカゲツは驚く力は残っていなかった。ここで見聞きするものに全て驚いていたら、禿げてしまう。
「知らない。餓鬼が人なのか。そうなのか……。それで?」
つまり、昔は人だったものを、容赦無く斬っていたのか。そう考えると、いくら獣にしか見えないといって、いい気分はしない。
「人間も狩りをするときに獣を使うであろう? あれと同じだ。強い人間ほど、使えるものになる。だが、強いものは精神も強い。人間を転化させるには、儂らの森のものを食べさせ、血を与える必要があるのだが、強いものほどそれを拒むものでな。ライガは相当な強さを持っているらしく、未だに粘っておるわ」
「殺されてるかもしれないだろ」
「暴れられればそうだろうが、それはない。ワグウォルの鎖に繋がれておるのだよ。狂気の力を封じ込める、黒い鉱石だ」
黒刀と同じ物質ということか。なら、さすがのライガも暴れられないということか。
「サン、本気なのかい?」
カゲツの短い言葉に詰まった意味は、とてつもなく重かった。無断で砦を飛び出し、敵である鬼に手を貸している。人としての一線を越えようとしているのだ。
「あぁ、本気だ。守りたいものを守る。そのために振るうと決めた力だ。ライガは、大切な守りたいものなんだ。今使わなくてどうするんだよ」




