八十二話
サンとカゲツは、木の枝と蔦で即席の担架を作り上げると、せーの、と短い掛け声と共に鬼火を担架に乗せる。鬼火の青白い紙みたいな顔を見て固唾を吞む二人は廻る思考を止めるかのように口を結んだ。サンは笛を吹いて応援の要請を森に響かせる。
「ライガ、鬼火を砦に運ぶ! 手を貸せ!」
サンが振り返った場所にライガの姿はない。サンとカゲツは目を合わせ互いの目に怒りがよぎったのを押し潰し頷くと、担架の端を持った。
街の中で飯屋の香りを感じるように唐突に、背後から気配を感じた。これは数十の餓鬼のものだ。カゲツも気付いたようだが、目に迷いの欠片すら見せずに、ライガは強い、と言った。その言葉を証明するように、背後から白い閃光と雷鳴が森に響き渡り、サンとカゲツは全速力で砦に向かって走った。木の根に躓き、何度も転びそうになりながら息を荒くさせて走る。森から出ると、砦の方から烈刀士がやってくるのが見えた。作業をしている雑士達が、何事かとどよめき、危険が迫っていると感じたのか、砦に逃げ帰る者達がいる。その横をサン達は通り過ぎるが、応援にきた烈刀士がそれを止めた。
「この重症じゃ救護室まで間に合わんよ龍人様。ここで処置をするゆえ、しばし警護にあたられよ」
そう言った烈刀士の冷静な顔を、サンは問い詰めるように睨んだ。死なせたら、容赦しない。そう言葉を籠めた目で。だが、その烈刀士の顔には見覚えがあった。この人は、救護室にいた烈刀士だ。
カゲツが、鬼火の横に膝をつき、処置を始める烈刀士に淡々と状況を説明した。
「背後からの刺傷。鬼の槍、刃は折れていない。それと、お腹に子供がいる」
最後の言葉を聞いて、烈刀士は一瞬手を止めてカゲツの顔を見上げた。その目には多過ぎる問いが渦巻いている。
「俺の子じゃないですけど、死んでは欲しくなくて。訊きたいことがあれば、鬼火を助けて直接訊いてもらえますかね。兎に角早く処置をお願いします」
カゲツの言葉を聞き終わる前に、烈刀士は処置を始めた。ロジウスやナガレと同じ治療術を使うところを見ると、任せて良さそうだ。サンは、森の方を向いて気をより多く練り上げると解放して周囲を探った。
応援の烈刀士がさらに三人、砦からやってきた。治療術を行なっている烈刀士の班長と班員達だった。
サンは、カゲツに耳を貸せと目配せをした。
「腹の子の父親はどこに行ったんだ」
カゲツが、ちらりと応援の烈刀士達を見た。彼らもこちらを気にしているようで、カゲツは声を落とす。
「あいつの地面を蹴った足跡が、森の奥に向かってた」
「復讐か」
サンは、ライガの気持ちが嫌というほど口に広がり、苦々しく歯をすり合わせる。師匠が死んだとき、目の前で死ぬところを見たとき、悲しみよりも喪失感が強かった。そして、次に心に灯ったのは怒りだった。師匠を死に追いやった犠牲そのものへの怒り。形のないものへの怒りは復讐のしようがない。だけど、ライガは違う。鬼という復讐の相手がいるのだ。俺だって、相手がいればライガと同じ道を歩んだだろう。
「カゲツ、俺はあいつを追う。数日は戻れないかもしれないから、うまく話をつけておいてくれ。得意だろ」
カゲツが片方の眉を上げて口を開きかけるが、それを見届ける前にサンは地面を蹴って矢のように駆けて森を目指した。
カゲツは、ライガの足跡があったと言っていた。それを追えばまだ追いつけるかもしれない。
サンは、先ほど自分達がいた場所にたどり着くと、目を凝らして地面を眺めた。地面が鬼火の血で濡れていて、まだまだ乾きそうにない。どうしてあのとき言い争いなんかになってしまったのだろうか。二人のことをもっとしっかり見ていれば、子供ができたという結果を、素直に受け入れて祝福できたかもしれないのに。祝福してやりたかった。サンは拳を握りながら、うなだれて首を振った。
ライガの言う通りだ。俺は、二人が規則を守らず自分勝手な行動を怒ったが、その真意は、二人の行動で龍人班が咎められることだ。その責任は、班長の俺にのしかかる。二人を想っての怒りではなかったんだ。
自分達が鬼火の応急手当をしていた場所に立ち、ライガがどこに立っていたかを思い出す。そして見回すと、あった。ライガの足跡だ。地面がへこみ、一部は盛り上がっている。相当な力を込めて駆け出したのだろう。剣気を使っているなら、かなり遠くに行っているかもしれない。
気を操って周囲を探ってみるが、やはりライガの気は感じられなかった。
ライガの足跡を辿り、地面や木が焦げている戦闘の残滓を見つけ、更に走って一時間近く進んだだろうか。その頃には気を練り上げ続けることが辛くなり、羽衣を解いて木陰で横たわった。
休んでいる場合じゃない。そう思いながらも、荒げた息はおさまることを知らず喉を鳴らしていた。
見上げた妖魔の森は、樹々の生い茂る葉の間から僅かに陽の光を覗かせるだけで、少し暗い。森に入るとき太陽はまだ頭上高くにあったはずだ。火季に入って、妖魔の森はより濃くなったというわけだ。暗闇は鬼の味方だ。そう思うと、自分が今どこにいるのかを思い出して、今すぐにでも気を握ろうと練り始める。膨張する痛みが頭に響き、気持ちが悪くなってきて、すぐに手放した。
これは長丁場になりそうだ。こうなるなら、二日分の飯くらいは持ってくるんだった。水もない。
サンは、自分を嗤い泡のような唾を飲み込んで深呼吸をした。今は時間がない。今すぐにでも追跡を開始しないと。あの状態のライガでは鬼に返り討ちにされて無惨に殺されるのがおちだ。そんなことはさせない。
自分の気を練り上げるのは、体力と精神に負担がかかる。普段使っている龍人の力は、もはや自分のものと変わりないものへと変わっていて、体力も精神も疲弊している今は引き出すのは難しい。手取り早いのは、引き出さないように抑えている、龍人の怨嗟や怒りの力を使ってしまうことだ。だけど、それを今の状態で操れるだろうか。
背に腹はかえられない。
僅かに葉擦れの音が流れる森を見上げながら、深呼吸を繰り返す。体の奥へ、意識の奥へ、心の奥へと意識を向ける。やがて感じる龍人の力。親しんだ強い光だ。その光を握りたい。だが、体が耐えられないと頭痛と吐き気をもって叫んでいる。今はこの力は使えないのだ。変わりに、この光に照らされ、この光を握っているときに常に感じる闇に意識を向ける。常に背後で感じる、ねっとりとして熱く重い闇を感じて、振り返る。
海に沈んでいる気分だった。目の前の深淵を象る闇が、俺を見つめている。その巨大さに意識が棒になってしまったかのように硬直してしまう。背後に感じるあたたかい光の元に帰りたい。
周囲を取り囲む闇が対流して俺を取り囲んでいく。背後の光が感じなくなった。黒い空間は水の重さを持った旋風となって、俺を揉みくちゃにしていく。息ができない。黒い風を振り払おうともがくも、抵抗は露ほども意味をなさない。どこかに引き込まれていく感覚が体全体を襲ってくる。
やめてくれ、呑み込まないでくれ。
叫びたくても声は出ない。これは、意識と意識の闘いなのだ。だけど、抵抗する術がない。黒い風に揉みくちゃにされて、やがて放り出された。落下するような感覚だが、天地を感じることはない。立ち上がろうと考えると、すでに黒い水の上に立っていた。
星の無い夜空に取り残され、どこまでも広がる黒い湖に立っているようだった。自分の足元から鼓動のように波紋が広がっていた。ずっと遠くまで続いていく波紋が跳ね返ってきた。
人が立っていた。違う、人の形をした影だ。水のように形が定まっておらず、誰かもわからない、幾人もの顔が入れ替わっている。その共通するのは、叫びと嘆きに満ちていることだけだ。
影が水のように定まらない手を伸ばし俺をつかもうとしてくる。同時に、背骨の中になにかが入ってくるような感覚に襲われた。体の隅々が冷たい泡になってしまうようで、体が意識だけを残して分解してしまいそうだった。そして声が響いた。
〝殺せ、殺してしまえ〟
何人もの男の声が混じり叫ぶ言葉が、体の芯から沸き立ってくる。
このままだと、俺は消えてしまう。そう確信した。あたたかい光の力を求め、泡のようになっていく感覚の中で、必死に自分をつなぎとめる。
頭上が眩い光に包まれ朦朧としてきた意識の中で、影の腕が伸びてきて俺の首を掴もうとしているのが見えた。
間に合わない。
頭上の眩い光が収束して、夜空を駆ける彗星のように降ってくる。降り立った光に影の腕が黒い塵のような破片を巻き上げて切断されて、黒い湖に沈んでいく。影が叫び声をあげて、入れ替わる顔が逃げるように自らの体に陥没していく。
光も人の形をしていた。背筋がすらっと伸びて、羽衣を纏った光でできた老人だ。それは、どこかで見たことがあった。たしか、天星命神宮に行くときに霧の中で見た人と同じだ。長い髭と、立ち姿は今でもはっきりと覚えている。
その光の老人が、埃を払うかのようにさっと手を動かした。たったそれだけで、影の人が吹き飛ばされる。そして黒い空間と湖が、引っ張られる布のように影の人と一緒に遠ざかり、光に満ちた空間が代わりに現れた。
光の老人が手を動かすと、光の空間が黒い空間を包み込み、押さえつけて一箇所に縮めていく。人一人分までに小さくなった空間の中で、影の人は光の鎖に繋がれて動かなくなった。
黒い空間がなくなると、サンは張った糸を緩めたように膝に手を突いて、手の甲で額を拭う。だが、そこに汗はついていなかった。
そういえば、ここはどこだろうか。龍人の怨嗟や怒りの力を使おうとして、意識を繋げようとしたら、黒い空間に引きずり込まれたんだったか。
老人が振り向いて、ふさふさとした白髪の眉を下げて顎髭を撫でると、一つ鼻を鳴らした。すると、姿が光の砂の風となって空間を滑り、サンの目の前で再び老人の姿を象ると、手を後ろで組んだ尊厳ある佇まいで俺を見つめてきた。
老人は翡翠色の透き通った眼を隠してしまいそうな白い眉を小さく顰めた。だが、その眼は赤子を包む布のようだ。サンは、老人にここはどこなのかと尋ねようとした。
〝己が魂の世界〟
その言葉が、唐突に自分の思考の中に浮かんだ。
〝口では語らぬ〟
感覚として、理解できた。感情が思考になる前に相手に伝わるのだ。剣気を纏い、相手と力をぶつけ合ったときに、その相手の力の源となっている感情や信念がわかるのと同じだ。ならば、この老人は俺の中にある先代の龍人の魂なのだろうか。流石に、戦神なわけがあるまいし。
だが、その真っ白な長髪に白い眉と髭、そして、宝石と夜空が生み落としたかのような翡翠色の眼。そのどれもが、人には持ち得ない美しさを持っていて、存在そのものに敬神の意を抱くほど、戦神なのではないかと本気で考え始める。
この場所のこと、あなたは誰なのか、その疑問はすでに相手に伝わっているのだろう。老人の口髭の端が僅かに上がり、目は柔らかかった。
老人は、手を伸ばしてきて胸に触れてくる。すると、視界が光に覆われていき、体が浮上する感覚に包まれる。どこまでも高く昇り、感じる風は水のように滑らかく、紗に体を包まれたような感覚は、さながら湯船に浮かんでいる気分だった。
湿った空気をいっぱいに吸い込んで、眠りから覚めたように目を開けた。ゆっくりと身を起こし、自分が体を放置して精神の海に沈んでいたことに気がついて、思わず首をすくめて相変わらず鬱蒼と茂り影を漂わせる森を見回した。
もし、寝たまま餓鬼に食われていたら。そう考えて股の間が縮こまる。サンは気を操って周囲を探り、背後に気配を感じて兎のように跳びはねて立ち上がると、刀を二本とも抜いてその気配の方に振り向いた。
樹の後ろから、そっと女が出てきた。前髪を切り揃えた黒髪に、紅い眼、風鈴の簪。
「カグラ、なのか」
紅を添えた小さな唇の端を上げて、カグラは目を伏せて頷いた。簪の風鈴が、小さく澄んだ音を転がす。
「なんでこんなところに」
「しばらくぶりです、龍人様。そして、初めましてでしょうか、そのお友達の殿方」
背後で枝を踏む音がして振り返ると、刀の柄に手を添えて抜かりない眼差しでカグラと俺を交互に見回すカゲツの姿があった。
カゲツの視線が、カグラと俺、再び俺のことを足下から顔までをたっぷり二往復する。
「サン、これはどういう状況だ? それにお前、羽衣を纏わなくても立てるようになったのか?」
サンは、そんなわけがないだろうと言おうとして、自分が普通に立っていることに気がついて、口が開いたまま固まった。
「なぜだかわからないけど、立てるみたいだ」
カグラが、口に手を添えて可憐に笑った。
「気の使い方が上達したのだと思います、龍人様」
サンは、頷きながら、気付いたようにカグラを見た。
「どうして、君がここにいるんだ? それにカゲツも」
カグラは目を伏せて僅かに俯いた。カゲツは答える気はなさそうだが、おおむね俺を追ってきたのだろう。
「お迎えにあがりました。もう一人の憐れな殿方のところへ。名を、ライガ様と仰りましたかと」
サンとカゲツは、固く緊張した目を合わせると、一つ呼吸を置いた。サンはカグラを見て、腰に手を置いて笑みを見せる。
「よかった、知っている人がいて。どこにいるのか教えてくれるか?」
「わたくしは、お迎えに上がったのです。龍人様」
「その龍人様っていうのはやめてくれよ。サンでいい」
「では、わたくしのことはカグラとお呼びください、サン様」
サンは頷きながら、カグラの紅い一切のぶれを見せない眼差しに見据えられて、眉を曲げてカゲツを見る。
「なんで君がライガの居場所を知ってるのか気になるところだけど、答えてはくれないんだろ?」カグラの長い睫毛が伏せるのを見て、サンは「案内してもらおう」とカゲツを見た。
カゲツは、喉の奥から曇った息を吐きながら、柄に添えていた手の親指を帯に差し込んで、カグラの一挙一動を一枚の絵に切り取るかのように見据えたいたが、やがて息を大きく吐くと頷いた。




