八十一話
見慣れた木造の梁が走る部屋の天井が、目を開けて最初に見えたものだった。周囲を見ようとして目を動かすと、頭の中で重い痛みが膨張してきて呻き声すらあげられず、再び目を瞑った。
衣擦れの音が聞こえる。再び目を開けると、真が寝台の横に立ち、食い入るように俺の顔を覗き込んでいた。
どれくらい寝ていたのだろうか。まさか、元老院の議会に向かった時みたいに、数週間寝てたとかは勘弁して欲しい。目覚めたら、烈刀士と元老院が戦争を始めていたなんて、洒落にならない。
「俺、どれくらい寝てた?」
「どれくらいって、一日も寝てないよ。烈刀士にしては寝坊がすぎるけど」
それを聞いて、サンは寝台に沈み込むように長く息を吐いた。
「昨日の損害は? わかる範囲でいいから教えてくれ」
真は、予想以上に被害の状況などを知っていて、細かく教えてくれた。どうやら、迎陽で皇燕将達の話を横で聞いていたらしい。
昨日の鬼による大規模な襲撃は、壱ノ砦、弐ノ砦、参ノ砦も同じように遭ったが、鬼よりも餓鬼を主体とした小部隊だったそうだ。旗印の鬼が現れたのは肆ノ砦だけであり、蒼龍将が留守にしていて一番守りが薄くなっている壱ノ砦が狙われなかったのは、不幸中の幸いだった。大難が小難になった、という考えは被害を聞いて消え失せてしまったが。
烈刀士二十名の殉職。すべて肆ノ砦の烈刀士達だった。これは五つの班がまるまる壊滅したことと同じだ。
「でもね、兄さんが出陣する前の犠牲だよ。兄さんが出てからは、一人も犠牲は出てなかったんだ。それどころか、すごかったんだよ。梯子守のおじさんが兄さんの戦いの状況を伝える度に、こっちでは歓声があがってさ。みんなして龍人、龍人って声を上げてた」
それは俺がやられる前の話だろう。それに、俺がもっと早く体を動かせるようになっていたら、最初から戦いに参じていたかもしれないんだ。また、犠牲だ。俺はそれを出させないために、強くなろうと決めたのに、肝心な時に力が出せないんじゃ、なにが龍人だ。
「皇燕将殿も言ってたけど、兄さんが時間を稼いだおかげで、鬼を退ける秘術の用意ができたって。兄さんが命を張ったおかげで、誰も犠牲にならなかったんだよ」
真が眉の下がった顔をするのは珍しい。いままで見たことがなかったかもしれない。
サンに見つめられた真は、目をきょどきょどさせて蔀窓の外をのぞいた。
「ありがとな、真」
真は、鼻の下を指で擦り、へへっと笑うと振り向いた。
「礼は稽古で返してくれよ」
サンは柔らかい微笑みで頷いた。部屋の扉が開かれ、皇燕将が慈悲の欠片もない鋭い眼差しで入ってきた。サンと真を交互に見てから、部屋をぐるりと見回す。
「どうやら持ち直したようだな。ならば、もう任に就けるか」
真が腕を組んで口をへの字にして皇燕将を見上げた。皇燕将はそれに気付いていないのか、無視しているのか、サンをじっと見つめて答えを待っていた。
「就けます。班長は、また俺ですか? カゲツのほうが合っていると思うんですけど」
「その力と同様、責任は一度背負ったら果たすものではないのか?」
真の憐憫にも似た笑みに、サンは噛み締めるように頷くことしかできなかった。
再び龍人班として、カゲツ、ライガ、鬼火と任に就けるのは楽しみでもあり、不安でもあった。三人が部屋に担架を持ちながら入ってきた時は、目を見ることもできず、沈黙が漂うのが嫌で、俺は使い古されて黒ずんだ木製の担架を見つめながら最初に口を開いた。
「なんども迷惑かけて、ごめんな」担架を床に下ろした三人は、そのままの姿勢で俺を見上げて固まった。「だけど、こうやってまた受け入れてくれて、ありがとう」
首から下の感覚はないのに、全身に汗をかいている気分だった。龍人として果たさなければならない責任を果たせず、支えてくれている皆に報いることはなにもできていない。それに対する言葉にしては足らないことはわかっている。だけど、精一杯だった。
今度こそ、しっかりと、守るんだ。その決意を籠めて、三人の目を見つめた。
カゲツが鼻で笑い、ライガと鬼火と視線を交える。
「なんで謝るのさ。毎回全力でぶつかってるんだから、誇ってもいいくらいだと思うけどね」
ライガが頷きながら立ち上がり、サンの動かない体を手で示してみせる。
「あぁ、それにいい手本だ。鬼火もそれくらい細ければいいのにな」
「悪かったわね、あたしは烈刀士なもので」
鬼火の火をつけそうな目で睨み上げられているライガは、サンを見たまま片笑んで見せた。四人の自然な笑いと、言葉のやり取りが部屋を満たした頃、サンは担架に載せられて、再び戦闘区域へと向かった。
戦闘区域は、先の大襲撃以降ひっそりと静まり返っていた。餓鬼も姿を見せず、獣一匹すら見られない。
そんな森を数日駆け回った頃、大襲撃によって出た亡骸による腐臭が砦付近まで漂い始めた。疫病の危険もあり、鬼や餓鬼の亡骸を燃やす任が出された。
だが、肆ノ砦の百人はいた烈刀士は八十人と数を減らし、夜番と昼番は砦に帰らないで連日巡回や見張りをする事態になっていたため、人の手が圧倒的に足らなかった。
そして、本来であれば北側に出てはいけない雑士が、戦闘区域である砦よりも北の大地に足を踏み入れて、鬼や餓鬼の亡骸を引きずって亡骸の山を作っている。有志で集まった雑士達ではあったものの、初めて鬼を見たと言う者も多く、酷く怯えた様子だった。
俺達龍人班は、連日その雑士達の警護に当たっていた。森と砦の境にある戦場で気を操って広範囲を警戒し続けるのだ。
サンは担架で横になったまま、周囲の気配を探っていた。最近、気を練り上げるとき、龍人としての気なのか、自分の気なのかわからなくなることがある。羽衣の色も、龍人のものを使うときには白色なのに、最近では自分の薄い緑色と混ざり白緑だ。それほどに自分と馴染んでいて、扱いに慣れてきていると考えれば気持ちがいいが、一抹の不安がある。前まで感じていた、先代の龍人の意志や怨嗟はどこへいったのだろうか。それすらも、自分のものとして自然に感じてしまっているのだろうか。そうなると俺は俺なのだろうか。それに、他人の怨嗟や怒りで誰かを傷つけることになったら困る。
サンは、初めて龍人の力を使ったときに自分の体が乗っ取られて、ヴィアドラを憎む先代の魂に呑み込まれそうになったのを思い出して、身震いする気持ちになった。
練り上げた気を解放して、風に流すように動かして辺りを探る。気を研ぎ澄ませば、自然界の気も感じられる。自然の気は、深深としている。滝や川ではそれが濃厚で、躍動的に感じられ、岩場だらけだったりすると逆に薄く乾いた感じになる。動物は大きくなればなるほど気配が強くなる。動物は、自然の気に似てはいるものの、蜜のように濃厚だからすぐにわかる。例えるなら、自然は水で、動物は蜜だ。
人の気配もわかるようになった。人のはどれも粘っこく、油のようにとろっとしている感じだ。人によってその油のような感覚は薄かったり濃かったりするが、自然や動物の気よりも複雑だ。自然や動物が一色ならば、人間は七色といったところか。
人の場合はそのおかげで区別がつきやすい。混ざり合った色の他に、風味のようなものがあるのだ。感覚的には、味噌汁は味噌汁の味だが、具材で風味が変わるように、その風味で誰だかがわかる。
そして、今感じている二つの気配は人で、一人はライガ、もう一人は鬼火だ。
二人は持ち場を離れて森の中へと入っていく。何か見つけたのだろうか? もしも鬼なら、必ず一人は応援を呼ぶために来るはずだ。
異例の事態ということだろうか。今は何が起こってもおかしくはない状況にある。いつ鬼が襲ってくるかもわからないのだ。
サンは羽衣を纏うと立ち上がった。最近では、鎧を象るほど濃密な羽衣でなくとも、体を動かすことができるようになっていた。サンは全速力でライガ達の方へ飛ぶようにして駆けて森へと入っていく。樹々を縫って盛り上がった根っこを飛び越え、先にある樹の根の陰で二人の気配が止まったのを感じて、サンも速度を落とす。二人が何かを追っていて身を隠したのならば、その邪魔はできない。サンは最小限の羽衣を纏うと、忍び足で近付いていった。
そして、樹の根から身を乗り出して二人のいる陰に入り込み、サンは目を疑って固まった。
二人が肌けて絡み合っている。
サンは素早く背を向けると、片手で顔を覆いため息を吐いた。
後ろでもぞもぞと衣摺れの音が流れ、それがやむと「もういいか」とサンはぶっきらぼうに言った。
「龍人さんよ、覗きはよくねぇぞ」
ライガの言葉に、サンは首を回して振り向くと睨みつけた。ライガは飄々と肩を上げて見せる。
「怖い顔すんなよ」
「怖い顔? お前達正気かよ。今は警護なんだぞ。俺達烈刀士を陰で支える人達が、足を踏み入れなくていいとこ
ろまできて、命を張ってくれてるんだ。それなのに」
サンは滝のように出てくる考えを詰まらせながら、額に青筋を立てて二人が絡まっていた場所を手で示す。「鬼火、お前もなんで一緒になってやってるんだ。姉の皇燕将にも示しがつかないだろうに」
「姉さんは関係ない」
ライガが二人の間に割り込み、サンの肩に手を置いた。
「あんな大きな襲撃を仕掛けたなら、次の襲撃には準備が必要だろうよ。そんな張り詰めてきりきりしてると、得られるもんも得られないぞ」
「お前達みたいに、抜け切ってたら守れるものも守れないだろ」
ライガの表情は変わらないが、目の下が痙攣した。ライガの後ろにいた鬼火が、腰に手を置いて遠い目で俺を見てくる。
「あたし達は、あんたより長く任についてるの。毎日のように命を危険に晒してるのよ。命を感じて生きちゃいけないってわけ?」
サンは、言葉に棘を隠さない鬼火に首を振った。
「だけど、烈刀士になるときに覚悟したんじゃないのか? 自分の人生をモノノフに捧げるって。廉潔なる初志はどうしたんだよ」
ライガがサンの肩を突き放して、鬼火の隣に歩み寄って鬼火の腹に手を置いた。
「あぁ、決めたぜ。廉潔なる初志は微塵も消えちゃいねぇよ。むしろ強くなってる。堅くなってんだ」ライガは、サンに問うように首を傾げた。「廉潔なる初志ってのは、烈刀士だけのもんなのか? ヴィアドラだけに捧げるものなのか? 違うだろ。大切なものを守るってことだろうが。守るためなら、自分のすべてを懸ける、その信念のことなんじゃねぇのかよ」
サンは、ライガが鬼火の臍の下辺りに手を置き、優しく撫でている姿を見て、まさか、と言葉を漏らした。そして、一歩踏み出すと、声に力を入れる。
「烈刀士には烈刀士たらしめる掟があるだろ。その掟に沿うからこそ、烈刀士は戦うべき相手を見失わずに対峙できるんだ。好き勝手に力を振るって、勝手に子供を作って、はい、烈刀士辞めますなんてのが許されると思ってるのか? 烈刀士としての責任は感じないのかよ?」
ライガが唾を吐き捨てる。
「お前だって気づいてんだろうが。烈刀士になる奴は、大抵落ちこぼれだってことをな。一族に見放され、身内を亡くし、希望を失った奴らが、生きるための理由として誇りをかざして烈刀士になってんだよ」
サンはライガの目を覗き込むようにして食い下がった。
「みんな守りたいものがある。ライガだって、それがあったから烈刀士になるって決めたんだろ。それは嘘だったのかよ」
ライガが、視線を地面に落として重々しく唇を湿らした。そして、その重い口を開く。静かな、それでいて滑りの悪い声だった。
「俺が烈刀士になったのは、お前が理由だ、サン。戦技大会で俺に負けたお前は、昔と変わらず弱かった。あの時、お前を一人にしちまったのは俺の弱さだ。今度は近くで守ってやれるかもしれねぇ、守りてぇって思ったから烈刀士になったんだ。でもよ、今のお前は龍人だ。最初は心の支えになってやらなきゃと思ってたが、お前は何度でも立ち上がる。そんな姿みて目が覚めた。俺は必要ないってことにな」
ライガは、鬼火の腹に手を当てたまま、鬼火の肩を優しく抱き寄せる。その表情に浮かぶ、今にも崩れそうな儚い微笑みに、鬼火が体を預けて目を閉じる。
「サン、今のお前は龍人としての責任ばかりを果たそうとして、周りが見えてない。責任を果たせない自分を責めて、そんな自分が嫌で、必死になって立ち上がってるように見えんだよ。自分を守ってるだけにしか見えねぇ」
サンは椅子に落ちるようにして座る感覚を覚えた。だが、盛り上がってくるごわついたものに歯を噛み締める。俺が感じている無力感、報いることができない自分とはなんなのか、この苦しみはどうなるんだ。
これも、俺が力が及ばないことが原因なのだ。ライガの言う通り、俺は自分のことしか考えていないんだ。それでも、俺だって必死に――。
サンは拳を握り目を閉じ歯を食いしばって爆発しそうになるものに蓋を閉めた。震える細い息を吐き切り、ようやく目を開ける。
「そうだ、ライガの言う通りだ。俺は、無力な自分に焦ってる。子供、おめでとう。その子には親無しなんて人生、歩ませるなよ」
「あたりまえだ」ライガが、にやりと片笑みながら、サンの後方に視線をずらした。「ちょうどいい、あいつにも教えてやるか」
ライガの視線を追うと、必死の形相でこっちに走ってくるカゲツがいた。サンはその不穏な様子に眉を寄せる。カゲツが必死に何かを叫んでいる。
「なにしてる! 後ろだ!」
カゲツの瞠いた形相から発せられる怒鳴り声と同時に、鈍器で殴るような音が聞こえて振り向くと、ライガが尻餅を突き、抱き寄せられていたはずの鬼火の体を槍が貫いている。黒曜石の研ぎ澄まされた刃、鬼の槍だ。
ライガが力なく口を開けて、口から血を溢れさせて倒れそうになる鬼火の体を抱き寄せる。短い呼吸に涙を乗せて、二人は互いを見つめ合い、ゆっくりと地面に膝をついた。
カゲツがライガから鬼火を引き剥がし、応急手当てをし始める。カゲツの指示通りに、サンは槍を切って体から引き抜くと、鬼火の腹を押さえつける。指の間から漏れてくる血は止まらなさそうにない。サンは、ライガを振り向いて怒鳴り声をあげた。
「手を貸せライガ! おい!」
ライガは膝を突いたまま目に灰を抱え、鬼火を抱いた腕をその時のままに、しかし血で濡らした腕を空虚の闇に焼き付けるように見つめていた。




