七十六話
龍人の羽衣の力は、烈刀士将や優れた武人が扱う羽衣と性質は変わらない。だが、羽衣しかり、秘術の類は精神力や想像力に大きく作用されてしまう。精神力や想像力は魂が輝いてこそ研ぎ澄まされ、思いもよらぬ力を生む。
つまり、羽衣や秘術の強さは魂の強さと言っていい。龍人に選ばれた者に宿りし力は、戦神を始めとする先代の龍人達の魂や意志が積もり重なったものであるため、人間一人の人生で培える力を遥かに凌駕する。
だが、それも武器の一つ。扱う者によっていとも簡単に姿と在り方を変えてしまう。
龍人祭で開かれた組手で、龍人の存在と烈刀士の存在を知らしめるため、龍人が百年の時を超えて現れた意味を考えてもらうために、龍人サンは剣戟と魂の火花を散らして異国の戦士と牙を交えていた。
その心にあるのは、仲間達の死の犠牲を無駄にしない想いと、先代の龍人達から引き継いだ守りたかったという想い、それらに報いるために絶対に負けられないという覚悟だった。
「あんた、まさかそれ……」
それも、数回剣を交えただけで砂上の塔の如く脆く崩れ去る。
バルダス帝国の鎧兵士が持つ槍斧には黒くくすんだ金属が嵌め込まれている。ただの鋼だと思っていたが、刀で相手の攻撃を防いで確信した。
刀や体に纏わせている気の力は想像と意志によって形作られている。それが、あの槍斧の刃に触れることによって光の埃のように散ってしまい形を失うのだ。
「滅神鉱でできているのか?」
もちろん、槍斧を木の棒のように振るう鎧兵士は答えない。
サンは歯を食いしばり、こちらを窺っているガラス質のつるっとした兜を睨みつけた。この闘いは戦神の守りが健在であることを知らしめるための手合わせなのに、燕宗熾が龍人に取って代わる新たな力〝万象帝技〟とやらを民衆に広める示威運動に利用されている。
鎧兵士のガラス質の兜がじっとこっちを見ている。黒くて表情を窺うことができないが、肩も上がっておらず冷静なのだろう。圧倒的な力を持っているはずの自分がが焦っていることに、サンは苦いものを噛み締めた。
冷静になれ。負ければ烈刀士の存在は小さなものになり、万象帝技というものに喰われてしまう。そうなれば、ヴィアドラを築いてきた守る者と守られる者が互いに支え合う関係がなくなり、犠牲を払う守る側が守るべきものに牙を剥く。今の蒼龍将のように。
だから、俺は負けられない。
草原を焼き払うかのような熱風を起こしながら、サンは狩衣と戦鎧を混ぜたような白緑に輝く羽衣の鎧を纏う。再び宙に現れる五本の光剣が巧みに入り乱れて鎧兵士に襲いかかる。
鎧兵士は飛びすさり、重さを感じさせない猫のような身のこなしで光剣を躱しては弾いていく。サンは眉を顰めて舌打ちをした。背後から襲った光剣を見ないで弾かれては、悪態の一つや二つ吐きたくなる。
サンは鎧兵士のつるっとしたガラス質の兜の下にある兵士の目があるであろう場所を睨みつけながら、人間離れした槍捌きに賞賛の念を抱いてもいた。どれだけの鍛錬を積んでも、あの槍捌きは真似できない。人との戦いに慣れた動き、ヴィアドラの剣術に対応する早さ、全てが俺よりも上だろう。
そう考えてサンはハッと気がついて、最初に手合わせした武人達に見せた羽衣の龍を創り上げた。
鎧兵士も人だ。なら、本能的な恐怖を叩きつけその隙を突けばいい。
龍が宙をうねりながら雷のように鱗をぎらつかせ、鎧兵士に突撃する。サンはめい一杯の剣気を足に集中させて地面を蹴り、地面を滑るように飛んで鎧兵士の死角に回り込むと、捻じ切れんばかりに腰を使って落桜五連ノ舞を叩き込む。鎧兵士は死角からの剣を見切れずに、風に舞い落ちる花弁の如き翻る刀傷を鎧に刻む、はずだった。
鎧兵士は、サンの落桜ノ舞の五ノ道、落桜五連ノ舞の最初の一撃〝心〟の一閃を見ることもなく、龍の突撃を躱しながら軽く跳躍して身体を捻った。それは強烈な槍斧の一撃を叩き込むための予備動作だった。
鎧兵士から金属が光となって収束していくような高音が聞こえてくる。空中で体を捻じ切れんばかりに槍斧を構える姿にサンは眉を顰めた。槍斧が振り下ろされる一撃を受け止めようにも、落桜ノ舞の体勢からは間に合わない。とっさに羽衣を背中に集中させる。そのとき頭によぎったのは、巖亀将の亀の甲羅のような羽衣の盾だった。
これなら防げる。
そして、強烈な光の衝撃がサンの意識を掻き消し、鎧兵士の一撃が闘社の土俵を砕き震わせた。
龍人サンが纏う羽衣の鎧は、鎧兵士の槍斧の一撃を受ける前に甲羅の形を作り終えていた。だが、その甲羅は朝方桶に張った薄い氷を割るよりも脆く砕け散ったのだった。
地面を揺るがす爆発音を立てて龍人サンの背中を思い切り叩きつけた槍斧は、反対側にある金槌のような鉄の塊と、鎧兵士の背中と肩を覆う金属の鎧から噴き上がった炎の力によって、大木を一瞬にして裂いてしまう雷の化身の如き一撃を誇っていた。
闘社の土俵は、突っ伏したサンを中心に陥没していた。鎧兵士は、騒然と恐怖にざわめく観衆をよそに貴賓席の方へ顔を向ける。
貴賓席の柵に身を乗り出す燕宗熾は、爛々と光を血走らせた目を瞠いたまま、荒々しい呼吸と漏れる笑みを隠すように口に手を当てた。そして、見上げている鎧兵士に向かって埃を払うようにさっと手を振るう。
鎧兵士は燕宗熾の仕草を見て何も応えずに、突っ伏して動かないサンを見下ろす。そして、槍斧をサンの頭の上に構えて薪を割るように振り下ろした。
鎧兵士の振り下ろす槍斧は、しかし空中で時が止まったかのように固まった。鎧兵士は言うことを聞かない己の武器に顔を向けてもう一度力を込めた。体重を乗せるようにしても槍斧はビクともしない。
鎧兵士は宙に浮く槍斧とその背後を、怪物でも見るかのように後ずさる。槍斧を纏う空気が蜃気楼のように揺らぎ赤く色づき始めた。それは次第に濃くなっていき、槍斧を摘む二本の巨大な爪を象っていく。やがて大人五人を潰せるほどの手、腕までもが現れる。
それは闘気の技であり、鬼火や皇燕将と同じ闘気の炎の巨人。だがそれは比べ物にならないほどに濃く、禍々しい焔を滾らせる。鎧にも等しいさながら岩漿の筋肉を隆起させた上半身だけの巨大な炎の魔人となった。憤怒によって練り上げられた形相に浮かぶ双眸が、溶岩のように渦巻いて空気を焼いた。
炎の魔人のその姿に腰を抜かした鎧兵士は、四つん這いになって出口を目指す。
その炎の魔人の腹に穴が空き、一人の男が歩み出てきた。炎の魔人は摘んだ槍斧を握り潰して一瞬にして塵にしてしまった。
「これは少しやりすぎじゃないかねぇ。流石に、この炎魔も黙ってられなくてなぁ、乱入させてもらったぞ」
逃げようとする鎧兵士を炎の魔人が掴み、鎧が熱で軋みカンカンと音を立てる。鎧兵士は鎧を脱ぎ捨てようと体を掻き毟るが、皮肉にも鎧の完成度が兵士を蒸し焼きにする。
そんな鎧兵士に向かって、乱入者である朱雀炎魔は愉快そうに快活な笑い声をあげた。
「なーに、安心しろよ。全身火傷くらいで済む。喜んで欲しいくらいだ。そのお気に入りの鎧を文字通り、肌身離さずいられるんだからな」
そう言って、炎魔は貴賓席へと目を向けて、舌打ちを漏らす。
「逃げたか。だが、見事に醜態を晒したな、燕宗熾さんよ」
陽射しが肌を意地悪く針で刺してくる感覚に、サンは目を瞬かせると、これでもかと眉に力を入れて目を細めながら周囲を見回した。
サンは自分を襲う違和感に頭が覚醒して息を荒くする。違和感は潮の香りでも、波に揺らる感覚、見知らぬ船室の中にいるからでもない。体を襲う〝無〟の感覚だった。
声を上げようとしても出てこない。これは、どうなってるんだ。
「体が……動かない」なんとか持ち上げていた首を枕に落とし、深呼吸をし続ける。体を動かそうとするのが怖い。それでも動くか確かめなければ。
そう言い聞かせても、心が言うことを聞かない子供のように首を振る。頭でわかっている真実から逃げるように。
「だめだ。何も、感じない……。誰か、誰か!」
サンは叫び声を飲み込もうと息を呑んで黙り込んだ。
焦るな俺。俺はどうなったんだっけ?
龍人として闘っていたことは覚えている。思い出せるのは、観衆が龍人に抱いていた恐怖と不安だ。尊敬や希望もない、百年前の災厄を恐れるような感情だった。彼らは烈刀士のことなど気にかけない、自分達の暮らしだけしか知らない無力な人間だ。その人間を手の上で転がす、燕宗熾。つまりは、元老院ということだ。
そうだ、それで俺は見世物にされていたんだ。帝国から得た新しい力を披露するための咬ませ犬として、まんまと利用されたのだ。そして、その力である帝国の鎧兵士に、俺は負けたのか?
サンは目を閉じて、闘いの様子を必死に頭の中から引っ張り出す。そして最後に途切れた記憶を見つけ出し、呆然と天井を見つめた。
烈刀士と龍人の誇りを、北で戦う仲間達の誇りを、俺は守れなかったのだ。
カゲツ達や蒼龍将、烈刀士の仲間にどんな顔を向けたらいいんだ。瞬きをしなくても溢れる悔しさを拭えずに、そのままにするしかなかった。奥歯を思い切り噛み締め、息を止めて天井を見ることしかできない。
船室の外から荒々しい足音がいくつも近づいてくるのが聞こえて、サンは止めていた息を震わしながら、大きく呼吸をした。鼻をすすり、顔だけを動かして枕で頬を拭う。
扉が開いて人が入ってきた。恐怖を悟られないように、睨むこともせずに努めて冷静に扉が開くのを見ていた。
現れたカゲツの姿に、サンは再び枕に頭を預けて重い息を吐いた。
船室には、カゲツ、ライガ、鬼火、蒼龍将、そしてなぜかナガレさんがいた。ナガレさんは無色流道場の師範代キリの友人で、俺とは違い由緒ある家名をもち、蒼龍軍きっての治療士であり変な性癖をもつ人だ。戦技大会でお世話になったから、この人のことはよく覚えている。
「みんな、俺、すまない……」
皆から視線を逸らして、サンは船室から差し込む強い陽射しに顔を晒した。いっそのこと、このまま目も見えなくなった方がましかもしれない。
「それがしは、おぬしの闘いを見ていなかったが、あの男、炎魔からつぶさに聞いたぞ。宗熾のやつめ、どこまで外道なことを……」
蒼龍将の言葉は、俺の心を一層締め上げた。どうせなら、龍人らしくしろと言われたほうがいい。俺は、龍人だけではなく、烈刀士の誇りをただの土塊だと証明してしまったものなのだ。ヴィアドラを象徴するものが、バルダス帝国の力に軽く捻られる。そんな龍人の姿に、ヴィアドラの剣に誰が頼ろうとするだろうか?
「俺は、負けてはいけなかった。負けてしまったら――」
「おぬしの言いたいことは、銀風月の骨を刻む冷風のようにわかる。それでも、それはもう過ぎたことだ。今は……」
そう言って蒼龍将は言葉を掠れさせてナガレにちらりと目をやった。そしてサンに今から訪れることを覚悟するように、サンを叱咤するかのように目に力強い光を湛える。
サンは蒼龍将の目の中に隠しきれないものを見つけて、心が支えをなくして底のない地面に沈んでいくのを感じていた。そもそも、俺に心の支えなんてものがあっただろうか。
ナガレさんは俺の横たわる寝台の傍に膝を突き、枕元に視線を泳がせた。俺と目を合わせれば逃れられないと言うように。ナガレさんは諦めるように息を一つ吐くと、ようやく俺と目を合わせた。
「久しぶりだね。戦技大会以来かな」ナガレはぎこちなく浮かべた微笑みをすぐに引っ込めて、再び枕元に視線を落としてからサンの体に視線を移した。「今回の君の治療は実につまらないものだったよ」ナガレは弱々しく自分を笑うように鼻を鳴らした。「僕の望むものは何もなかった。君には、もう、希望がないからね」
部屋の中で呼吸をしているのは、まるで俺だけのようだった。一様にして絵にでもなったかのようで、それなのに皆の心臓の音は聞こえそうだ。
「君の体はこの通り――」ナガレは懐から手の平ほどの長さがある細い金属の針を取り出すと、それをサンの下腹部にそっと突き立てた。そして、サンが呼吸を荒くするのを与り知らぬと言わんばかりにその針にぐっと力を込める。
自分の腹の中に細い針を入れられる感覚を想像して、少しでも痛みに対する心構えを持とうとしたサンは、肩透かしを食らって思わず口から力のない息を吐き出した。説明を求めてナガレに固い目を向ける。
ナガレはその針を刺したまま、足の裏の方へと回って懐から針をもう一つ取り出すと、サンの足の指先全てを針で突っついていく。足の指先に小さな赤い虫みたいな血が溜まる。
「サン、痛くないのか?」
カゲツの疑うような声音に、サンは黙って頷くしかなかった。
「君は、背骨を粉々に砕かれたんだ。背骨にはそれこそ数えきれないほどの神経が通っていて――」
「言いたいことはわかりました。それで、治るんですか?」
サンの捲し立てるような言葉に、重く明確な沈黙が答えた。
「だが、おぬし。先程はまだわからぬと言ったではないか」
腕を組んだ蒼龍将のギラついた声音に、ナガレは立ち上がり壁を作るように両手を前に突き出した。
「確かに言いました。ですが、彼の意識がある上での検査を今したんです」蒼龍将だけでなく、カゲツ達の責めるような眼差しに、ナガレは背筋を伸ばして応える。そして指一本を顔の前に立てて説明を始めた。
「いいですか、私は可能性を述べただけです。そして今、明確に不可能だとわかったんですよ。神経は複雑に撚った糸です。背骨にあるのは、それをさらに複雑に束ねた綱だと思ってください。それが切断されて繋ぎ直すのは神だって無理だ。ましてや、龍人様のは神経を刀で切ったようのものではなく、そこら辺に落ちている岩肌で擦り付けて切ったような切断面なんです。まぁ、そんな方法で何かを切ったことはありませんけど、それくらい見分けがつかないってことです」
龍人として、烈刀士として、師匠の愛を知って、自分をなんとか受け入れようとして走ってきたつもりだった。まだ走らなければならない。それなのに、決して解けぬ鎖が俺を繋ぎ止めて咎めてくる。
俺は、負けた。
俺は、信念を貫けなかった。
俺は、皆の願いを背負ったのにそれを落としたのだ。
実力不足だろうか。決意が甘かったのだろうか。なんて俺は無力なのだろうか。
それなのに、心の一点が澄んでいる。立ち上がらなくていいことに、立ち上がれないことに、心が笑っているんだ。
この感覚を覚えている。丸太の壁の内側が全てだった世界から飛び出して、俺のために時間を稼いで己を犠牲にしたライガを見た時に感じた足の軽さと同じだ。
なにが本当の強さだ。俺はまた、同じことをしてるじゃないか。
泣いていいわけがないのに、目から情けないものが溢れ出てくる。そんな俺に気づいたカゲツが眉を下げた顔で近づいてくる。傍に膝を突き、同情が滲む無理な笑顔を見せながら。
そんな顔をするな。いっそのこと責められたほうが気が楽だ。
サンは目を逸らし、鼻を啜ると窓の外に目を向けた。
「今、どこに向かってるんだ? それに、なんでナガレさんがいるんだ」
努めて明るい声を出す。俺は折れてなんかいない。皆の前で折れていいわけがない。折れていいほど、なにもしちゃいないんだ。
「蒼龍ノ國の沿岸部に沿って砦に帰ってるところだよ。あんなことになって、俺達烈刀士は捕縛されそうになって、急いで皇燕ノ國から船を捕まえて逃げ出したんだ。優れた治療師を探す時間もなくて、蒼龍ノ國の海域まできたところで唯一知ってる軍のナガレさんに頼ったわけさ」
「律士が俺達を捕縛しようとしたなら、元老院側の軍もまずいんじゃないか?」
「そうだよ。だけど、ナガレさんは大丈夫。あの人がなにを求めて治療の技を振るってるか、お前もよく知ってるだろう」
患者の絶望に沈んだ顔から、希望の種が芽吹き咲くのを見るのが幸せ。そんな理由で治療をするというのは受け入れられないが、操り人形ではないその心の生き方に眩しささえ感じた。
「砦に戻るのか」
サンの言葉の意味からカゲツは悟ったのか、サンの心境を表すかのように溜め息をすると、サンの下腹部に刺さったままの針を指で弾く。
「まぁ、頑張ったんだし、少しは胸張ってもいいと思うけどね」
そんなことができるだろうか。少なくとも、ガマドウの班員に顔向けはできない。それに、前から俺という龍人を認めていない古参達もいるのだ。
渦巻く曇天と化した頭を抱えたくなった。存在するだけ無駄だと思わせる動かない自分の体を見て、意識もしていないのに全ての呼吸が溜め息地味たものになる。
カゲツは、サンの下腹部に突き立った針を気遣うことなく爪で弾きながら、サンの厭世的な顔を観察するように見つめている。
「これ、本当に痛くないのか?」
「やめろ、人の体で遊ぶなよ」
サンは呆れて鼻を鳴らすが、目に落ちた影は少し和らいでいた。




