七十一話
皇燕ノ國、その〈燕戈京〉は、雨を忘れた空の下で盛大に賑わっていた。
これだけ広い町だと大人でも迷子になるのではないかと思ったが、番号を振られた長屋によって縦横の網目状に道が広がっているため、曲がる番号を間違えさえしなければ迷うことはないと鬼火に言われて、ようやく街を見学する心の余裕ができた。
とは言うものの、道は龍人祭のせいで肩をぶつけずに歩くのは不可能なくらいに人が溢れ返っていて、真の姿が見えなくなったりと気が抜けない。
街の人の顔は明るい。手に果物を飴蜜で包んだお菓子を持つ子供、鉢巻をした頭に汗を滲ませて声を上げる店主、談笑を交わす通行人達の喧騒が龍人祭の大きさを物語っている。同時に俺達烈刀士が守っているものを実感させてくれる。これを砦の皆にも見せたやりたい。
サンは鶏の形をした氷菓子を二つ買うと、片方を真に渡した。強い陽射しをものともしない真の笑顔を向けられて、感じたことのないものが胸の中に現れて思い出したように氷菓子に目を向ける。俺はこうして師匠に笑顔を向けられていただろうか。
尋ねる術もない過去から振り返り、溶ける氷菓子を舐め回す真を見る。
「これ、うまいな」
「もう一個買ってくれよ兄さん」
「こういうときにそれを言うか。調子良いやつめ」
サンは真の頭を小突き、店主から氷菓子を受け取りながら気分を高揚させてくれる街を仰ぐ。
喧騒の不快さを取り除くのに一役買っているのであろう街の景観は、規則正しく並ぶ長屋の全てを赤漆で彩り、贅沢な彫りで柱を飾り、張り出した黒い瓦葺き屋根を持っていて、店先に鳥を象った銅像を置いていた。
店先を飾る鳥の銅像の大きさはそれぞれだが、一番小さい物だと人の頭くらいだ。鬼火によると、銅像は家紋に描かれた鳥を象っているということだった。見たこともない鳥ばかりで、どれも周囲の景色を映すほど磨かれて青空を反射させている。
人混みから頭を一つ高くして目に映る光景にサンは苦笑いを忍ばせた。遥か遠くまで人の頭で埋め尽くされたこの通りの姿を鉱山から出たばかりの俺が見たら漏らしたかもしれないな。なんせ、無色の港町の人混みを見て世界中の人間が集まっていると本気で思ったくらいだ。
銅のように明るい朱色の漆を塗られた長屋の街は、青い空にこれでもかというほど映えていた。鬼火や皇燕将が炎の技を使うのには納得できる。小さな頃からこんなに赤色に囲まれていたら、闘気の扱いに重要な想像力が炎に偏るのは必然というものだろう。
人と肩をぶつけることが無意識になるほど歩きながらも、目的地に着く気配は一向に見られない。皇燕ノ國の中枢である御役所は顎が外れるほどの大きさだと鬼火が自慢気に話していたが、この様子だと大したことなさそうだ。形は蒼龍ノ國のような塔ではなくて、三階建の高さはある社のように立派な建物。それが京の中央に鎮座しているとのことだった。
御役所で龍人の存在を民に認知させるわけだけど、はっきり言って団子巡りの方が俺にとっては重要だった。雨の中をひたす南下して、足を川縁で死んだ魚のようにしながらやっと辿り着いた初めての地で、どうして見世物にならなければならないのか。目的地に急ぐために目だけで撫でる団子屋はこれで五軒目だ。俺の心は、あの食感と秘伝のたれが口の中で絶妙な調和という音楽を奏でるのを渇望している。
先導する鬼火の姿を見失わないように、肩で道を切り開くこと数時間、眩しい空に手を翳したサンは、額に浮かんだ汗を拭った。手の甲についた汗は人混みの熱だけではない。季節を支配していた風季は終わり、火季に入ったのだ。
長屋の屋根にかかりそうになっている太陽が照らす通りには、腰に獲物を差している者が多く見られるようになった。サンは顔を顰め、鞘が当たらないように気を付けて歩きながら周囲に目を走らせる。これだけ血の気の多そうな連中がいるのに、よく争いごとが起きないなと眉を上げて頷きながら、長屋の角に立つ者に目を向けた。そこには、今日だけで一生分は見たであろう律士の姿があり、冷たい鉄のような目を周囲に光らせている。
元老院お抱えの治安組織、律刑隊。その隊士である、通称〝律士〟。黒く短い丈の上着を、金色の釦で留めて、ズボンと呼ばれる物を折り返した長靴に入れ込んでいる。異国風のその衣装で身を包む彼らが、町への愛のためか軍や烈刀士にあぶれたゆえかは与り知らないが、律士となって町を守る姿には尊敬を抱く。
だけど、そんな彼らを見ると、何もしていないのに心臓が一つ跳ね上がる。鉱山から逃げて辿り着いた無色の港町で、笛を鳴らされて獲物のように追いかけられたのを思い出すからだろうか。だけど、律士がいるから町の治安が守られるのだ。俺も、一度はなりたいと思ったものだ。今、師匠やロジウスおじさん達と過ごした無色の港町はどうなっているだろうか。あそこに戻れる日は来るのだろうか。ツバキおばさんの紅茶や、ロジウスおじさんのお節介で不器用な気遣いが懐かしい。
前を歩いていた鬼火が店の角の人混みの中から跳びはねて、交差する歩道の先を指差した。その先に、他の建物とは一線を画す重厚感と荘厳さを湛えて鎮座する紅色の建物があった。
なるほど、鬼火は間違っていなかった。あれが皇燕ノ國の中枢であり、最大の建築物、御役所というわけか。
人を躱そ続けてようやく辿り着いた御役所の足元でサンは立ち止まって、首を後ろに倒したうえで更に目を上げて御役所を見る。
人が造ったものとは思えない重厚さと規模を誇る御役所は、歳を重ねた蒼龍将の喉をも唸らせるものがあった。
御役所は四角形をしているらしく、東西南北に分かれた四面は玄関となっている。その玄関というには広すぎる階段は数百人は一列に並べるだろう。階段を上ると、大人二十人が手を繋いだ輪よりも太い木柱が、屋根を支えるために整然と立ち並び柱の広間を作り出していた。こんなに太い木がいったいどこに生えていたのか、自然の壮大さに恐怖さえ覚える。森一つ作れそうなくらい並ぶ柱の数を見ると、巨大な樹の森一つを使って建てた建造物なのかもしれない。
人智を超えた巨大な姿をした無数の柱に支えられる屋根もまた、人が建てたであろうにも関わらず人の物ではないような気がした。屋根と言えるのかわからないほどに分厚いあれは建物と表したほうが正しいかもしれない。形自体は、神社の屋根のように外側に行くほど反り返る姿をしているが、反り返るまでに何十もの階層を積み上げてその形を作り出している。層の外側には欄干を取り付けた回廊がぐるりと廻っているようで、歩いて一周回ろうとしたら小一時間はかかりそうだと思わせた。
カゲツは巨大な柱が整列する広間を見回して、気づいたかのように口を閉じて唾を飲み込んだ。「こんな大きさ……神の建造物かい?」誰に問うでもないその言葉は、莫大とした空間に消えていった。
「あたし達は、他の國みたいに汗くせ物を担いだりしないのよ」
鬼火がそう言ってかつかつと先へ進んでゆく。
「だが、神の賜った力あっての技。たしかに荘厳極まるものだが、神の望んだものかはわからぬな」蒼龍将は呆けているサン、カゲツ、ライガ、真、に目配せして歩くように促した。
柱の広間を中央目指して歩いていると開けた場所に出た。四角い塔が遥か頭上にある天井とつながっているのを見ると、屋根とは言えない上の建物に行くには、この塔から行くしかないようだ。
この塔は御役所の中心にあり、ありとあらゆる手続きの窓口ということだった。十階以上はあるその窓口の塔は、東西南北で窓口を分けていた。南側の銀行の窓口には、商人と庶民の行列が分かれてできていた。北側の受付には、戦装束を纏った流浪者や、軍か律刑隊士に志願しにきたような若者、どこかの道場の戦装束を纏った者達があまり近づきたくない雰囲気を漂わせていた。もしかしたら、あそこで龍人との手合わせ抽選会が行われているのかもしれない。
俺達が入ってきた東側は、西側と共通して暮らしに関する雑多な契約や申請に関する窓口となっているようで、親子連れがいたり、老人夫婦がいたりと特色は見られなかった。
巖亀や白鬼ノ國と同じように、やはり皇燕ノ國にも異国の者は見られなかった。こう見ると、蒼龍ノ國は異国交流が盛んなんだなと実感できた。貿易の中心でもあるし、それで儲かる元老院の中では蒼龍ノ國の議員が強くなるのも納得だった。漣豪雹が烈刀士よりも金儲けに走るわけだ。
蒼龍将が人々の列に割り込んで一つの受付に掛け合った。
サンは割り込まれた家族連れに会釈をするも、「とんでもありませぬ。軍人様のお役に立てて光栄でござりまする」と言われて、面食らった様子で烈刀士だ、と答えた。家族連れの男は、握っていた子供の手をさっと後ろへ回すと、「そうでありましたか」と目に堅いものを湛えて家族の方へと向き直ってしまった。ここで龍人だよと言ったら顔を青くして逃げ出しそうだな、とサンは首を傾げた。
蒼龍将の明朗とした声に振り向くと、忙しいというのに花を絶やさない顔で応える受付嬢の表情が、みるみる真剣なものに変わっていくのが見えた。そして視線を蒼龍将を越えて俺達の中を彷徨わせると、席を立って急ぎ足で裏に消えていった。
受付嬢はすぐに戻ってきた。傍らには、役員だろうか、受付の者よりも深い赤色の装いをした年配の女を連れている。受付嬢が礼をして下がると、年配の女は一行に歓迎の笑みと挨拶を述べてから、受付の中にある昇降機へと案内する。そして、昇降機に一緒に乗り込んだ。
昇降機は、天井へぐんぐん上がっていく。ライガは期待の光を爆発させろうな目でサンに片笑んでみせる。サンも心の中で踊るものを感じて、片笑みを返した。
木造の昇降機がごとごとと振動音を立てて昇り、暗闇を破って見えた光景に、ライガが短い笑いを上げて、女が開けようとした柵を飛び越えて一番乗りで降り立つ。蒼龍将も辺りを見回して「変わっておらぬな」と言って年配の女に連れられていった。
取り残されたサン達は御役所の中を仰ぎ見ながら、行き交う人達から逃れるように端に寄った。
外から見てもわかる階層の存在から、屋根ではなくて建物だとはわかっていたが、こんな場所が広がっているとは想像できなかった。
空間は木の赤茶色、黒い絨毯が敷かれた中央は吹き抜けとなっていて、壁のない窓口が四角形に構えられている。そこには気品ある佇まいで、花を添えたような笑みを湛えた受付嬢がずらりと並んで行き交う人に目を向けている。
吹き抜けを見下ろすのは、四面に分かれた十階はある階層だ。欄干越しに中央を見下ろせるようになっていて、各階に色分けされた看板にでかでかと〝住総合科〟〝職業総合課〟〝賃借総合課〟〝軍武総合課〟〝入出國総合課〟などと書かれて区分けされている。
各階は大勢の人が行き来できるように、各面各階に折り返し階段と昇降機が設置されていて、昇降機はひっきりなしに上下しているし、階段にも人が多い。
ここも総合案内所なのだ。総合案内所から上に向かって伸びる板に、文字と番号が羅列して光り、一定の時間をおいて多くの情報が切り替わっていた。こんなもの、今ままで見たこともない。提灯だけじゃなくて、秘術にはこんな使い方もあるらしい。
いまだに辺りをきょろきょろしているサン達の元に蒼龍将が戻ってきて、上を指差しながら下唇を歪めて大儀そうに口を開いた。
「役人の話によると、最上階の貴賓室へ行かねばならぬようだ」
蒼龍将は、四角形をした吹き抜けと、総合案内所を囲む数十階は連なる階層をぐるりと見回しながら、本人も気づいていないであろうため息を零した。




