七十話
白鬼ノ國の草原が黄色く小さな野花に彩られ、陽風月の息吹の風は俺達が来た時よりも強くなっていた。南からは厚い雲がやってきて、幾分か空気も重くなった。
工具を持って帰ってきた〈天土京〉の男達の顔はここ最近行き詰まったような顔をしていたが、今日は晴れた空のように明るい。水季の執拗な雨を迎える前に橋の補強を終えることができたのだろう。
真との修行をしていたサンは、男達に労いの声をかけると、どんよりとした空を見上げた。
「雨だ」
次第に強くなる雨から逃げるように、サンと真は天幕の中に駆け込んだ。自分の褥に横になっていたカゲツが本から顔を上げて、衣服についた水滴を笑い合いながら落としている二人に目を向けた。毛皮の柔らかな長椅子に我が物顔で寝そべるライガが、自分の腕の中で寝ている鬼火の髪に指を滑らせながら、サンと真に顔を向けて鼻をひくつかせた。
「雨か?」
ライガに目を向けた真が、耳を赤くして長椅子で寄り添うライガと鬼火に細い目を向けて大袈裟に呆れたと言いたげに首を振る。サンは真の髪をぐしゃぐしゃと撫でてから、「雨だ」と答えた。
カゲツが本を片手でぱたんと閉じて、一つ息を大きく吸った。「なら、そろそろ出発ってところだね」カゲツが天幕の中に散らばった荷物を見渡す。「君達は白鬼にいたいようだけど」
カゲツがいつでも出発できる状態の自分の荷物を撫でながら口吻を洩らした。
「素晴らしい皮肉をどうも。おかげで尻に火がついた」サンは長方形の行李に戦装束の下に着る衣類を詰め込みながら、太陽に骨を抜かれた牛みたいに長椅子でくつろぐライガと鬼火を見て手を止めた。「なぁ、ライガ。外でそれはやめろよ」
ライガは飽きずに鬼火の髪に指を滑らせながら、肩をすぼめて眉を上げると、鬼火に口づけをして目を醒まさせる。鬼火が子猫のような声を上げながら体を伸ばしたとそのとき、天幕の入り口に目を瞠ったライガが鬼火を蹴り飛ばして、鬼火が変な呻き声を上げてもぞもぞと身を起こして目をこする。
天幕の入り口を捲って顔を覗かせたのは蒼龍将で、地面に直接寝ていたように見える鬼火に険しい眼差しを向ける。
長椅子の方を見てみると、ライガはあたかもずっとそうしていましたよと言いたげに、長椅子に一人ふんぞり返って寛いでいる。
「潮時だ。明朝に発つ」蒼龍将はそう言って部屋に散らばる衣類達に目を走らせて、無表情のまま去って行った。
「もしかして、あたしのこと蹴った?」
鬼火の言葉と細めた目に手をひらひらさせて言葉を並べようとするライガを見て、サンとカゲツは忍び笑った。
龍神祭に赴くためにサンについてきた一行は、風に揺られる暖簾のような姿を見せる雨の中、地面から突きあがるように聳える〈天土京〉を見上げて笠を傾けて別れを告げると、暗く重い空気を湛える森の中へと入っていった。
荷車を牛に牽かせて進む旅は徒歩に比べると楽なものだった。だが、それも太陽が大地を愛でているだけの間だけだということを、サン達は思い知らされた。
〈天土京〉を出て三日目にして牛車が泥濘んだ轍に車輪を落としたのだった。降り止まぬ雨の中、傘に大量の雫を滴らせながら牛車を引き上げてみると、車輪が割れていた。慣れない手つきで蒼龍将とサンが車輪を直すも、翌日にはそれも壊れて泣く泣く牛車を置き去りにしなければならなかった。まったくこっちが泣きたいくらいだとライガが怒りを天にぶつけようと雷撃を放ったのは当然で、むしろ足りないと思わせたほどの落胆を一行は味わった。
降り続ける雨の中、雲の切れ目から垂れる露の間の慈光に、一行は笠を脱いで足を止めると恍惚と見上げた。雲に掻き消されていく光の余韻は、再び顔を濡らす雨に取って代わられる。一行は感情に蓋をするかのように灰色の目で笠を被り、黙々と旅を続けた。
牛に括り付けた荷物が飛沫を散らし、泥水が足袋の色を変え、足の指の皮が剥けても尚歩く二週間で、若い衆は言葉を忘れてしまったかのように口を閉ざしていた。
旅籠の食事でも会話はなく、いそいそと床に就き朝を迎えては、雨だけの一日を歩き倒す。そうして白鬼ノ國と皇燕ノ國の境の川までやってくるも、再び一行は行く手を阻まれた。
度重なる雨の災害という壁を、雨に打たれる石の如き心で越えてきた一行も、橋が僅かな面影だけを残して濁流の中に埋もれている光景を前にしては、首をうな垂れるというもの。
真が岩の上に座り込み、足を抱えて膝の間に顔を埋める。鬼火は黙ってよろよろと木陰に進んで、物置の中の人形のように濁流を目に写して佇んだ。ライガは腕を組んだ指で絶え間なく荒い調子を刻み、顎に筋を浮かび上がらせる。カゲツはそんな一行をゆっくりと見回していた。サンは猛り狂う濁流に鼻を鳴らして、真の肩を優しく握る。
指で絶え間なく荒い調子を刻んでいたライガが、がらがらとした声を上げて蒼龍将に食ってかかる。
「おい、蒼龍将、どうすんだ。今度は牛も荷物も捨てて一っ飛びでもするつもりか」
ライガが洗いたてのように水を含んだ戦装束の裾を絞りながら棘のある声で言った。蒼龍将は黙ったまま腕を組んで対岸をじっと見つめている。サンや鬼火、カゲツは黙って蒼龍将の言葉を待った。
「水の扱いに心得がある者はおるか」蒼龍将が、サン達一人一人の顔を見据えていく。地面の泥のような顔をしたサン達が口を開かないのを見て、蒼龍将が続ける。「おらぬか。水を操る技は秘術の中でも特別だ。なぜか?」
カゲツが何かを言いたげに口を開きかけたが、一歩下がって地面に目を落とすと、顎に手を添えながら眉間に皺を寄せる。
こんな時に何を言っているのかと、サンとライガは強ばった関節を摩ったり動かしたりしながら溜め息を吐く。
「一部の者は感じておるはずだ。気を扱うときに、自然の姿が手に取るようにわかるときがあれば、他者の気の流れと量を感じることができる場合もある」
その言葉をカゲツは食い入るように聞いている。サンはこんがらがった糸を見るような目で蒼龍将の先の言葉を待った。
「〝気〟は魂の力であることは知っておろう。だが、魂そのものではない。気は自然界にも存在しておる。森羅万象は共通の一つのものから成りたち、それぞれが違う道を経て別の形を得ているにすぎぬ。形とは、岩、植物、動物、と世界を象るありとあらゆるものだ。その形を作るもの達に宿る力が集合した形、それが気という。動物という形に宿る気を魂と呼び、鉱石や火山のような自然の形に宿るものはそのまま気と呼んでいる」
鬼火は何度も読んだ本の頁をめくるような顔で蒼龍将の言葉を聞いていた。ライガは耳の中の水を取ろうと顰めっ面で耳をかっぽじる。
「なれば、己の気を操ることができるのならば、元来同じ性質である自然の気も操れるはずではないか?」
ライガが指を止めて、訝しんで蒼龍将を見た。「気は己のものだからこそ扱えるはずだろ。それが自分の魂だからこそ扱えるんだろうが。自然界の気を操れれば苦労しねぇよ」
ライガの言葉に蒼龍将が笑みを湛えて首を振る。
「修行不足だと声高々に言っているようなものぞ、ライガ。見ておれ」
蒼龍将が川岸に歩み出て、ぬかるんだ地面を気にすることなく坐禅を組んだ。指で印を組み、腹の前で留めた。そして、低く轟く声で言葉ではない音を唱え始める。それは歌のようにも聞こえるが、死者のためにあるような、おどろおどろしい声だった。
鬼火が樹の下から歩み出て、雨に濡れながら蒼龍将に数歩近付くと、肩を強張らせて石像のようにぴたりと足を止めた。その様子にサンとライガは訝しんで眉間に皺を作る。
突如、カゲツが嗚咽し始め、真が戦慄きながら岩から転げ落ちて陰に隠れると、膝を抱えて体を揺らし始めた。
「おいおいおい、一体どうしたってんだお前ら」そう言ってから、ライガは目を泳がせながら、違和感でも感じるのか自分の首元を苦しそうに撫で始め、蒼龍将に目を向ける。「な……ば、化けもん」その目はまんまるに開かれていた。
サンはなにがなんだかわからず、硬直する仲間達と不気味な音を唱える蒼龍将を交互に見た直後、背中を駆け上がる雨とは関係のない寒さを感じ、さっと森へと目を走らせた。この不気味な感じは妖魔だろうか? それにしては重すぎるよな。まさか……鬼か。
サンは咄嗟に気を練り上げて、己の中で光り輝くその力で周囲を探ろうとした。だが、感じたのは己が何かの顎の中にいて、いつでも殺されてしまう凍りつく感覚だった。その周囲を包む、寧ろ周囲そのものと言えるほどの莫大な力に呼吸を忘れて目を瞠くのが精一杯だった。
意識と体が硬直しながらも、風前の灯火の勇気で歯を食いしばり振り返ったサンは、蒼龍将を包む気の濃さに腰を抜かしそうになった。
圧倒的な気は空間そのものと化し、凄まじい形相で全てを握り潰さんとしている。その真っ只中にいる俺達は、生きながらに死んでいるのと等しい。
寒さ以上のもので膝が震え、空気を貪ろうとするも、喉が、舌が、脳が鎖に縛られたようにいうことを聞かない。
蒼龍将のおどろおどろしい歌声が止んだ。
そして、無慈悲に流れる濁流となっている川の一部が切り取られたかのように宙に浮かんだ。
宙に浮いた大量の茶色い水が、ゆっくりと形を作っていく。それは突如冷気を垂らす氷の橋となった。そして力を失ったように川に落下して、飛沫を上げながら岸と対岸を結んだ。
直後、蒼龍将が雄叫びを上げながら光り輝く猛々しい薄緑色の羽衣を纏い、力を解放するように緑青の光の雷を放ち天を穿った。
圧倒的な気の気配がなくなり、サン達は糸を切ったように地面に崩れ落ちて、喉を鳴らしながら空気を喘ぎ喰らった。
蒼龍将は薄緑色の羽衣の勢いを弱らせて、翡翠色の雷が雲を穿ったことによって生まれた空の蒼い穴が雲で塞がっていくのを眺めている。空にできた穴から差す光が細くなっていき、雲が蒼い穴を塞ぐと、やがて雨が地面に音を立てて降り注いだ。
汗を雨に流しながら立ち上がったサン達は、羽衣を解いたいつもの姿で近付いてくる蒼龍将から後退りながら、揺らぐ眼差しで説明を求めた。
「そうおもしろい顔をしてくれるな。先のは水の動きを留め、水の気を奪ったのだ。ゆえに力を失った水は氷となった」蒼龍将は、しかし、と言って真剣な面持ちで続ける。「自然の力は莫大かつ膨大なゆえ、人の手に余るものとしかと心得ておけ。然もなくば、その身は光に焦がされ塵に消えようぞ」
一行は滑る氷の橋を渡った先の森を半日進み、皇燕ノ國の最初の旅籠屋の前にやってきた。
蒼龍将は戸の前に立つと、森の方をぐるりと見回してから笠をとり、芝居掛かった仕草で親指を滑らせて縁についた水滴を払うと、黙って戸を開けた。
蒼龍将が部屋と食事を短い言葉で要求して、濡れた体を気にも留めずに中に入っていく。旅籠の禿げ散らかった主人が手を擦り合わせながら口を開きかけるも、一雫も愛想を垂らさないサン達にへこへこと微笑み続けている。
一行は火の入っていない囲炉裏を囲んで座り、脇に下に手を入れて震えて主人が薪を持ってくるのを待った。
禿げ散らかった主人が、倉庫にしまった薪を担いでやってくると、サン達の寒さによって影を落とし鋭くなった視線に諂笑を転がして頭をへこへこと下げた。一行の目の色が変わらないのを見て、唇を湿らせると尻に刀を突きつけられたかのように手際よく薪を囲炉裏に設置し始めて、そそくさと台所から燠火を持ってくる。
「ちっと時間かかりますんで、す、すいません」
禿げ散らかった主人が必死の形相で竹筒を使って息を吹く。
「あたしがやるから、おじさんは汁物を頂戴」
鬼火が主人に場所を開けるように手を払うと、縦に寄りかからせ合わせた薪に手を翳した。翳した手の周囲の空気が揺らぎ、やがて薪に火がついた。サン達は鬼火に礼を述べながら囲炉裏に体を乗り出して手を擦り合わせる。
「ありえないくらいに寒いんですけど……」
鬼火の言葉にライガが鼻で笑う。
「俺が暖めてやろうか?」
ライガの含んだ物言いに、その場の空気が凍った。蒼龍将だけが、鬼火とライガとを交互に視線を走らせる。その目に写る薪の火は、蛇のように揺らいでいた。
「おぬしら――」
「あんたなに言ってんの、ちょー気持ち悪い」
鬼火が馬糞を目の前に突き出された以上に歪ませた顔で、ライガに泥を吐くように言った。
ライガの初めて見せる素っ頓狂な表情にサンは思わず吹き出して笑ったが、それもすぐに寒さに掻き消されて黙り込んだ。蒼龍将はいまだにライガと鬼火に蛇のような視線を向けている。まだ話は終わっていないと言いたげに。
「いやぁ、お待たせしました。豚汁でございやす」
でかした主人、とサンは心の中で手を叩きながら、豚汁を受け取った。
「旅のお方、服装からしてどこかの道場の方ですかね。あなた方も龍人祭に向かわれるんで?」
一行は互いを窺うように視線を交わらせながら豚汁に口をつける。サンは蒼龍将の目に命令のような色が見えないことをいいことに口を開いた。
「そうです。龍人を一目見たくて」サンは豚汁に口をつけた。
「良かったですね、龍人様はまだ京には辿り着いていないようでしてな。あっしも見たかった」あっ、と言って主人が手を叩く。「もしかして、あなた方も龍人様と手合わせするおつもりで?」
なんだこの人やけに喰い気味だな、とサンは忍び笑う。きっとこの辺境にくる客は少ないのだろう。サンは大根を頬張り、一噛みで飲み込んでから一つ笑った。「龍人様はすごくお強いらしいんで、敵う人はいないと思いますよ」
ライガとカゲツが鼻で嗤うのが聞こえて、サンは目を細めて二人を見た。ライガが肩を上げてとぼけてみせる。
「そんな弱気なお方は初めてです。まぁ、そうでしょうね。白鬼ノ國では名高い武人をねじ伏せたと聞いていますので」散らかった頭をふわふわさせながら台所に戻ろうとした主人は、気付いたように手を叩いて振り向く。「でも、もし手合わせしたいなら早めに発ったほうがいいですよ。なんせ、希望者が多すぎて抽選式になってるようですから」
ライガとカゲツ、さらには蒼龍将までもが小さな嗤いを洩らす。
「忙しくなりそうじゃん」
久々に聞く真の声に、サンは箸を止めて頭を小突いた。
「他人事みたいに言うじゃないか」
サンに頭を小突かれた真は、サンの碗の中から素早く豚肉をかっさらう。
笑いが火花のように囲炉裏を囲み、各々の心を懐かしい風が撫でていった。




