六十二話
壱ノ砦は、山側に建つ肆ノ砦よりも人の暮らしを感じさせる造りになっていた。海側には森がないため警戒する必要がなく、比較的時間を掛けて建てられたのであろう杮葺の重厚な木造の棟が並んでいた。
肆ノ砦から続く堅牢な壁は、東から西へ一直線に延びているので、砦の構造自体は変わらず、ここ壱ノ砦も他の砦と同じように南側には施設広場があった。それでも、施設広場には菓子が食べられる吹き抜けの広い造りの茶屋が備えられていたりと、なにかと贅沢な環境が見られた。
ここまで発展するのは海のおかげだ。烈刀士と共に生きてきたという〈鬼目郷〉からの物資が後押しして、暮らしを磐石なものにしているのだ。そしてここの指揮を執っているのが、蒼龍将の風斬嵐その人。人力車の行列の最後尾にいた蒼龍将が姿を見せると、壱ノ砦の烈刀士達から歓迎の声が上がった。蒼龍将は人力車から降りると両手を上げて明朗快活な笑い声と笑顔で応えていく。
砦の高い壁の狭間から身を乗り出して見物する者、家畜小屋の柵から身を乗り出している者、皆が蒼龍将の姿を見ようと、期待の目を向けている。
蒼龍将が荷車の上に登り、皆の注目を集めた。そしてサン達に手を向ける。
「まずは、紹介せねばならんな! この者らは、肆ノ砦の若い衆達だ。ヴィアドラの新たな風でもあり古き森の風! 皆、迎えてやってくれ」
壱ノ砦の烈刀士達は、その厳しく強気な顔を来風月の風のように明るい笑顔で迎えた。蒼龍将が自己紹介をしろと腕を組みながら柔らかい眼差しで示した。
「俺はライガ」壱ノ砦の烈刀士達が期待を籠めた声で注目する。特選枠優勝者という期待の言葉が至る所から声が聞こえてくる。「俺に流派はねぇ」そう言って僅かな間、群衆に勝気な笑みを見せる。そしてライガは腕を突き上げると、腕から這い上がるようにして蒼白い雷の龍を放ち、空をぐるりと駆けさせて烈刀士達を沸かせると、雷の轟音と共にさながら花火のように散らせた。「闘技場育ちの荒くれもんでな。あんたらとはあまり顔をあわせることはねぇかもしれねぇが、よろしくな」
ライガの派手な自己紹介のせいで、後に続いた俺達は否が応でも何か見せなければならない空気の中、俺とカゲツは羽衣の光刃を空中でぶつけ合い、鬼火は妖しく光る炎の玉を燕に変形させて、縦横無尽に宙を飛び回らせるとライガのように空中で散らして見せた。群衆は余興を楽しんだように拍手と歓声を四人に向ける。
蒼龍将が砦に戻ると、壱ノ砦はどこの砦とも変わらない光景に戻った。木士が木を鉋で削り、石士が長方形に削った岩を縄で括り地面を滑らせて運んでいく。雑士の家畜番が豚や牛を誘導させていたり、家の中から間遠に聞こえてくる機織り機の杼を滑らせるために踏む踏木の規則正しい音、鍛冶師の金属を叩く音などが、施設広場の心地よい陽射しの中に溶けている。
その中を歩きながら、サンはライガの肩を小突いた。
「なんで自己紹介なんだよ。先輩面してなかったっけ?」
それにライガは思い出したように頷いた。「俺達は〈鬼目郷〉にくるのは三回目なんだけどよ、毎回道中で鬼の襲撃があって、てんやわんやでな」
そういうことかとサンはそれ以上突っ込むことはやめた。俺がお偉いさん達の間で板挟みになって暇を持て余していた間にも、皆は鬼との戦いで死と隣り合わせでいたのだ。突如現れた仲間との溝に目を逸らすように、「〈鬼目郷〉は見えないようだけど」と誰に訊くでもなく口にした。
「迎士が運んでくれるのは実質ここまでなんだよね。あとは小船で沿岸を沿って南に下るんだよ。まぁ、寝る時間もないくらいすぐに着くよ」
カゲツの言葉にサンは頷きながら、にやにやして何かを探すように地面を見ているライガに首を傾げた。ライガが小さな木片を手に取ると、意地悪い笑みをより一層の深めながら、三人で歩いている女烈刀士に投げつける。鬼火と先輩烈刀士だ。
「女共も今夜はお楽しみかぁ?」ライガの大声に、先輩の女烈刀士達と鬼火が振り返り、挑戦的に眉を上げた。
先輩の女烈刀士もライガに劣らない笑みを向けてくる。「あんたら坊ちゃんこそ腰砕けにされちまわないようになぁ!」そう楽しそうに言うと一足早く小船に乗り込んでいった。
小船に乗ったときにはすでに陽は傾き、空は色を落とし始めていたが〈鬼目郷〉に着いたときには、濃紺の空が西の橙色の空をほとんど追いやっていた。
〈鬼目郷〉の玄関である港は、海岸に飛び出した崖を巨人の手で穿ったように、半円形に入り込んだ形をしていた。海岸からでは港が見えずその存在すら窺うことができないこの地形は、隠れているようにも見える。
港は更に複雑な造りをしていた。岩肌に扉のない無数の出入り口がぽっかりと口を空け、出入り口を繋ぐ木造の足場が縦横無尽に組まれている。港には桟橋が出ていて、中型の帆船二隻なら係留できそうだった。
岩に洞窟を掘って住居とするやり方は巖亀ノ國の人達の暮らしに似ている。船を降りて洞窟の中に入ると、ひんやりとした空気が肌を包み込んだ。三人ほど並んで通れる幅の通路を進んでいく。洞窟の通路は、全体に張り巡らされているのだろう天井の縄に括り付けられた、燃えない明かりを灯す提灯によって照らされていた。すれ違う人の顔がようやく見えるくらいの明るさを放つ提灯を見て、サンは訝しんだ。
この燃えない明かりは、神の言葉の力によって成し得るもので、天星命が人に賜った神の言葉を、特定の鉱石に描くと光り続けるというものだ。人の寿命よりも長く輝き続けるこの灯りは、そこらで買えるものではないはず。大名でもない者達がこんなものを大量に持っているのはおかしいんじゃないだろうか。
サンは音を立てて唾を飲み込んだ。蒼龍軍が取り締まる密輸船とは、まさか烈刀士と繋がっているのだろうか。サンは嫌な考えを振り払うように周囲に目を走らせる。
洞窟はいくつかの階層に分けられていて、倉庫、住居、職人の作業部屋と明確に用途が決められていた。
ようやく地上に出たときにはすで夜の帳が降りた後だった。燃えない提灯の薄い橙色の明かりが〈鬼目郷〉を柔らかく照らし出し、活気溢れる夜の街を和やかに見せていた。
建物は長屋だが、そのどれもが太い梁を走らせ広い玄関に広い杮葺屋根、刺繍が施された暖簾や風鈴などの飾りを吊るしていた。
ここに住まう人は無色の人達ような、土季の寒さを越えられるか怪しいものは纏っていない。一様にして、華やかでゆったりとしたものを纏っている。だが、服装はほとんどの人が烈刀士に似ていた。たっつけ袴に異国風に仕立てた足袋、袖なしの羽織といった出で立ちだ。刀も差していなければ、武芸に程遠いような者までもが戦装束と同じ出で立ちをしているのだ。
赤と紫の提灯で彩られ、周囲よりも少し明かりを落とした建物の前で妖艶な笑みを振りまく着物姿の女達は、テットウの娘カグラ姫が纏っていたもののように、豪華な刺繍を施してあるものを纏っている。口紅がくっきりとしためりはりのある化粧は、神秘的な美しさを醸し出して目を釘付けにした。簪に揺れる精巧な金物装飾が気品を添えているが、それ以上に漂わせる妖艶さに喉が乾くような気がした。
華やかでのびのびとした郷だな。サンは気づかぬうちに背負っていた心の枷が外れていくのを感じて、どうでもいいことで悩んでいたんだなと、心がそれを教えてくれた。浮き立ち始めた心を転がしながら、屋台や店から漂う香りに鼻を傾けて楽しんでいると、ライガが振り返って腕を広げる。
「ここが〈鬼目郷〉だ」
我が物顔で言い放つライガに、狐の尻尾に見立てたような耳飾りをして、豪華な着物に身を包み、うなじから背中にかけた魅惑の領域を見せる妖艶なお姉さん二人がライガに腕を絡ませる。柔らかな紗を滑らせるような手つきでライガの首筋や体を撫でて耳元でなにかを囁いた。
それを見て俺は喉の奥が熱くなり胸が高鳴るのを感じながらも、火の粉を払うように嗤いを漏らす。唾を飲み込む自分に苦笑して、いやいや、あれは毒蛇を体に纏わせるみたいに危険な行為だ。俺はあんなことはしない。廉潔なる初志をもって刀を振るう烈刀士にして龍人の俺が、毒蛇の邪悪な手つきを見て喉を唸らせるようなことがあってはならないと心に言葉を刻むが、その言葉が揺らぐ。ちくしょう目が離れない。
カゲツが薄ら笑いを浮かべて俺を見た。「サン、元気が無くて心配したけど大丈夫そうだね、そんなに血色が良ければ」
カゲツの言葉にサンは腕を組んでそっぽを向いた。「お前は、ライガとあの店に入るのか?」赤と紫の控えめな明かりを発する提灯に彩られた二階建ての大きな建物を顎でしゃくる。頼むから行くと言ってくれ。そうすれば俺も行かざるを得なくなる。
「まさか、俺はあんなところに行かないよ」
「めんこい女を見つけたもんな、カゲツちゃんよぉ」ライガが愉快そうに笑いながら、尻尾の耳飾りをした妖艶なお姉さん二人と店の暖簾を分けて消えていった。
サンの鬼をも殺す視線に、カゲツが取り繕うように口角を吊り上げる。
「言ってなかったな……。初めてここに来たときに出逢った娘だよ。烈刀士はよくあることだってさ。ほら、烈刀士は砦暮らしで結婚が難しい。でも、ここで相手を見つけるのが古き伝統らしくってね」カゲツが空気を変えようと言わんばかりに体を伸ばす。「俺、もう行くから、そんな怖い顔しないで団子でも食ってこいよ」カゲツがくるっと背を向けて足早に去っていく。
「んなこと言うなら団子屋の場所くらい教えろ!」サンは小石を投げつけるも、カゲツは笑いながらそれを避けると、人混みの中に消えていった。
ライガは俺を残して入ってしまったし、一人であの暖簾を越えていくのは少々厳しすぎる試練だ。途方に暮れながら、紫と赤の提灯で妖しく彩られた店に目を向けた。
「へぇー、あんたもこういうの好きなんだ」
自分の顔から血の気が引くのを感じながら振り向くと、鬼火が悪戯に使えるいいものでも拾ったかのような笑みを浮かべて立っていた。
「いや、好きではない」
「〝ではない〟ってなに?」鬼火の笑みが深まる。
「特に意味はない」サンは咳払いをして腕を組むと、真面目くさって店を見つめる。「ライガに何かあったら困るだろ。同じ班として、仲間として放っておけない。だから何かあった時のために俺がこうして――」
はいはい、と鬼火がサンの説得力ある言葉を遮って店につまらなさそうな目を向ける。
「ライガはまたここで遊んでるのね?」ささくれ程度の棘が見える言葉に、サンはそうだと頷いた。鬼火はその棘のやり場に困ったのか俺の方を見た。「そういえば、あんたはあたし達と同じ明水班じゃなくなったよ」
恐らく俺は間抜けな顔をしていたのだろう。鬼火は俺の顔を見てばつが悪そうに目を落とし、腰に手を置いて息を長く吐いた。そして説明してあげるからついてこいと言って、酒場へと連れてこられた。前払い制らしく、鬼火に言われた金額を巾着から出したものの、鬼火が払う様子は見られない。つまり、龍人の俺はこいつの巾着というわけだ。刹那の怒りはこの後の話のことを考えると瞬く間に鎮火した。俺が皆と同じ班ではないというのはどういうことなのだろうか。
酒場は土間から広い畳の居間へと繋がっていて、まるで大きな家で祝宴でも行われているような雰囲気だった。
小さな獣の牙の耳飾りをして、磁器の小さな盃と徳利を運ぶ若い仲居が、客である烈刀士に尻を触られ、臆することなく額をひっぱたき返すと、何事もなかったかのように仕事に戻る。それを見た烈刀士達の豪快な笑い声や注文をする声が飛び交い、緊張の糸が緩んだ空気にサンも微笑んだ。
仲居の娘よりも少し大きな獣の牙の耳飾りをつけた中年の女性は仲居頭だろうか。気持ちがいいくらいに素早く丁寧な手つきで仕事をこなし、白い前掛けで手を拭きながらよく通る声で仲居に指示を飛ばしている。
部屋の奥の方を案内されたサンと鬼火は、座布団の上に座り賑やかな男達の喧噪の中で酒を待った。小さな獣の牙の耳飾りをした別の仲居が一人、低く小さな膳に徳利と盃を持ってきて華やかに微笑むと、すぐさま仕事に戻って去っていった。鬼火が徳利を取ると、自分の盃に酒を注ぎながらようやく口を開いた。
「あんたは龍人、もしかしたら特別な班に入るって。明水と皇燕将が話してるのを聞いたから、多分本当」鬼火がいつもの不機嫌じみた目でちらりと俺の目を見てくる。「皇燕将は蒼龍将の言いなりだから、蒼龍将が決めたんじゃない?」
サンは盃を回しながらその中に思考を落として眺めた。蒼龍将は俺を手元に置きたがっているのか。龍人を監視するためだろうか? 俺が蒼龍軍総士、漣豪雹に何かを吹き込まれて良からぬことでもすると思っているんだ。俺はあの人に何も吹き込まれてなどいない。ただ、傀儡になってはいけないという言葉だけが俺を納得させているだけだ。蒼龍将の武器になるようなことはしない。俺は誰にも利用されはしない。
「蒼龍将は烈刀士の将みたいなものだから、仕方ないさ」サンは酒を呷る。「まぁ、龍人の力を扱いきれない俺は危険だから、そっちのほうが皆も安心するんだろう」サンは鼻で嗤う。
「辛気臭いなぁ男なのに」鬼火がサンの肩を殴り喝を入れる。そして、自分の徳利を逆さまにしながら仲居を呼んだ。
細く気品のある物腰でやってきた仲居であろう美しい娘が、この店には不釣合いなほど丁寧な仕草で徳利を置いて鬼火に酒を注ぐ。鬼火は面食らったように礼を言うと、それを一気に呷った。
サンは自分の盃に酒を注ぐ仲居の姿を見つめたくても直視できずに、なんとか見れる範囲に目を向けた。他の仲居とは違い牙の耳飾りをしておらず、豆粒ほどの風鈴の飾りをつけた銀の簪をしている。
「ありがとう」サンはそう言い、照れたように目を伏せる仲居の顔にようやく目を向けて声を失った。
なんて美しいのだろうか。白い肌は化粧をしていないのに淡雪を思わせるほど柔らかそうで、唇はヴィアドラ桜の優しい色でささやかに彩られている。伏せられた黒く長い睫毛の下に、刃ような妖しい光を湛えた紅い眼を垣間見る。人とは思えないその美しさが近づいてきて、耳元で囁かれたその吐息はしかし、サンの背筋を凍りつかせた。
〝人は罪深い。なにも知らずに黄金の褥で眠り、笑う〟
仲居が去っても、サンは盃に目を落として動くことができずにいた。
俺はあの言葉を、なぜかはっきりと憶えている。テットウの娘カグラが、狂気に染めた紅い眼で俺を見ながら言った言葉を。




