五十九話
朝食をすませたサンは谷に鳴り響いた鐘の音に顔を向けると、議会が行われる天星神宮本殿へと向かった。
本殿内部もやはり簡素な造りであるものの、柱や梁は大人四人が囲んでも足りないほど太く彫刻が施された姿は荘厳だった。天井にも彫刻と多彩な色によってなにかの物語が語られている。人々に慕われ崇められている白い天女は天星命を描いたものに違いない。場面がいくつかに分かれていて、風になびく白い羽衣を纏った天星命が深く頭を下げる民衆達に手を差し伸べている場面から、建造物を建てる人々、活気付くヴィアドラの様子が躍動的に表現されている。その彫刻から見る神は、習ってきた歴史よりも遥かに人との距離が近く、親近感を覚えた。
その彫刻が表す物語には鬼も描かれていた。逃げる鬼を追い立てる人々が描かれ、戦乱に変わっていく様が見られる。天星命はどこか悲しげに目を落とし、裂けた谷の中に足を踏み入れた姿を最後に登場していない。続く場面は、鬼と人、人と人の戦禍の炎……。
「ほれ、龍人、拝はしたのか?」
蒼龍将の声に、サンはなんとか天井から目を離す。
本殿に入ってくる要人達は一様に支給された質素な黒い袴姿だった。大名達の中には持参してきたのであろう刺繍の凝った派手な羽織を纏っている者も多くいた。少々場違いな空気を漂わせていたものの、要人の数が多くなるにつれて、何も羽織っていない烈刀士代表である俺と蒼龍将が今度はその空気の元になった。
「お前が龍人とやらで間違いないか」
その重々しく高圧的な口調で話しかけてきたのは、長い黒髪を結わずに後ろに下ろし、太い眉に端を落とした太い口髭、顎は綺麗に髭が剃られてがっしりとした壮健頑強な老人だった。一見すると若く見えなくもないが、目尻と四角い額に寄せられた深い皺、老成な鋭い光によって感情が読めない目は、五十歳近い蒼龍将より長い人生を歩んでいると感じさせた。羽織は簡素で黒一色、だが威厳は本殿にいる要人の誰よりも勝っていた。ヴィアドラ最強と謳われる蒼龍将風斬嵐でさえ敵わないのではないかと思わせるその威圧に、サンは唾を飲み込み乾いた唇を舐めた。
「はい、俺が龍人のサンです」
「それがしは蒼龍軍総士、漣豪雹」
その名前を聞いてサンは目を開くと目を逸らしながらぎこちなく会釈をした。漣豪雹といえば、確か蒼龍ノ國で一番有名な武家だとカゲツが言っていた。〈龍天流〉の漣家、その分家の長たる人物がこの漣豪雹だったはずだ。
「そういえば、お孫殿は元気であらせられるか?」
蒼龍将の言葉に、豪雹は武神のように火を滾らせた目だけを動かして蒼龍将を見た。自分から目線が外れたサンはつまる息を静かに洩らす。
「尻尾を巻いたあやつは志貫けぬ鈍ら者。そのような者が烈刀士にならなくてよかったな風斬」
蒼龍将が朗々と太陽のように「無事でなにより」と笑う。そして目に何色にも染めずに「貴殿の言う通り、葉も揺らせぬ風のような男などいらぬ。そのお孫殿は今どうしておるか?」と続けた。
蒼龍軍総士漣豪雹は血走っているようにも見える爛々と炎を隠さない目で蒼龍将を睨んだ。それもそうだろう、話の流れからすると、蒼龍将は豪雹の孫である氷海を面と向かって侮辱したのだから。
「果たしてお前に関係あることか。それよりも、己の甥のことを心配したらどうだ。父と母を失い、辺境の地でいるなぞ可哀想ではないか」
これは真のことだ。蒼龍将の顔を見てサンは目を瞠いた。あの明朗な笑みは仮面のように剥がれ落ち、鬼に向ける形相がそこにはあった。いや、顔は真面目そのものだが溢れる殺気が異様なほどに大きいのだ。
蒼龍軍総士の横に男が三人がやってくると、蒼龍将の殺気は煙のように消えた。結局その原因の片鱗すら見ることができなかった。考える暇もやってきた三人との挨拶でかき消されてしまう。
三人の内ふくよかながら筋肉であることがわかる一人は巖亀軍総士だった。長身で長い艶やかな黒髪を後ろに結わえて、袂に手を入れて干からびたドングリのような顔をした気難しそうな一人は皇燕軍総士で、もう一人の頭を剃りあげた人は見るからに白鬼ノ國出身といった風貌で、やはり白鬼軍総士だった。
挨拶を交わし、戦技大会の話が始まったその時、本殿内に澄んだ小さな鐘の音が細く響き渡り、議員である大名達は神主によって円形に並べられた脚付白漆塗のお膳についた。
宮司の天星輝陽太朗が出てくると、本殿内は水を撒いたかのように静まり返った。
数段ごとに高くなる祭壇の奥には天星命の眼とされる御神体の丸い鏡があり、その前へ宮司が膝立ち摺り足で近付いて行く。そして額が地面につくほど深い礼をすると、議員達もそれに続いて頭を深く垂れた。サンもそれに倣って頭を下げた。
朗々と響く宮司の儀礼的な声音が、今日のこの議会と日々の感謝を述べる。そして立ち上がり、粛々とした動きで御神体の鏡の前の棚に供えられた御神酒が入った底の浅い大きな盃を手に取る。顔よりも大きな白い盃を手に掲げて頭を下げたまま後ろへ退がると、一番近い議員の元へとやってきて、宮司を前にした議員は顔を上げ、深い礼をもう一度すると盃を受け取り御神酒を一口賜わった。盃が粛々と回されて全員が同じように一口ずつ口をつけていく。
再び宮司が盃を戻すまで、まるで本殿の中を清めるような静けさと宮司の衣摺れの音だけが流れた。
儀が終わり、宮司もお膳につくと再び静寂が訪れる。まるで何かが口火を切るのを待つように。
そしてその口火を切ったのは、ふくよかな巖亀軍総士だった。突如口から血を吹き出し、お膳を蹴飛ばして覚束ない足を駆って本殿から出て行こうとするも力なく倒れこみ、腹を掻き毟り悶えたのちに動かなくなった。
それを見ている議員達の目は冷淡で、流れる川を眺めるようだった。
サンは御酒によるものだと悟り唾を飲み込む。自分の腹に手を当てるも体の異変は感じられない。胃の中が熱を持つ感覚があるだけで、これは酒を飲んだのだから当然だ。そうであってくれ。
そしてもう一人、蒼龍ノ國の大名の一人が苦しそうに腹を押さえて立ち上がり、血を吹き出して脚付の白いお膳を真っ赤に染めて突っ伏した。
次々と人が死に、自分も同じものを飲んでいるのにどうして皆そんなに冷静なんだ。サンは必死に抑える呼吸と耳を打つ鼓動で吐きそうになりながら目の前で起こる流血沙汰に目を瞠くことしかできないでいた。
そして数十秒が流れて重々しい宮司の声が新たな口火を切った。
「私利私欲で議を行おうとする者はこのようになる。心せよ、天星命様はいまだ御存命であらせられる。その御前でヴィアドラのモノノフたる魂を汚さぬよう、銘々しかと心を定めて議を執り行うよう務められたし」宮司が議員の一人一人の顔を見る。「この議をあずかるは、わたくし、天星神宮二十代目宮司の天星輝陽太朗なり」
こうして議は、ヴィアドラを〝護るため〟という信念に沿っているかどうかを基準に進められた。
議題のほとんどは、諸外国との付き合い方がヴィアドラにどう影響を与えるかというもので、積極的に関係を築いていく派と、そうでない派と意見が分かれていて議は平行をたどった。
「烈刀士殿は万年人手不足と嘆かれておりますが、我々國とて協力を渋っているわけではないことを留意していただきとうございまする。昨今のヴィアドラでは、諸外国関係により追い風に乗る矢の如し無色を警戒してか、荘園主達の兵力増強が各國でみられるゆえ、我々大名も領境に兵をおかねばなりませぬ」
別の大名があご髭を撫でながら身を乗り出した。
「あそこも無色ノ國と呼ばれるほどに隆盛であろう。直近の戦技大会では無色の出の者が優勝者、さらには龍人にまで選ばれておる。どうだ、無色ノ國に道場を開設し烈刀士育成の場とするのは」
質素な羽織を纏った線の細い大名が袂に手を入れたまま「ならん」と語気を強めて割って入った。「烈刀士はヴィアドラの高貴な信念を継ぐ者」ちらりと蒼龍将に視線を送るもすぐに中央の空間に視線を戻した。「無色は元々その信念を捨てし者どもの掃き溜め。斯様な者どもを烈刀士などと——」
宮司が膳に笏を打ち付ける。
「天星命様の御前、言の葉の色にお気をつけなされ」
先ほどの線の細い大名が口をもごもごさせながら目を伏せて頷いた。
サンはため息をゆっくりとして吐き出しながら鹿威しのように頭をこっくりさせた。突如響くお膳を金槌で叩くような音に意識を突かれて目を開けると、漣豪雹が人さし指と中指をお膳に立てて内臓を掴んでくるような威圧的な目で俺を見ていた。
サンは背筋を正して坐り直して目を下に逸らした。
「龍人よ」
豪雹の凍てついた山の下に眠る溶岩の見えない熱を湛えたような轟く低い声に、本殿内は静まり返った。サンは唾を飲み込み、目を上げて豪雹を見る。
その目は、ただただ力強く、自分は小鳥で心臓を鷲掴みにされている気分にさせられた。曇り空を知らない心であり、雲を認めない、黒か白かしか認めない目だ。小さい頃に俺を支配していた親の目なんか到底比べものにならない。脅しなどという遊びを知らない生かすか殺すかしか見ない目だ。
「たしか、お前は無色の名も無い人斬りに拾われた無辜であったと耳にしておる。何をもってして龍人となったか、この際どうでもよい。天星命様の御酒を口にして身を滅ぼさぬのも、認められるだけの信念の刃あってこそ。が、己の立つ地のことを何も知らぬようだな」そう言って豪雹は大名達がつくる輪の中の何もない空間に目をやった。何かをそこに見るように。「ヴィアドラの地には四つの國がある。蒼龍、皇燕、白鬼、巖亀。その國の中で大名と荘園主が領地を治めておる。ここまではよいか」
いきなり始まる勉強は辛い。寝起きに耳に入る言葉はさながら岩伝う雨水だからだ。だけど、四つの國があり、國の中で力があるのは大名と荘園主ということぐらいはわかっている。蒼龍軍総士はきっと俺を馬鹿にしているに違いない。
サンが黙って頷くのを見て、豪雹はお膳を貫かんばかりに立てた手を袂の中にしまった。
「ヴィアドラは四國だが、神より賜りし〝憲律〟によって行いを定めておる。憲律とはいわば思想であり〝守るために生まれ、守るために生き、守るために戦う〟という神の法だ。そして、大名は、憲律に則り元老院で策定された〝法律〟によって領地を治める。荘園主は憲律だけを重視し、荘園主の法で領地を治めている。このように、ヴィアドラは各國の内に二つの派閥があると言ってよい。烈刀士は北で戦う戦力を欲しがり、憲律で各國から烈刀士を募ることが認められておるが、大名も領地を治め荘園主に目を光らせなければならず兵を割くことができぬということだ」
サンは腕を組んで眉間に力が入った顔で視線を落とした。大名と荘園主が一つの國の中で力を争い、お互いが信じるのは憲律。ならば法律をやめて憲律にまとめればいいじゃないか。
「なぜ憲律があるのに法律が必要か。そう思っておるのだろう」
この人は俺の考えを読めるのだろうか。いや、当然のことだからなのだろう。唯一の救いは豪雹の目に無知を嘲る色が無いことだ。思わず木刀のように背筋を伸ばしたくなる視線を浴びせてくるが、この人も蒼龍将と同じ純粋な光を湛えている。
「昔は、戦乱の前はそうであった。外の世界が組する前はな。外の世界が組することによって、ヴィアドラは形が変わったのだ。湖に新たな川が加わればいずれ形も変わる。國も同じ。量にあった器に変わらなければならぬ。ゆえの法律だ」
蒼龍将が喉の奥で笑う。豪雹の言葉に耳を傾けて頷いていた者、腕を組んで内心を見せずに耳を傾けていた者達が、蒼龍将のその危険な笑いに目を向ける。
「総士殿。己が思想を追い風に龍人を誑かすおつもりか」
湖の薄氷のような空気。サンは蒼龍将を横目に、そして外の明かりを後ろにして影を落とす豪雹の龍のような眼を交互に見て、何も無い輪の中央を見た。
こんなのに巻き込まれるのはごめんだ。俺はおもちゃじゃない。俺はあんたらの武器でもなんでもない。
「双方、刀を心におさめよ。語るは未来への道、うぬらの道理を神は求めておられぬ」宮司のきっぱりと小石でも投げるかのような声音に、豪雹は目を伏せて僅かに頭を下げる。蒼龍将も豪雹が下げた後に続いた。
この二人が議の黒と白だ。混ざりあわない者同士。親子ほど歳が離れているであろう二人に何があったかは知ることもできないだろうし、知りたくもない。ただ、二人が手を組んだとしたら解決する問題なんじゃないか。北で戦う烈刀士、ヴィアドラを外国から守る軍、本来この二つが対立することがおかしいことだ。
サンは堅い唾をなんとか飲み込み、乾いた喉に空気を送る。かさかさの唇を舐めて目を上げた。「四國の軍の兵の中から、烈刀士の任に就かせることはできないのでしょうか。無色の出である俺でも、烈刀士は誉れ高き存在だと感じました。軍に入る者の中には、烈刀士になりたくてもなれなかった者が大勢いると思うんです」大名の中で、僅かに頷く人達が数人いた。だが、その人達は自分が頷いたことに気付くと顔色を伺うように、ちらりと漣豪雹の方を見た。だが、この場を律する宮司は、俺に肯定的な目を向けている。先を促す沈黙にサンは唇を湿らせて続けた。
「ヴィアドラの多くの人、それこそ烈刀士ではない人達は、鬼の存在すら本の中の生き物だと信じてます。北の実情をもっと知ってもらえたら烈刀士になりたがる人だって大勢出てくるんじゃないでしょうか? 例えば実際に鬼を——」そう言ってサンは言葉を飲み込んだ。
この言葉に、宮司の目に影が落ちたような気がした。
「つまり」豪雹の厚い氷を削るような響く声が支配する。「龍人は五爪城で蒼龍将が犯した罪を支持するのだな」
サンは声にならないものを吸い込んで泳ぎそうになる目を必死に留めて口を開く。何か言わなければ。だが出てくる言葉はない。俺は止り木を間違えたのだ。俺は口を開けて待っていた睨み合う龍の、片方の口の中にいる。
「違います。俺はただ――」
「本質は同じと見えまする龍人殿」宮司の声に、サンは絹糸のように細くなり冷たくなる自分を感じて、僅かに上げた腰を落とした。
宮司の采配によってその場はあるべき議の道に戻された。無色ノ國という言葉、沖合にいるバルダス帝国艦隊の話が上がるも、それらはまるで頭に入ることなく背中を伝う冷たい汗のように落ちていく。
俺は、大きな失敗をしたかもしれない。その見えない不安は海の底のように重く、暗く体の芯を麻痺させた。




