五十八話
霧が視界を奪う薄暗い渓谷は、落石によって砕けた岩や石が霧に濡れて黒ずんでいた。山を登れる程度には体調を持ち直したものの、湿った空気の重さと終わりの見えない坂道、視界を邪魔する霧、滑りやすくなった石の地面のせいで体力は限界に達しそうだった。すでに足を何度か挫いているし、湿気を含んで重くなった戦装束にはもううんざりだ。
前を歩いている蒼龍将が足を止めた気配がしてやっと休憩かと顔を上げる。笠を伝う水滴がいくつか落ちたのが見えただけで、目を向けたそこにはなにもない——ように見えたが、サンは息を呑んだ。
霧が生き物のように渦巻き形を成していく。それは腰ほどにまで達しそうな髭をたくわえた老人の姿になった。サンは瞬きすら忘れてゆっくりと息を吸い始めながら刀の柄に手を滑らせる。老人は威厳のある姿ではあるものの、体はいまにも風に吹かれて消えてしまいそうな霧で揺らぎ、曇った眼はしっかりと俺を見ている。その霧の老人の姿が歪み掻き消すように蒼龍将が現れた。柄に手をかけているサンを見て、無表情に眉を一つ上げて見せた。
「ここで稽古をつけてやる気はないのだがな」
サンは細い息を吐くと笠をちょんと下げて謝ると唾を飲み込んだ。蒼龍将が歩き始めるも、サンは先程の霧の老人が立っていた場所を凝視した。蒼龍将が振り返り、目を細めてサンを呼ぶ。
「龍人よ、世界にはそれがしらの知らぬことのほうが多い」そう言って目を細めたまま蒼龍将は喉の奥で深い笑いを味わうと、サンに近付いて胸を指で突いて顔を覗き見た。「この力もな。どう扱うかが大事だ」
サンは蒼龍将の最後の言葉に思わず顎を引いて目を地面の石に向けた。笠があって良かった。引き攣った顔を見られたらなにを思われるかわからない。サンは咳払いをして地面を指差した。
「さっき、ここで霧が老人になったんですよ」
蒼龍将はサンが指差したところを迂回して進むと、振り返る。
「一つ聞いたことのある話をしてやろう。死んだあと、人の魂はある一つの場所へと向かう。おぬしも聞いたことはあるのではないか〝魂の山〟という名を」蒼龍将は手応えのないサンの顔をみて言葉を続けた。「だが、全てではないようでな。強い意思を持った魂は、消えることなくなんらかの形で留まるのだそうだ。戦神のように」
サンは周囲の霧に目を向けた。
「さっきのは、意思を持って留まった魂ってことですか?」
蒼龍将は愉快そうに含み笑いを見せると、踵を返して登り始めてしまう。サンはその背中が霧の渦を巻きながら消えていくのを見て、急ぎ足で後を追う。
留まった魂って、それはつまり、幽霊ってことか……。
幽霊という得体のしれない存在の重さに目を右往左往させていたが、やがて霧が晴れてきた。未だ坂道が続くものの、目の前の光景に先ほどの心は何処へやら、口をあんぐりと開けて笠を脱いだ。
太陽の澄んだ光を遮るものはなにもなく、風は切り裂く冷たさを湛えているものの、冷涼に意識を覚醒させる。ここにあるのは太陽と群青の空と辺り一面の波たたぬ雲の海。
魂だけ足を踏み入れることを赦されたような世界を前に、震えながら息を吸って呼吸を忘れていたことに気が付いた。
天界というものがあるならば、それはまさしくここだろう。言葉もなく頬を撫で下ろして、太陽、雪の岩山、藍色の空と白き雲だけの自然の偉大さに、目を瞑って頭を垂れた。
「ほれ、あと少しだ」
蒼龍将の言葉に頭をあげたサンは、拳で頬をさっと拭って頷いた。
続く坂の上を見上げれば、霊峰と呼ぶにふさわしい黒岩が切り立つ頂きがあった。そこに辿り着き、なぜ山の頂上だと言うのに〈凪ノ谷〉と呼ばれるのかを理解した。
頂上だと思ったそこは、火山の噴火口のように穴が空いていた。いや、穴ではない。まるで巨人が手で木を引き裂いたかのように岩が鋭い縦筋を立てて開かれていて、それが谷と呼ばれているのだ。
その谷の中には、木造の巨大な神社が建てられていた。質素な色合いながら、遠くから見てもわかるほどの凝った彫り意匠が柱という柱に施されている。
あれがヴィアドラの神の一柱〝天星命〟を祀る天星神宮だった。眼下に広がる天星神宮に目を奪われていると、艶のある深い茶色をした板張りの広場に白い狩衣と深緑の袴を纏った神主がいまだ〈凪ノ谷〉を見下ろしている俺と蒼龍将に礼をしているのが見えた。
蒼龍将が被っていた笠を脱ぎ、同じように礼を返した。同じように俺も礼を返す。
大きな鳥居を潜り階段を下りてようやく広場に着くと、先ほどの神主がが近づいてきた。白い狩衣は銀色の糸で縁を装飾していた。光の反射がなければ気付かないくらいに控えめだ。深緑の袴は絹なのか柔らかく艶やかで、銀糸と桜色の糸で七つの花びらをもつヴィアドラ桜の花が刺繍されていた。清廉な豪華さはどこか刀と通ずるものを感じさせた。
「ようこそおいでなさった、蒼龍将風斬嵐殿、龍人殿」神主がサンに向き直りゆっくりと礼をした。「私はここ天星神宮の宮司を務めます、天星輝陽太朗と申します。ささ、湯浴みと食事を用意しておりますので、長き旅路を癒されましょうぞ」
手紙の送り主だ。ここの神宮で最も地位の高い宮司だったとは。サンは改めて礼をすると、〈無色流〉と名前を名乗った。
宮司と同じように狩衣を纏っているが、装飾の一切施されていないものを纏った若い神主が二人やってきて、自己紹介をすることなく礼をすると手の平を上にして差し出してきた。
サンは神主の姿を眉を上げて見つめたが、蒼龍将が大太刀を神主に渡したのを見て、自分も〝心・通〟とを同じように神主に渡した。
初めての場所で刀を渡すと、なんとも言えない漣が心に立った。浮き立つものに腕をさすりながら、蒼龍将が刺客から奪った鞘に入ったままの黒刀を手渡すのを見た。
「それと、よからぬ蝿がこれをもっておったのでな。あとで詳しくお聞かせ願いたい」蒼龍将は宮司に手渡しながら、相手の目をじっと見つめた。
宮司が刀の鯉口を切って僅かに刃を覗いた。同時に黒ずんだ石のような刃を見て宮司は目に衝撃を浮かべると、さっと目を上げて蒼龍将の目を真っ直ぐと見返した。「よくぞご無事で」真摯な光を湛えた宮司に、蒼龍将はそよかぜのような笑みを返した。
てっきり、神宮というほど大きな神社なのだから、食べるものは豪華なのだろうと想像していたが、サンは目の前のものを見て雨に負けた焚火のような顔をした。具の無い味噌汁に大根のしょっぱい漬物、生卵が一つ。唯一の救いは湯気の立った白米だろう。
湯浴みと言われ、ようやく体をほぐせると思って蓮の実のような蛇口から水を出すと、それは湯気立つ白米を一時間放置しても再現できないほど冷えた水だった。驚いた俺は蒼龍将に訴えたが、湯だと思えば湯になると言うではないか。
なるほど、おかしいのは俺なのかと、驚愕や怒りが吹っ飛ばされてなぜかその言葉が腹にすとんと落ちておさまったのだった。
翌朝、寒くて目が醒めると蒼龍将の姿は褥にはなかった。やってしまった、寝坊か。どうして起こしてくれないのかという恥ずかしい怒りに頭を振って、用意された着物と袴に着替えると急いで部屋を出た。だが、外は静まり返っていた。通路にいた神主に議会がどこで行われているのかと尋ねると、それは昼からで要人達はまだ寝ているということだった。
零れる笑いを転がして高欄に体を預けながら感謝を伝えると、改めて朝の寒さに身を震わせた。それを見かねてか、神主は陽の当たる迎陽があると教えてくれた。足のつま先を縮めたり伸ばしたりしながら再び会釈をすると、神主は体を動かしてみてはどうですかと言って去っていった。
迎陽は烈刀士の砦だけのものでは無いらしく、ここ天星神宮の迎陽も朝日を拝むことができた。切り立つ岩山の裂けた間を朝陽が昇り、裂け目に沿って昇っていく姿は鋭く劈くように目に沁みた。朝陽と漠漠とした凪の静けさの大きさに、思考も心もどこまでも深く静まり返る。
朝陽のおかげか、寒さがなくなると体を動かしたくなり、迎陽の間で拳を突き出し、組手の型を繰り出した。そして気を集めて体の内に芽生える光を握ろうとして、思わず目を瞠いて自分の手を呆然と眺めた。集めて握ろうとした気は、しかし収束することはなく、いかなる意思を信念のもとに焚きつけてもそれは細かい振動によって砂のように崩れ霧散してしまう。
龍人だと言うのに、気が使えなくなってしまったのか?
流れる冷や汗を拭い、音を立てて唾を飲み込む。
「誠、殊勝、殊勝」
蒼龍将が用意されていたのであろう揃いの袴姿で迎陽に立っていた。俺の汗を見て、朝から鍛錬を積んでいると思ったのだろう。
「体を動かしたくて」震えそうになる声で言った。龍人の力をまともに扱えず、烈刀士としても覚悟も強さも半人前の俺が、秘術を使えなくなったかも知れないと言ったらどうなるのだろう。サンは着物の襟と首の間に指を滑らせて深呼吸をした。
膨らんでいく不安の端でどこか冷静に考えていた思考が、ある感覚を掴む。気が無くなってしまう感覚は、森の中で黒刀を持つ刺客と剣を交えた時と似ている。
俺の顔を見て、何か気付いたように蒼龍将が快活な笑いをあげる。その声が谷に響いた。
「おぉ、わかったぞ。おぬし、気が使えないことを知った顔だ。敵を目の前にして刀がないことに気付いたような顔をしておるわ」蒼龍将は平気なのだろうか、この丸裸にされたような感覚に鷲掴みにされているというのに。蒼龍将が裂かれたような黒濡れた岩肌を指差した。「この〈凪ノ谷〉はな、岩ではなく〝滅神鉱〟と呼ばれる金属だ。ヴィアドラではここでしか取れぬと聞いておる。おぬしはこれと対峙したことがあるはずだ」
「黒刀……」サンは汗が引いた顎下を撫でながら小さく声に出した。
「さよう。この鉱物から作られた金属は気を殺す」気は魂と同じことと聞いたことがある。それならば……。蒼龍将はサンの困った顔をみて頷く。「その気持ちはわかる。なんでも命まで奪う訳ではない」蒼龍将が日の当たる場所まで降りながら、身振り手振りを混ぜて続けた。「命は体に巡る生きるための力だ。魂は産まれ落ちてから生きる中で大きくなっていくもので色定まらぬ水のようなものよ。何色にも染まるが何色にも染まらぬ。全ては己の信念によって魂の色は決まる」蒼龍将は拳を突き出す。「気は、秘術を用いて表に出す魂の別の形と思えば良い。感情、意思、それによって魂は震えて色を持つ、つまり一時的に形を得るのだ。その形を秘術によって収束させたものが気となるのだ。だが、形あるものは崩れやすい。あの滅神鉱のもつ力は、気の形を崩してしまうのだ」
人の魂は水のように何色にも染まらないが何色にも染まる不安定なもの。自分自身でどうにでもなるが、気は信念、意思、感情によって彩られて形を得た魂の化身ということか。サンは噛みしめるように頷いた。
「だから怒りは力になりやすいのか」
「さよう」蒼龍将を見ると、脇に垂らした腕を腰あたりまで広げて掌を上に向けて立っていた。最強体術〝千手の構え〟だ。
「おぬし、体術はからっきしか? 刀や気は武器ではあるものの、真の武器は己自身、体術こそ基礎」蒼龍将が掌をちょいちょいと曲げてみせる。「龍人は強くあらねばならぬ。ちょいと体術の稽古をつけてやろう」
強くあらねばか。強い武器として。サンは目を落として礼をすると、深呼吸をした。
〈無色流〉の剣術の道を多く覚える過程で体術も学んできてはいた。足捌き、体重移動、これは武術の基礎だと教わったからだ。
サンは重心低く摺り足で素早く近づくと、正拳突きから後ろ回し蹴りをお見舞しようと腰を捻り、蒼龍将の姿がないことに口を歪ませる隙もなく気がつけば迎陽の堅い板間に体を打ち付けていた。
サンの軸足を払った蒼龍将は腰を深く落とし、片足を坐禅の形にしてもう片足で立っていた。それはまるで宙に座っているかのように見えた。
蒼龍将は含み笑いを喉の奥ですると「龍人よ、それしきか?」と言って目を瞑った。
サンは胸を焼く吐息をゆっくりと吐きながら首を振った。俺には名前があるっていうのに。
蒼龍将の不思議な宙に座るような構えは、袴のせいで足元が見えず宙に座っているように見えた。不安定すぎるその構えには見覚えがあり、はっと息を呑んだ。
サンの漏らした小さな声に、「ほぉ、やはり〈無色流〉なだけはある。この構えの意味がわかるか龍人」と蒼龍将は目を瞑ったまま耳を傾けて言った。
蒼龍将は、掌を上に向けて肘をわずかに曲げ、柔の構えをとって喉の奥で笑った。
この構えは〈無色流〉の吊り劔の構えと同じ性質をもっているのだ。そして先制攻撃ではないという精神性、どの角度から攻撃されても反撃に移れるように重心を一点に集めた独楽に似たもの。だけど、〈無色流〉の無理な体の動きは剣気を扱う前提のもののはず。そもそも、気を使えないのならば戦神の力を憑依させるのだって無理じゃないか。龍人たらしめるものがないのに、なぜ龍人と呼ぶんだ。
サンは奥歯を噛み締めながら摺り足で慎重に動いて背後を取ると、跳躍して花びらのようにひらりと一回転して、蒼龍将の無防備な首元を狙って蹴りを放った。
回転の力で風を切る蹴りが吸い込まれるように蒼龍将の首元に迫る。蒼龍将が僅かに首を傾げる。音で獲物の位置を確かめるかのように。
蹴りを掌で受け止め——そう思ったサンは唖然とする。
足が掌に触れたと思った瞬間、サンの蹴りの勢いを使って蒼龍将の体が独楽さながらに半回転したかと思うと折り曲げていた足が、谷底から吹き上げる突風のようにサンの鳩尾を打ち据えたのだ。華麗に舞った花びらは、しかし地に触れることなく突風に切り裂かれたのだった。
サンは受け身も取れずに打ち付けた腰を押さえながら、息ができずに額に青筋を立てて膝をついた。
あんな体術があるのか。蒼龍将は先ほどと同じ格好でこちらを見ている。そして袴をあげて見せた。
その構えは親指一本で体を支えていた。蒼龍将は力む様子を微塵も見せずに言う。「千手の構えは、全ての体術の祖だ。千の剣技、千の拳を極めた武の神、千雷千手命。武の技に於いては戦神を凌ぐともいわれた神の一柱、その拳が千手体術だ」蒼龍将は片目を開けて悪戯な笑みを浮かべて続けた。「この構えの体術は〈無色流〉に似ておる。お前さんにお誂え向きよの」




