五十七話
花びらを撫でるような柔らかい陽射しは、いまだ鋭さを残しつつもブナの森に慈光を垂らしていた。吹く風は悪戯に首元を駆けていき、やはり土期であることを思い出させる。この雪と寒さ、静けさに横たわる空気の匂いは、ロジウスさんの中庭で鍛錬を積んでいた朝を思い起こさせた。
薄く地面を覆う雪道を歩くサンは、足を踏み出してそのまま固まった。三歩ほど前を歩く蒼龍将が遮るように片手を横に伸ばしたからだ。烈刀士の任で巡回をしていたときに身に刻まれた命令に体が勝手に反応する。
サンは耳を澄ませ、蒼龍将とは真逆の方向を向いて警戒態勢に入る。日が頂点にきて数時間経った森に風らしい風は吹いておらず、音の一つもしない。時折、小枝を踏んだような音がしたりするが、鳥が枝を離れた拍子に枝が地面に落ちた音か、自然に落ちたかだろう。人の気配はない。こういうときに明水班長は、気を周囲に張り巡らせて気配を感じると言っていた。
サンは何も考えずとも練り上げられるようになった気を解放する。もはや、気は体の一部であり、何も考えていなくてもふとしたときには常に体の芯で握っていた。
森に広がる霧のように、静かに地面を這って進む姿を想像して解放した自分の気が、風にも揺られず広がっていくのが手に取るようにわかる。目を瞑って手探りで探していくような感覚に似ている。深々と静まる森の地面の温かい場所や影になって冷たい場所。木を駆け上る小さい生き物はリスだろうか。
「そのような垂れ流しでは、相手に場所を教えているものぞ、龍人。風を意識せい、自然になりすますのだ」
その言葉に、繋がっていたはずの気が感じられなくなってしまった。サンは首を振ると深呼吸をした。
「ときに、おぬしは人を斬ったことがあるか?」
龍人の突拍子もない質問に「はい?」とサンは思わず振り返った。
人を斬ったことだって? 見たことならある。ほんの五、六年前のあの日。無色の町にやってきて、人足の子供達に朦朧とするまで殴られてヴィアドラの桜の木の下で休んでいたときだ。そこで初めて師匠を見たんだ。四人の刺客を美しく斬り倒していく師匠の姿を。そして夕黒が誰かも知らずに、興味本位で夕黒を探ったときに目撃した、カゲムネとキンザン会長の首が落ちる姿。首が落ちる姿には、今思い出しても身の毛がよだつ。
「言葉の通りだ。人を斬り伏せたことがあるか?」
「そんなこと、あるわけないです」
「さようか」蒼龍将は重い息を吐いた。「その時がきたやも知れぬ」
蒼龍将の声に、サンはゆっくりと振り返った。蒼龍将が腰を少し落とし、腕が動かしやすいように袂を腰帯に入れ込んで、袴の端を帯に入れ込んでいた。背中の布に包まれた大太刀に手を伸ばすことはなく、五爪城で見た両手を少し広げる千手の構えをとったのを見て、サンはその時とはどういうことだろうかと首を傾げたくなった。
俺は人斬りではないし、人を斬る覚悟も持っていない。そもそも斬る必要がないはずだ。俺は烈刀士であり、鬼や妖魔からヴィアドラを守るために刀を抜くのだから。
事態が飲み込めないでいると、蒼龍将の前の太い木の後ろからそっと出てくる影があった。木の色にそっくりな茶色い戦装束に、顔を布で纏い目元だけを出している。刺客だ。
「己の前を見よ龍人、気を抜くでない」
サンはハッと自分の後ろを振り返った。俺達を挟み撃ちするように後ろにも同じ格好をした刺客が立っていた。
刺客が刀を静かに抜く。その刀は、しかし光を閃かせることはなく、黒く石のようにくすんでいた。
「黒刀とな……」蒼龍将の喉から漏れる苦笑が背中越しに聞こえてくる。黒刀ってなんだ。サンは刺客の変わった刀を凝視した。「龍人。闘気、剣気は役に立たぬと思え。黒刀は気を封ずるゆえ」
その言葉を聞き悪寒が走る。そして言い様のない蛇の笑みを湛えた恐怖が背中を撫で上げて俺をすっぽりと覆ってしまった。気を封じられるということは己の心を箱に閉じ込められること。永遠の暗闇の中に閉じ込められるなら、裸で妖魔の森に置き去りにされる方がまだましだ。必死に唾を飲み込み、逃げ出そうとする自分を腹に押し込んで殺す。
静かに刺客が摺り足で近付いてくる。
サンは愛刀〝心・通〟を二本とも抜くと、吊り劔の構えをとった。足を少し前後にずらし、踵を僅かに浮かせて膝を曲げる。危うげな立ち姿だが、これは落ちる花びらの動きをするためであり〈無色流〉落桜ノ舞の姿だ。気が使えないとあっても、俺にあるのはこれだけだ。
刺客の目に懐疑的な光が走った。俺の中で練り上げた気は露ほども乱れを感じられない。
中段に構えられていた刺客のその冷酷な黒い刃が、風を甲高く切り裂きサンの体を狙う。練り上げた剣気を体に巡らせたまま、サンは腰を落とし刺客の黒き刃をすれすれで躱すと、剣気ではち切れんばかりに脈打つ筋肉をしならせて踏ん張ると、反撃の一太刀を閃かせる。相手には地面に落ちながら舞う花弁の如し剣に見えただろう。初めて目にした者は、意表を突く剣筋についてはこれない。防げたとしても、次の影から現れる風のような一太刀を捌くことはできない——はずだった。
サンの最初の一太刀を、刺客は危うげに黒刀で受け止めた。サンは最後の一撃を叩き込もうとして、蒼龍将の言った言葉を理解して目を瞠いた。
黒刀に自分の刀がぶつかった瞬間、体に巡らせていた剣気が震える砂のようにしてその形を失い、練り上げて体の芯で握っていた眩い気もろとも何処かへ行ってしまったのだ。剣気無くして落桜ノ舞、もとより〈無色流〉の剣術を保つことはできない。動き始めていた体が剣気という支えを失い、最初の一太刀の有り余った力に振られて地面を転がり雪と泥をまきあげた。
呆気にとられながら顔を刺客の方へ上げた。敵を見失えば最後だ。冷たくて軽くて、それなのに抱え切れないほど重く濃い死の恐怖が、体の芯から髪の毛一本までを支配する。
サンは恐怖を払おうと雄叫びをあげながら立ち上がり、刺客がいるであろう場所に刀を振り下ろす。刺客がそれを半歩下がり体を傾けて無能な一太刀へと変えてみせる。お返しと言わんばかりに、光さえも纏わない死の刃を、サンの肩から腰まで閃かせた。
体に灼熱の衝撃が走り、なけなしの勇気が音を立てて崩れ落ちる。その痛みは収束を知らぬ膨張を続け、赤い鉄を突っ込まれた水のように沸き立った。
熱い。
痛い。
死ぬ。
傷を抑えることもできずに、刺客の目を見たままサンは地面に崩れ堕ちた。俺を見下す刺客の目に感情は感じられない。その刺客の首に何かが横切った。刺客の目がわずかに開いたように見えたと思った刹那、その頭が体から離れて地面に転がり、追うようにして首から脈打つ血を溢れさせながら体が地面に倒れた。
蒼龍将が刺客の立っていた背後で刺客から奪ったのだろう黒刀を鞘に納める。
もうこれ以上広がりようがないのに膨張を続けようと体を打つ痛みの中で、サンは必死に地面を掴むように目を瞠った。俺は死ぬ。皆、ごめん、俺……。
「深いな。これはまずい。落ち着け龍人よ、おぬしはまだ死なぬ。己を手放すでない」
蒼龍将の落ち着いた声を聞き、沸騰した泡ぶくのように現れては散らばり消える思考が緩やかになっていく。
俺は大丈夫、蒼龍将がそう言っている。痛い、熱い、重い。自分の傷を見ようと首をもたげるが、蒼龍将が額に手を乗せてそれを押さえ込む。
「深いが肺には到達しておらぬな。致命傷ではない。つくづく運のいい奴よな、龍人にも選ばれて、こんな傷ですむとは」
早くなんとか、この痛みを。サンは必死に目で訴えた。足りない呼吸をすがり貪りながら。
蒼龍将が、文字とも見えない何かが描かれた札を取り出した。それを直接傷口に貼ったのだろう。サンは灼熱の拳に刺される痛みに雄叫びをあげる。だが、その札から煙が立ち昇ると次第に痛みが引いていった。そして嘘のようにその痛みも完全に消えていく。さっきまでの痛みはなんだったのかというような具合だ。泥になっていくような重い脱力感に意識が引っ張られていく。痛みの鐘の音の残滓が遠い波のように脈打つのを最後に、確かに感じる己の生きているという意識を抱いたまま目を瞑った。
目を開けて自分が眠っていたのだと知った。呼吸すら重く感じる気分をどけて、目だけを動かしてみた。擦れた木材で密閉されたかのような部屋にいるようだ。風が顔を撫でていくのにつられて顔を横に向けると、窓から川が流れてるのが見えた。天井の方から重厚な木の軋む音が部屋全体に広がっていく。この音は、帆が風を受けている音、ここは船室なのか。
寝台以外には火のついていない角灯が天井で揺れているだけの船室には、寝台の横に窓がついていて、そこから外の様子を窺うことができた。見慣れた蒼龍ノ國の河だ。商船が行き交い、たまに小さな蒼龍軍のプルーシオン巡回船がすいすいと水を切っていた。キリ師範がもしかしたら乗っているのかもしれないと考えると、急に恋しさが胸を締め上げてきた。
蒼龍将が船室にやってきて、水と粥を食べさせてくれた。今は〈流龍京〉へ続く河を上っているところらしい。懐かしい、戦技大会に出て、ライガと再会して、カゲツと本気で戦って、あいつが俺のことを太陽なんだと言っていたのを思い出す。皆、元気にやっているだろうか。
河を見ていたはずなのに、目を開けるとそのたびに自分が寝ていたのだと知った。時間の経過を感じさせられる外の景色を見ても、自分が今どこにいるのか皆目見当もつかなかった。
いつしか川はかなり細く浅いものに変わった。小一時間眺めていてもすれ違う商船は一つもなく、手漕ぎの小舟に乗って釣りをしているお爺さんがいたくらいだ。景色も蒼龍ノ國のように開けておらず、ごつごつと細かい穴をもつ表面をした岩が乱立している。
突如、船室の端から寝起きを味わうようなあくびが聞こえて、ギクリとしてそちらを見た。いつからいたのか、蒼龍将が低い椅子に座って腰を伸ばしていた。
サンの視線に気付いた蒼龍将は、サンと目を合わせてから何も言わずに窓の外を見た。
「巖亀ノ國に入ってからもう四日が経っておる」
四日。果たして蒼龍ノ國はいつ抜けたのか、俺はどれだけ眠っていたのだろうか。心なしか、体の重さは薄らいでいた。
「四國の国境に〈凪ノ谷〉と呼ばれる聖域がある。天星命を祀る天星神宮があってな。天星命はヴィアドラの神の中で唯一の女形で、他の神と人の間を取り持った心優しい神だったそうな。その天星命のお膝元で、神より賜りし信念を世に伝え、繁栄するための議を執り行なうのだ。蒼龍ノ國の川を上り、巖亀ノ國を抜けると〈凪ノ谷〉へと辿り着く」
サンは外の見慣れない岩だらけの景色を眺めた。雲に触れそうな塔のような巨岩が、頂上に僅かな草木を残し、険しい灰色の岩壁を見せて低く垂れ込んだ霧の中にいくつも聳えていた。どうやったらこんな地形になるのだろうか。
「珍しい土地であろう。かくも巨大な岩の峰を初めて目にしたとき、それがしはこれこそ神の姿ではないかと目をこすったものよ。巖亀ノ國の者どもは、あの岩をくり抜き町を築く。天然の岩屋戸であるあれは、まさに自然との調和と言える」蒼龍将は、顎の灰色がかった短い髭を撫でて身を乗り出してきた。「面白い逸話があっての。戦神すら凌ぐ武の神、千雷千手命が修行の場にここを選び、あの峰の一つ一つは弟子の修行の場として地から引っ張り上げたと云われておる。誠、怪力よな」
本当に信じているのだろうか? 御伽噺は数多く存在し、鬼のことや神のことが記されてはいるが、どれも物事が大きすぎる。鬼に関しては本当だったけど、それだってある程度現実味のある話だった。悪いことをすると鬼に攫われて食べられてしまうだとかそういう類だが、神は山を起こすだとか大袈裟すぎるのだ。
「神は本当にいたんですか? こんな大地を引っ張り上げるような力を持っているのに、なんで鬼を滅ぼさなかったのか、俺には理解できません」サンはむせるように咳をした。
蒼龍将はサンに竹筒の水筒を渡しながら喉の奥で笑う。
「確かに、なぜそれほどの力をふるわなかったのか、歴史に記されてはおらぬ。だが、神は何処へ去って行ってしまった。消える定めであったのやも知れぬ。ゆえに、ヴィアドラの民が強くならねばなるまい? 神が去ったのは愛の鞭、神の采配と先祖は考えたのだ。戦神だけが魂を遺し、依代である龍人を通して見守って下さっている。その心の柱にもたれ、我々は神から賜った秘術の力を、大切なものを守るために戦うという信念にてふるい生きてゆくのみ。神が実在した、しなかったは意味は持たぬ。大事なのは、信ずるか否かであろう」蒼龍将は深い溜め息をついて立ち上がると、腰に手を当ててほぐすように回した。「それがわかっておらぬのが、白蟻だ」
蒼龍将は扉を開けて船室から出て行った。
蒼龍将は信じているのだろう。そして、蒼龍将が言う白蟻が誰なのかわかった気がした。烈刀士が戦っている脅威を御伽噺の産物だと思い、鬼を妖魔の誇張した存在だと認識し、神の存在とその意味を忘れて暮らす者達。かつての俺のような人間達だ。
蒼龍将の点のように気になっていた言葉が繋がってしまった。白蟻に喰われた家は建て直すしかない、龍人の力をどうふるうか、ヴィアドラに干渉する他国、それをよしとするヴィアドラ。
蒼龍将は、ヴィアドラという家を建て直す気でいるのだ。砦の迎陽でまみえた烈刀士将達、食堂で俺を見る先輩達の距離をおいた目を思い出す。特別な力を持つ龍人にどう触れていいのかわからないのだと思っていたが、それは間違いだ。
あの人達の目に映っていたのは、龍人という武器だ。




