四話
サンは森の中を歩いていると、小道に出た。無尽蔵に命を謳歌する雑草に挟まれた小道には、細い轍が視界の続く限り延びており、誰かが通るような気配は感じられない。蝉の鳴き声にサンは一人顔をしかめていた。ふん、と鼻を鳴らすと、緑の蒼い匂いを吸い込み胸に広がるのを感じながら歩き始める。
目指すところはわからない。確か、ライガの話の中に町があるって言ってたっけ。ライガはどこかの町にいた記憶があるのだろうか。
ライガのことを少し考えるだけで、心臓のあたりが握りつぶされそうになるのに耐えられず、もう一度息を吐く。
小道の脇の草、木々の葉に波を立てていく風を浴びて、幾分か気が楽になると、再び歩き始める。すでに陽は高く昇り、頭の頂点がチリチリと痒くなってくる。喉が乾いたな。腹の減りはまだ我慢できるが、水はないと辛い。そのうち頭が鶴橋で叩かれる石みたいに割れてしまいそうになってきて、吐き気がくる。続いて意識が朦朧としてきて、気づけば倒れてる。そうなったら死ぬことの方が多い。だけど、生きててなんの意味があるんだろうか。
振り返ってみると、自分がどこから出てきたのかもわからなくなっていた。そんなに長く歩いたっけ。森の木が、少し目を離すと違う形になっているような気がして、急に不安感がつのり始める。
いやいや、ここは小道だ。ここを辿ればきっとどこかにつくんだ。そこで待っていればきっと……。きっとなんだよ、何を待つっていうんだ、見ただろ、親友がどうなったか。
胸を潰そうとしてくる何かから逃げたくて全力で走った。何もかも忘れたい、走れば遠ざかる。目に入る汗がうっとおしい、麻の襤褸の服がひどく重く感じられ、顎の下にたまる汗を拭うと、脱ぎ捨てて脇に放り投げた。
峠を越えて下り坂に差し掛かった時、少し下に誰かいるのが見えて、咄嗟に脇の雑草に飛び込んだ。草の合間からわずかに見えるあれは牛車だ。俺よりもいくつか年上の少年と、大人の男がいる。牛車は窪地にでもはまったのか、変に傾いていた。
すると、大人の方が腰に手を当てて森の方を見てから、少年と短いやり取りをして一人森の中へと消えていった。サンは少年しかいない牛車に忍び寄ると、雑草から飛び出して少年に近づいた。サンに気づいた少年は驚きに目を丸くすると、サンを上から下まで二回も見てから、慌てて両手を前に出して止まるようにと声を上げる。
「なんだいなんだい! 君は、どうしたんだい? いったい誰なんだい?」
「水をよこせ」
どうにでもなってしまえ。だけど、もし大人が戻ってきたら、俺を怒るに違いない。殴られてたまるもんか。それよりも早く水を取らなければ。
サンはさらに詰め寄る。少年は大人が去っていった方向とサンとを交互に見やり、必死に笑顔を作っているが、目は焦っている。
「み、水? わかったからそんなに怖い顔しないでおくれ」
少年の投げ渡す竹の水筒を受け取ると、サンは栓を抜き一気に呷った。水が喉を押しひろげて流れ込む感覚がたまらない。サンは一気に飲み干すと、それを少年に投げ返す。
「すごい飲みっぷりだね。どこからきたんだい?」
少年は遠慮がちにサンの身なりを眺める。サンが答えないのを怖がったのか、少年は首の汗を手のひらで拭い、なんども瞬きをしながら遠慮がちにサンを様子を窺った。
こいつに話すことなんかない。大人と仲良くしているんだ。俺を突き出すに決まってる。
サンは男が入っていった森と牛車の荷台に積まれたものに交互に目を走らせた。
「僕の名前はタヨリ、父さんと手紙を運んでるんだよ。町と町、町と村とか、君の名前はなんていうんだい?」
「水、ありがとう」
少年は本当の笑顔を見せると、胸の前で両手を握って頷いた。
「この道の先に町があるのか?」
「そうだよ、無色の國随一の港町さ。そこに、知り合いはいるの? お父さんとか親戚とか達もいるの?」
「お父さん? 親のことを言ってる? それならいない。いてたまるか。だけど、聞いてどうするんだよ」
「そ、そうだね。でも、君は、急いでいるようだけど、なにか事情があるのかな?」
サンは鋭い眼差しをタヨリに向ける。
「関係――」
「小僧! 何してる!」
森から聞こえてくる怒声にサンは跳び上がると、一目散に駆け出した。
やっぱり大人はみんなああなんだ。サンは振りかえらずにとにかく走った。走って走って陽が落ちて、鈴虫がそこらじゅうで鳴き始めた頃、ようやく人のものと思われる灯りが見えてきた。
「なんだよ、町ってこんなものか。海がないのになんで港町なんだろう」
夜の闇にいくつかの棟が見える。どれも一階建てだが密集して、あってなんの意味があるのだろうかと思わせる柵が、それらの家を大きく囲んでいる。広さなら鉱山の方がまだ広い。牛が数頭いる厩舎が一つある。あそこなら寝られそうだ。
サンは柵を乗り越えて忍び込む。途中で動物の吠える音が聞こえてびっくりしたが、犬だとわかったらなんともなくなった。たまに商人が連れているところを見たことがあったが、みな大人しく人を襲ったりしない。だけど、それにしてもよく吠える犬だな。
忍び込んだ厩舎の藁をかき集め、床に敷くと、サンはそこに寝っ転がった。
こんなふうに寝っ転がってみたかったんだった。厩舎の掃除をやらされてたときに、何度もこうしてみたいと思ってたっけ。結局、十歳になって運搬に回されたからできなかったけど。ライガは外の世界にはなんでもあるって言ってたな、本当かもしれない。すでに一つ見つけたよ。
犬の吠え声がすぐ隣で聞こえ、サンは跳び起きた。心臓が縮まる思いはこれで何度目か。おかげで自分が寝ていたのだと気がついた。
そんな考えもつかの間、すぐに消し飛んだ。犬の横に口を一文字にした老人と、老人が持つ縄に抑えられて飛び掛かれずに吠えている犬が目の前にいるからだ。こんなに凶暴な犬がいるのか。老人の目は、いつもの大人の目だ。
サンは立ち上がると、周りに目を走らせる。どうやら出口はないらしい。
「こんの薄汚い小童が。誰のお許しを得て寝ておるんじゃ、あぁ?」
近くには何もない。あるのは藁くらいだ。藁にもすがる思いなんて言葉を聞いたことがあったけど、今みたいな状況か、ちくしょう。
「ここはわしの厩舎でわしのもんだ。この藁一掴みだってタダでやりゃあせんわ! 汚ったないこの鼠め」
「俺は鼠じゃない! ただ寝てただけじゃないか。俺が何したっていうんだよ」まったく吐き気がする。これだから大人は。
「何しただと? これからするつもりだろうが生意気なこん畜生め! お前なんぞこの噛みつき五郎丸の餌にする価値もないごみくずみたいなもんだろうに!」
発狂しそうな怒りが沸き上がり歯を食いしばる。そんなサンなどお構いなしに、老人は沼さながらの悪態を垂れ流し、噛みつき五郎丸とやらは相槌を打つかのように吼えたてる。ここから逃げるにも武器もない。自分の拳には自信がないし、どうすれば……。
サンは閃くと、一気に息を吸い込み両手を広げると、「うわあーーーー!」と全力で叫んだ。
どうだ、俺を怖がれ、無限の力で俺だって吠えてやる、悪態がつけるほど頭は良くないが俺だって怒るんだ。
老人は顔を引き一文字の口を歪め、おぞましいものでも見ているかのように目を剥いた。噛みつき五郎丸は耳を伏せて尻尾を下げて、わずかに後ずさりし口の周りを舐めている。
今だ!
サンは老人を睨みつけたまま突っ込むように走りより、噛みつき五郎丸を飛び越えて走った。後ろで老人が噛みつき五郎丸をけしかける声が聞こえてきて、背中に冷たいものが走る。
まずい、もう息があがってきたぞ。外に出ている籠を投げつけ、机を跳び越し逃げるも、噛みつき五郎丸は追ってくる。あとちょっとで海のない小さな港町から出れるというところなのに、障害物がないなんて。
なんだか泣きたくなってくるも、同時に怒りがこみ上げ、さっと振り返ると、噛みつき五郎丸が月のわずかな明かりに目を爛々と光らせて突っ込んでくるのが見えた。
「俺がなにしたっていうんだ!」
サンそう叫び、再び吠えながら立ち向かう。面食らったのか、尻尾を股の間に挟むと噛みつき五郎丸は戻っていった。
「俺が、なにしたっていうんだ……」
サンは海の無い小さな港町の気配も感じられないほど歩くと、どうしようもない眠気に襲われ、近くの木陰に寄りかかった。自分が何をしたのかと湧いた怒りもすぐにおさまり、かわりに触れたくないものが頭の中に靄をかける。
なにしたって、俺は……ライガを見捨てただろ。