三十五話
予選登録所は何かを祀る社で行われていた。門には通路を挟むように、二体の真っ白な像が参拝者を見定めるかのように見下ろしている。広いまっすぐな石畳の通路の先には、立派な木造の建物があった。翡翠色の瓦屋根は端にいくにつれて反り、岩にぶつかる波のような勢いがある。どっしりとした太い柱は群青色と翡翠色が絡まり合う装飾が描かれていた。よく見ると、その装飾は数体の蒼龍が戦っている様を描いたものだと気づいた。そんな重厚で巨大な社が勇ましくも悠然とした姿で参拝者を迎えていた。
だが、今ここにいるのは集団ばかりだった。それも形はほとんど同じでも、装飾の違う戦装束を纏った集団だ。皆一様にして笠は被っておらず、腰に差した刀に掛けていた。門から入って来る者を値踏みしているのか、必ずつま先から顔までを三往復は見ている。あからさまな挑発的な態度で睨みつけてくる者や、行き過ぎるのを目だけで追う者、なにを考えているのかわからない無表情で見てくる不気味なやつらもいる。こんな雰囲気じゃ、観光客も参拝にはこないだろう。
だた、それでもこんな立派な建物や場所は見たことがなかったものだから、無骨で血の気盛んな連中に囲まれていても新しい発見で心は踊っていた。受付番の一言さえなければその楽しみも続いただろうに。
受付番の女性は、〈無色流〉の道場からの予選出場者が一人だと聞いて、驚いたように「たったの一人ですか? 予選ですよ?」と聞き返したのだ。ジゲンさんはその女性が綺麗だったからなのか、いつもより礼儀正しくも人相良く接していたのに、その一言で急に機嫌を損ねてさっさと登録を済ませて社を後にしてしまったのだ。
「師範代、なにに苛立っているのかね」
カゲツが前を歩くジゲンの背中を見ながらサンに言葉を投げた。
「わからないけど、受付番の女の人の訊き方が嫌だったんじゃない?」
ジゲンが足を止めてくるりと振り返る。その顔は鬼の形相だ。門下生達は俺も含めて一斉に目を逸らしてなにかから逃れようとした。
「全部聞こえてるぞお前ら。いいか、あの嬢ちゃんは俺に恥をかかせたんだ。仮にも俺は師範代だってのに、はぁー。もっと金があればなぁ。お前らの装束だって誰がきてたかもわからない古着なんだぞ、お前らなにも言わずに着てるから我慢強い奴らだと思ってたが、さっきの連中の姿見てなにも思わなかったのか?」
門下生たちは互いの顔を見合わせたが、誰一人として言葉の意味を解した者はいなかった。
「本当に、田舎もんだな」
ジゲンのその言葉に、カゲツがつっかかるように腕を組んで口を開いた。
「そういうことですか。俺たちが田舎者だから、彼らの立派な装束を見て、自分たちは恥ずかしく思わなかったのかって言いたいんですよね。そりゃ思いますよ。でも、師範やカイロウさん、シブキさん、師範代だって頑張ってくださってるじゃないですか。俺たちは〈無色流〉を選んでここにいるんです。別に気にすることじゃないですけどね」
ジゲンは真面目な顔で門下生達の顔を見ていくと笑った。
「立派な奴らだ。すまなかった、戻るか。なにか説明があるかもしれないしな」
そう言って五人は再び社に戻ったが、そこは先ほどよりも騒がしくなっていた。というのも、集団が輪を作って愉しそうにしているのだ。硬貨を出して数えている者もいる。この空気を知っている。裏猫の時と似ている。
「誰かやり合ってるな」
ジゲンの言葉で確信した。他の道場の人間が戦うのならそれは気になるものだ。技を盗もうなどと思ったことはなかった。師匠に教えてもらった〈無色流〉が宝だったからだけど、やはり興味はある。隣を見れば、カゲツも背を伸ばし爪先立ちで見ようとしている。予選にでるのだ、俺よりも気になるのだろう。
カゲツとサンは人混みをかき分けて円の中心を目指した。見えてきたのは、二人の師範らしき初老の男が向き合っていた。仲がいいとは言えない空気をぶつけて睨み合っている。
「なにがあったんだろう」
「わからないけど、どう見ても友達って感じじゃなさそうだね」
カゲツも同じこと考えてたのか。サンは笑って同意した。
「あそこの二人は昔から因縁のある流派の師範たちなんだよ」
隣にいた知らない流派の門下生らしき青年が、睨み合っている二人を見ながら顔だけを近づけてサン達に話しかける。
「あの二人がやり合って勝敗が決まればおもしいことになる。どっちが勝つと思う? 蒼龍か皇燕か」
蒼龍か皇燕? 睨み合う二人の戦装束の刺繍の色が違う。片方は見慣れた群青色と翡翠色、もう片方は朱色と橙色で刺繍を施しており、見慣れた方はおなじみの蒼龍が描かれている。だが、もう片方は風を切り炎を纏った燕が躍動的に描かれたもので、あんなのは初めて見る。そういうことか、あれは皇燕ノ國の流派の師範なのだ。どんな因縁があるか与り知るところではないけど、蒼龍と皇燕のどちらが勝つかとなれば面倒なことくらいはわかる。
「どっちが強いの?」
サンは青年に尋ねる。青年は首を傾げ考えてから頭を振った。
「わからんね、お前は?」
青年はサンたちを見ると、驚いたように二人の身なりを見た。カゲツが呆れたように「教えてくれてどうも」と言ってサンに目配せをした。「みんな足元ばかりみるもんだから困ったね」
そんなに気にすることだろうか。サンは首を傾げて群衆を見る。そこで変な視線を感じた。皆が円の中心を見ているのに、一つだけその群衆の流れを貫くように俺を見ているのだ。視線を向けていた青年は顔を覚える間も無く踵を返して群衆の間を縫って去っていく。つんつんと芯の強い髪の毛で、背中はがっしりと意思が強そうだった。
「どうしたサン、今の聞いた?」
サンは振り返ると、カゲツが嬉々としているのを見て説明を求めるように瞬きをして目を泳がせる。
「ったく。今、受付番の人が出てきて説明をしたんだよ。出場枠が一つ空いたってさ」尚も理解できていないサンは続きをまった。カゲツは呆れたように説明を始める。
「あの二人の門下生同士の間で喧嘩が起こったようでね、二人はその責任をどう取るかで睨み合ってるみたい。門下生は二人とも出場者で、喧嘩をふっかけた方が出場困難な怪我を負った。それで、怪我をした方は自分の道場から代わりになる人を出そうとしたんだけど、喧嘩を振られた側が黙っていなかった。落とし前をつけるために、その出場枠を差し出せって言ったみたいでね、受付番がこの件をどうするか答えを持ってくるまで二人は睨み合ってたってこと。ようやく受付番が出てきて、出場前に喧嘩を起こした双方に権利はないとして、今ここにいる流派全てにその権利を与えるって言ったんだ」
「へぇ」
「へぇ、じゃないと思うんだけどね。お前もその権利があるってことなんだけど理解できた?」
「そういうことか!」
ジゲンが後ろからやってきて二人の肩を掴む。
「おいおい聞いたぞ、出場枠が一つ空いたんだって? サン、お前行ってこいよ」
「全流派が申し出るに決まってあるからに。どう決めるつもりか聞かせ願おうか!」群衆の中の紫色の刺繍を施した戦装束を纏った師範らしき男が大声で受付番に訊く。あれは巖亀の流派だろう。
受付番の女性が手をあげて注目を集めて群衆を鎮める。「今ここで手合わせしていただきます」群集は静かに続きを待った。「自分たちの流派から一人づつ候補者を出すことを許可します。候補者は自分の流派と師範の名を告げてから戦うように。すでに名を挙げた流派がありますのでどうするか決めてください」受付番は少し間を置いて群衆を見回した。「蒼龍の〈龍天流〉から一人」
瞬く間に群衆の熱気が失せていくのを感じた。
「賢いな」ジゲンが腕を組んで頷きながら言った。「流派って言っても、大抵は道場を運営する団体にすぎない。要は金儲けが絡んでるからな。流派の名が落ちれば新しい門下生は来なくなるからなぁ。そうなれば金が入ってこなくなり、いずれ國に見放され援助金が無くなる。そうなればもう終わりだ。いくら〈龍天流〉が相手で負けたからと言っても負けは負け。悪い噂ほど早く広まるもんだ」
「ジゲンさん。なら俺はやめときます」
ジゲンが機嫌を損ねたのか、横目でサンを睨みつける。
「お前、それ、本気で言ってるのか」
本気でって。道場のゆく先が危なくなるなら、やめたほうがいいはずだ。俺よりも強いカゲツが出るんだし、俺が出場しなくたって平気だ。
「お前、目標があるんじゃなかったか。信念があるんじゃなかったか?」
サンは思わず息を呑み込んだ。目標、信念。ライガ、師匠、ロジウス、無色のみんな。色々な顔が浮かんでは思い出が蘇っていく。俺は忘れてたのか? こんな大切なものを? 腹の底で隠れていた燠火が再び火を噴いたかの如く熱が湧き上がってくる。そうだ、こんなの強さじゃない。なに気弱になってるんだ。
「出ます」
そうだ、強くなるために、みんなを守るだけの強さを、犠牲さえも超越する力と強さをもつ強き者になるって決めたじゃないか。
サンの目を見たジゲンは優しい笑みを見せると、群衆から抜けて受付番に近寄った。
「蒼龍ノ國〈無色流〉から一人」ジゲンがサンを振り向く。サンは頷いて群衆を抜けて円の中心に歩み出る。
「俺はサン! 〈無色流〉、師範はキリ」
受付番が群衆を見る。
「他にはいないようですね。では、〈龍天流〉の候補者と〈無色流〉のサンで候補を締めます」
群衆の中から、ヒョウカイと同じ戦装束を纏った青年が出てきた。蒼龍の刺繍は今にも動き出しそうで、腰には瓢箪がぶら下げられている。こいつは俺よりも二つか三つは上だろう。体格もいい。
「天川家天水! 〈龍天流〉、師範は漣氷雪」
受付番が二人の顔を見て頷き、立ち位置を手で示した。
「では、儀礼後に始めてください」
二人は木刀から手を離して礼をする。頭を下げて上げると木刀を構える。
テンスイの脚のわずかな動きも見過ごさなければ――。
考えるよりも早く、テンスイが下段で構え、踏み込むと流れるように上へ斬りあげた。その剣を慌てて受け止めて、その撫でるような動きからは理解できない剣の重さに言葉を失う。こいつも剣気使いなのか。
手放しそうになった木刀を握り直し、構える。木刀を二本持ってくるんだった。そんな後悔を噛み殺しながらも、一刀流で吊り劔の構えをとる。テンスイは見極めるように目を細めこちらの動きを窺っている。
「こないのか、ムシキのぼくちゃん」
こいつは俺が無色の出身だってことを知ってるのか。
テンスイが再び攻め込んでくる。サンはそれを落ちる花弁のようにひらりと躱し一撃を叩き込もうとするが、テンスイは見事にいなすと腰にぶら下げていた瓢箪を宙に投げて木刀で打ち砕いた。地面に落ちるはずの水がそのまま宙に浮いている。テンスイが手を振りかざしサンに突き出した。浮いていた水が細い針のように鋭く変形しサンめがけて飛翔した。身を横に投げたとほぼ同時に、背後から苦痛の叫び声が聞こえてくる。見物していたどこかの門下生が腹を押さえて倒れ込んでいた。押さえている下の装束がみるみる湿っていく。あれは血だ。
サンはテンスイを鋭く睨みつける。あの水は人を殺せるのだ。そしてそれを本気で向けてきた。そうか、これは戦いだ。カゲツを叱咤したっていうのに、いざその場になってみると怖いんだな。サンは浅くなった呼吸で苦笑した。
「苦しい笑いなんかしてるなら、さっさと降参したほうがいいぜ底辺」
テンスイが残っている水を合体させて水の槍を自分の頭上に浮かばせて、今にも発射できるように構えた。
こいつの技は確かに恐ろしい。だけど、シーナさんの炎の塊と比べたら可愛いく見えてくる。あの炎を斬れるなら、こんな水も斬れるはずだ。
体と心に漲る気を練り上げて剣気を感じると、練り上げられた剣気が刃になり、それを振るう姿をしっかりと想像する。剣気が水の槍を斬り込むと同時に破裂する。そうすれば槍は跡形もなく消し飛ぶ。同じ力かそれ以上の力をぶつければいける。
テンスイが手を荒々しく振り下ろす。水の槍が回転しながら向かってくる。サンは上段から一太刀に剣気の刃を斬り込む。木刀を伝っていく感覚がわかる。次の瞬間、予想通りに水の槍は宙に散るも、地面に落ちる前に変な挙動を見せ始める。こいつ、まだ水を操れるのか。
サンは残った剣気を足腰に漲らせて踏み込む。テンスイが迎え打とうと振るうよりも早く、サンは木刀を閃かせテンスイの木刀の峰側を狙い打ち砕くと、木刀の先を寸止めで喉笛に突き出した。テンスイは喉を鳴らして唾を飲みこむと、取り繕うように笑い折れた自分の木刀を捨てる。
「ま、参った」
「出場者は〈無色流〉のサン!」受付番の声が響き、見物していた各道場の群衆からは考察を愉しむ声や唸り声が飛び交った。
「ムシキの連中は優秀だってのかよ」テンスイがサンを見て、なにが気に入らないのか頭を振って去っていく。
無色の連中? 俺以外にも無色の出場者がいるのか? そう訊こうとするも肩を掴まれて誰かに強引に振り向かせられた。
「すごいじゃないかサン! これで俺とお前、揃って出場だよ!」
カゲツのその言葉を聞いて、サンは何を疑問に思っていたかも忘れてしまった。そうだ、出場するのだ。少し諦めていた自分が恥ずかしい。俺は目標への道に戻ったんだ。そう考えるとなんとも言えない、歯がゆい力が漲ってくる。
「そうだ、俺、出場できるのか」
「律士になるのもあっという間かもしれないぞこれは!」カゲツが手を離し、拳を突き出す。「対戦相手になったとしても手加減はしないよ。たとえお前がこの前と同じことになっても」
サンは笑ってカゲツの言葉を遮ると、拳を突き合わせる。
「あぁ。俺も本気でいくから覚悟しとけよ。この前のようにいくと思うなよ」
二人は笑みを交わして、群衆の中で待つジゲン達の元へと走り寄った。




