三十話
あの日の修行以来、四人の門下生が夜逃げした。それも、年長者で蒼龍軍に推薦されるかもしれない人達だった。年下の門下生達の間でも夜逃げの話が出始めるほど、修行は辛いものだった。
午後の自己修行をする者も少なかった。残ったほとんどの門下生は、道場で少し稽古をするも、すぐにやめてしまう。それもそう、午前の崖の上での修行で疲れ果てているのだから。崖の上から何度も落ちるのも嫌だけど、同じ釜の飯を食べ、励ましあっていた仲間を落とす事はもっと嫌なのだ。そのせいで、門下生の間に今までなかった曇った変な空気が漂っている。
だけど、今回の機会を逃したら律士への道が遠くなる。みんながいる町を守るためには乗り切らないと。
サンは、目の前のことに集中しようと流れ落ちる汗を拭い木刀を構える。雪原の冷たい空気と、雪が溶けた湿っぽさが鼻を濡らす。
「今度はお前が囮役になってほしいんだけどね」隣にいるカゲツが肩を上下させながら、顎の先の汗を拭って言った。
「だけど、あと少しでシルティーナさんに届くんだ。今のままでやろう」
「あのアダーツィっていう黒狼の相手、相当骨が折れるのわかる?」
「シルティーナさんの火炎の神秘だって火傷するんだ」
二人はそこで言葉を切って、左右に体を投げるようにして散開する。二人が立っていた場所を、炎の塊が猛る音を立てて焼いた。蒸発した雪の蒸気が、肌を焼きそうな熱さを辺り一面に広がらせ、二人は袖で顔を隠した。蒸気のせいで視界がぼやけて前が見えない。そこにわずかな地響きを感じて、サンは声をあげた。
「くるぞ! 引きつけてくれ!」
「わかってる!」
カゲツの声とともに、サンは地響きの主である巨躯の黒狼アダーツィに立ち向かう。この霊獣は普通の獣のように賢いわけではなく、本物の人のように賢い。だからこそ、それが仇になる。
サンは、アダーツィの鼻に一撃を叩き込もうと突っ込む。その間にカゲツが脇をすり抜けてシルティーナの方へ向かう。アダーツィがサンの攻撃を避けて、カゲツの方へ翻った。カゲツが、防御態勢をとるシルティーナを余所に踵を返し、アダーツィの脇腹に一撃を打ち込んだ。
やるじゃないかカゲツ。
最初の攻撃が外れるのはわかっていた。狙いは最初からアダーツィだったのだ。だけど、これでシルティーナさんへの道ができた。
シルティーナが手を左右に大きく振り払う。呼応して雪が舞い上がり、サンの視界を遮った。これは風だ。火、水、風の三大要素の一つ。〝気〟を体から放ち、外の空気と同調させて操るらしいが、感覚は人それぞれで、シルティーナさんの説明も感覚的でよくわからない。これに抗うことができるのは、同じ〝気〟の力だけど、俺にはない力だ。なんとか耐えるしかない。
ぼやけた視界の一部が赤い光を帯びたのを見て、考えるよりも先に体を転がした。すぐ横を通り過ぎてゆく火球の熱を感じて、雪よりも冷たいものが背中を駆け上がる。すぐさま立ち上がり、シルティーナの目の前に飛び出すと、木刀を突き出した。
シルティーナは、挑戦的な微笑みを湛えて腕に炎を纏う。
「近づいたら勝てるって顔をしてるわね。さぁ、いくわよ」
シルティーナの腕全体を覆う、炎の〝気〟は本物に劣らず熱かった。これではまともに触ることはできない。だったら……。
サンは木刀を逆手に持つと、空いているもう一方の手と合わせて体術を繰り出す。数回の組み手でシルティーナの鳩尾に一撃を見舞った。シルティーナはむせながら数歩後ずさり、咳き込むように笑う。
「容赦、ないわね。二人とも、よくやったわ。なら次の段階に——」シルティーナは鋭さを湛えてさっと周囲に目を光らせた。アダーツィも四肢を曲げて構えをとっている。
「いつの間にこんなところまできたの。二人とも、わたしから離れないで。霊獣がいるわ。グズリね」
雪原には何もいないし、森までは距離がある。気配を感じたのなら見えてもいいはずだ。見えないほうがおかしい。
その時、カゲツが隣で息を呑んだのが聞こえた。
「あの雪、動いたように見える」
カゲツの指差した雪面がわずかに盛り上がって、それが近づいて来る。
「待って。これは君たちのいい訓練になるかもしれないわ」
シルティーナは顎に手を添えて俯いてそう言った。そして、銀と金剛石の長杖を、サンとカゲツの木刀に向かって振るう。
「土季で幸いね」
サン達は、自分達の木刀の刃を覆うものを見て声をあげた。
「氷?」
「氷の神秘は苦手だけど、こんなにも寒いところならある程度はできるわね。木刀じゃ肉は斬れないでしょ? だから、氷の刃を纏わせたわ。それで霊獣達を始末して見せなさい。わたしとアダーツィは君たちを援護しないから。そのつもりで」
サンとカゲツは目を合わせる。
カゲツが木刀を握り直して、決意の籠もった目で前方を見た。前みたいにいきなり一人で突っ込んでくれるなよカゲツ。
ふいに、シルティーナが長杖から炎の矢を生み出し、炎の矢の雨を降らして雪原を射抜いた。炎の矢に突つかれてたまらなかったのか、躍り出るようにして数十体の妖魔達が雪原の下から現れる。
サンは久しぶりに見た妖魔を見て、息を呑むと身構えた。
妖魔は、背中まで白い剛毛で覆われているが、見える皮膚はかなり分厚く荒々しく、肋骨が浮きだっているのが剛毛の上からでもわかる。こいつらは、今まで見てきた妖魔よりも禍々しかった。人間に似た顔にある二つの目は人のそれに酷似していて、狩人のように冷静に俺達を観察している。
妖魔は、反対側で戦っているシルティーナ達の方を見ると、そちらは諦めたのか、サンとカゲツに目を向けた。一体の妖魔が、歯の間から規則的な空気を出す。その音が止むと同時に、他の妖魔達がサンとカゲツを取り囲むように歩きはじめ、一体がサンに飛びかかった。
サンよりも早く、カゲツがそれに立ち向かい、一刀のもと斬り伏せた。黄金色の血が雪に飛び散り、染み込んでいく。妖魔達が喉で鳴らす甲高い笑い声にも似た鳴き声が、雪原に響いた。
仲間を殺されたっていうのに笑っているのか。寒気を覚えると同時に、こんな奴らに囲まれて弄ばれることに怒りを抱いた。こんなところで死ねない。
氷の刃を確認するように撫でながら、カゲツが言う。「サン、お前は好きに戦ってくれて構わないから。俺が合わせてあげるよ」
なんだよそれ。そう考えながら、サンはカゲツの背中に自分の背中を合わせるようにして立つ。妖魔が笑い声を一層高くあげて襲いかかってくる。それらを二人で躱し、決定打にかける太刀を打ち込んでいく。
気がつけば、体のいたるところがひりひりしていた。体をみると、戦装束のあちこちが切れていて、熱い膨張とともに自分の血を感じる。あたりの真っ白な雪の上にも、黄金色の血が点々と滴っている。こっちだって傷は負わせているんだ。
だけど、獣なだけあって力は強く、剣術も通用しないとなれば、力で渡り合うのは難しい。こっちが消耗して負けるのがおちだ。剣気がなければ力で勝てない。後ろからはカゲツの荒い息が、自分の荒い息の合間に聞こえてくる。体力ももたないぞ、これはまずい。
「サン、このままじゃ」こっちの心を読んだかの如くカゲツが言う。
「わかってる。二人は?」
「それが、気づいたらいなくなっててね」カゲツが力なく笑う。
シルティーナと黒狼アダーツィの姿を探してサンは絶句した。本当にいない。死んだのだろうか? あの二人が妖魔に負けるとは思えない。だとしたら見捨てられたのか。
〝援護しないから〟
その言葉が、先ほどよりも冷たく頭の中に広がった。
「サン! 横!」
サンが振り向くのと同時に、カゲツが踏み込み妖魔の振り上げていた腕を切り落とし、そのまま首も落として見せた。カゲツがこれでもかと目を瞠いて、憤慨の念を表す。
「こんな状況でぼけっとできるとはすごいよまったく。さすが師範達のお気に入りってわけだ」
「なんだって?」
「俺は自由に動いていいって言ったんだ。気を抜いていいって言ったわけじゃない。こんなの、いつものお前じゃない」
五体の妖魔のうち、三体がいやらしく甲高い笑い声をあげながら、距離を詰めてきていた。
冷静さを取り戻すんだ。いつもの俺、いつもの。こんなところで死ぬわけにはいかないんだ。
サンは短く呼吸を整えて、目を走らせる。この三体は囮だ。こいつらに構っている間に後ろの二体が合間を見て攻撃してくる算段なのだろう。狡猾、そういうことか。師匠ならこんな状況一瞬で……。余計なことを考えるな。
サンは、カシが街道で返り血を浴びることなく妖魔を屠ったのを思い出す。
俺にもあんな力があれば。
カゲツの声にならない唸り声が聞こえたと思った瞬間、大きな衝撃を感じて雪の中に倒れ込んだ。急いで顔をあげると、カゲツが二体を相手にして傷を負いながらも、サンを狙うもう一体に斬りかかっていた。カゲツは俺を突き飛ばして守ってくれたのだ。
カゲツの無防備な背中に二体の妖魔の爪が走り、カゲツは怒りの怒号を上げながら、サンを狙う一体に木刀を投げた。
サンの目の前に、カゲツの木刀を頭に受けた妖魔が倒れこむ。その先に二体の妖魔の傷を受けて、雪に沈むカゲツの姿があった。
なんで、なんでそうやって犠牲になるんだよ。また助けられた。俺のせいで仲間が犠牲になってしまった。
ライガの腫れ上がった顔、力無い姿がカゲツの姿と重なり息ができなくなる。雪の上に横たわった姿は師匠の時と同じだ。もうやめてくれ、犠牲はもう……。
「もう、うんざりだ!」
サンは吐き捨てるように言うと、カゲツの木刀を妖魔の頭から引き抜いて立ち上がる。四体の妖魔が甲高い笑い声をあげながら、取り囲もうと位置を変えている。その姿を睨みつけた。
遊びやがって。ちくしょう、ちくしょう!
なにかが頭の中で火花のように弾けた。とめどない力が腹の底で湧き上がり、胸の内を焼き尽くし体が震える。これは怒りにも似ている。
そのみなぎる力のままに、サンは妖魔の一体に近づき、無造作に木刀を振るう。木刀を受けた妖魔は砕かれたように体の一部を撒き散らして肉塊となった。
続いてもう一体もサンの氷刃の木刀に打ち据えられて、鈍い音とともに肉片と黄金の血を撒き散らす。
カゲツに近付こうとする妖魔に向かって木刀を突き出す。見えない怒りが木刀を伝っていくのを感じる。それは俺の体、木刀を離れて雪面を穿ち、妖魔を砕いた。
残りの二体が距離を取ろうとするのを、逃さんと言わんばかりに雪面を一歩で駆けて屠る。
ほんの少しの間に、四体の妖魔を打ち砕いたサンは、震える体にみなぎる灼熱の力を感じながら、妖魔の死骸を眺めた。
カゲツの呻き声に気がついて、握った木刀を投げ捨ててカゲツに走り寄った。うつむせになっているカゲツを仰向けにする。カゲツは苦痛に歪ませた顔のまま辺りを窺うように目をぐるぐるとさせると、急くように訊いてきた。
「お前、やったのか? 全部?」
「なんで俺のために無茶したんだよ」サンはカゲツの襟を掴んで訊いた。
「それより、その優しい手を離してくれないかな。すごく痛い」
「死んでたかもしれないじゃないか」サンは手に力を籠めた。
「離せって言ってるんだけどな」胸ぐらを掴むサンの手を見て、カゲツは痛そうな呻き声を洩らす。「別に無茶なんかしてない」そして口にあの嫌味ったらしい笑みを浮かべる。「けど、まぁ、お前が弱くなければこんなことにならなかったんじゃないの」
サンはそう言うカゲツの顔を見下ろして黙った。確かにそうだ。俺が弱くなければこんなことには……。
カゲツは少し後悔したように目を逸らして、サンが掴んでる手を握って抵抗して見せた。
体を焼くような力の感覚が薄れていく。手を離すと、カゲツが愚痴を吐いたが聞き取れなかった。
そうだ、俺が弱いから。もっと強く、誰も犠牲にさせないほどにならないと。
「いいから早く肩貸してくれないかな。本当に痛いんだけど」
サンは黙ってカゲツを起こすと、肩を貸して歩き始めた。




