二十八話
あの見習いの出来事からカゲツは突っかかってくることもなくなった。道場でつるんでいた者達とも距離を置いて、一人で稽古をしている。稽古が終わると一人街に出歩いているようで、一度ジゲンさんに様子を見てこいと言われて後をつけてみたが見失ってしまった。
海桜町は広い。カゲツが道場や商店街、港のある中央ではなく、町の外れの方に向かっているのだけはわかる。もしかしたら町の外に出ているのかもしれない。サンは団子屋で茶と団子を愉しみながら、ロジウスから届いた手紙を開きながら、カゲツが変なことに首を突っ込んでいなければいいなと考える。
だとしても、あいつはなんで急に大人しくなったのだろうか。港での見習いでは、あいつは先に行動する勇気を見せたと言うのに。
サンは団子を味わいながら溜め息をつく。気づけば手紙の最後の一文まで目を走らせていた。
だめだ、内容が入ってこない。なんだったっけ。
手紙は最近の無色の状況を知らせているものだった。無色にある町全体に律士が配備されて治安が向上し、無色で一強となった紅蛾組が市場を独占したものの、元老院の敷く律に乗っ取り市場が安定し、住民は暮らしやすくなったらしい。だが、一方で診察料が下がり薬代は変わらないようで、そのことに対する愚痴が書いてある。今まで甘い蜜を吸ってきた者達による暴動などが度々起こるそうで、律士が足りていないとも書いてある。
待っててよ。俺が立派な律士になって戻るからさ。
サンは最後の一口を食べ終わると立ち上がって、笑顔の可愛い茶屋娘に挨拶をして店を出た。
カゲツが町にいないとしたら、やはり外になるのだろうか。サンは関所番にカゲツの容姿を説明して訊いてみると、それくらいの青年がべっぴんさんと山の方に向かったと教えてくれた。
カゲツがべっぴんさんと山に?
稽古で口をきかなくなったりしたのと関係があるのだろうか。そういえばロジウスおじさんが、師匠の頑固も女ができれば変わるだろうにと嘆いていたことがあったっけ。女は男を変えてしまうってことなら、カゲツ、お前はまさか女にうつつを抜かしているのか。これは一つ灸を据えてやらねばなるまいな。
サンは一人でにやつきながら関所番が指差した山へと向かった。
山は土期ということもあって雪に覆われている。静かで重いしっとりとした空気が風とともに抜けていく。落葉樹はとっくに葉を落として、陽を浴びた雪によって黒く湿らせていた。
こんなところを情事の場に選ぶなんてどうかしてる。山は低いが、雪はふくらはぎが埋まるくらいは積もっている。女性はこんなところを歩きたいとは思わないだろ。
一つの峠を越えて谷を見る。下は平原だ。無色よりも蒼龍は平原と川が多い。平原にも谷に沿うようにして川が流れていて、今は雪原となっていた。その平原に二人がいた。
女が持つ銀色の棒から、突如巨大な炎が現れて、鞭のように宙をうねってもう一つの人を襲う。あれはカゲツだ。
カゲツは炎の鞭を間一髪のところで身を投げるようにして避けると、すぐさま立ち上がって再び空気を切って襲ってくる鞭を避ける。これを繰り返している。
その攻防に殺気は感じられない。
サンは雪原に降り立つと、二人に近づこうと足を踏み出した。背後に気配を感じて振り返ろうとするよりも早く、その影が頭上を飛び越えて目の前にその巨躯を晒してきた。
それは見上げるほどの巨大な狼だった。鬣は長く爪と牙は黒い銀色の金属質、翡翠を凌ぐほど美しく透き通った緑色の目が、艶やかな黒い毛の中から俺を見ていた。
とっさに抜き放った木刀を、巨狼は嘲るように目を細めて前脚で弾いた。
こんな人間のような表情をする獣なんていない。それに尋常ではない巨体。これは妖魔の一種に違いない。
こんな妖魔に遭遇したのは初めてだった。空の館や軍学校で見た墨絵の姿とは別物だ。きっとあれらを描いた絵師は本物を見たことがないのだろう。
妖魔の生々しい吐息を受けて恐怖が呻き立ったが、目を逸らせば噛みつかれそうで身を硬直させるしかなかった。妖魔の狼はそんな俺を嗤うように喉を鳴らすと、舐め回すように周囲を周り背中を突いてくる。
なんだ?
サンは振り返り妖魔の美しい緑色の目を見る。怖いけど、なんて美しいのだろうか。
妖魔がいきなり宙を噛むようにして、金属質の歯を鳴らし威嚇してくる。サンは小突かれた方向へと歩き始めた。その先には二人が先ほどの一方的な攻撃と回避を中断してこちらを見ていた。カゲツの表情がわかるくらいになってくると、歓迎していないのを理解する。だが、べっぴんさんと言われていた女性、間違いなくべっぴんさんなその女性は何かを期待するかのような笑みを浮かべている。
サンは咳払いをして、女に会釈をするとカゲツに向き直った。
「カゲツ。ここにいたのか。けっこう探したんだぞ。団子屋もいくつも回って」
「どうせ目当ては茶屋娘目当てじゃないのかい」
サンは目を丸くした。
「な、俺はそんなことしないし!」
カゲツが大儀そうに地面に木刀を突き立てる。
「それより、なぜここにいるのかな。何しにきたんだい」
「それは俺の台詞だって。お前を心配したジゲンさんに探してこいって言われてて、お前を探してたんだよ。お前こそ、ここで何やってるんだよ」
サンはちらりと狼に似た妖魔――狼にしては大きすぎる――を撫でている女の方を見る。
「俺はモルゲンレーテ星教国からきた、シルティーナさんに修行をつけてもらっているところさ」
サンは顔を顰める。
「お前、修行なら師範代に頼めばいいだろう。〈無色流〉にいながら他の人に」サンは妖魔と女に見られているのに気づいて口をつぐむ。
「師範代達はまだ教えてくれていないけどね。ヴィアドラで近いうちに戦技大会が開かれるんだよ。知らないだろ?」
「戦技大会?」
聞いたことがない。だけど、大会というのだからいろいろな人が参加するんだろうな。
「道場から選ばられた人間が技を競いあう。もちろんただの見世物じゃない。本当の決闘だ。死人も出るらしいからね。俺は強くなるためにシルティーナさんにお世話になっているってわけ」
確かに、この人が使っていた炎の鞭は、すごかった。銀色の戦闘の道具とは思えない芸術的な外見と美しい棒からあんな炎を操るなんて。剣術では勝てない。いや、だけど剣気なら。
「その人、もしかして闘気が使えるのか?」
シルティーナが杖を雪の上に長杖を突き立てて、両手の手のひらに火の玉を作り出す。
サンは信じられない光景に目を丸くしてそれを見つめた。これが、炎や水、風を作り出す闘気なのか。
「私たちは神秘って呼んでいるわ。道具を使って決まった技を出すものを魔法、私が使うのは神秘。想像によって森羅万象を象らせて、顕現させる力。ヴィアドラの秘術はこの神秘をもとにしているけど、魔法とは違う使い方をしているみたい。カゲツにはこれらを使えるようにするための〝オルス〟を感じられるようにする修行をさせていたのよ。あ、〝オルス〟はヴィアドラでいうところの〝気〟と思ってもらっていいわ」
妖魔がシルティーナに額を当てる。シルティーナがそれに同じように応えると、妖魔は雪原を颯爽と駆けていった。その姿が山肌を駆け上がって見えなくなり、サンは深呼吸をした。食われなくて済んだのだ。
シルティーナが小さく笑う。
「霊獣を見たのは初めて? ここでは妖魔と呼ぶんだったかしら」
「霊獣?」
「普通の森ではない森、霊樹の森に住まう獣のことよ。一千年以上生きるものもいて、人よりずっと賢い。はい、話がそれたわ。君の名前はサンね。カゲツと同じ道場にいる十六歳の青年。君も神秘を知りたいの?」
カゲツがシルティーナの方を向いて何かを言おうとしたが、思いとどまったのか腕を組んでサンを見た。
神秘か。興味がある。師範代達は忙しそうだったから秘術のことも聞けずじまいだし、新たな力だ。守るための力、いまの俺に力はない。なら手に入れられるものは入れるべきだ。
「教えてください」
腕を組んでいたカゲツが残念そうにため息をついた。




