二十話
無色の港町は忙しかった。雪が積もり、瓦屋根から滑り落ちてくる雪に悪態をつくのも忘れ、町の人達は通りや自分たちの店を飾り付けていた。赤と銀で彩られた提灯や、稲妻に見立てた赤と銀の紙がずらりと並ぶ縄を建物に掛けて通りを飾りたてている。
子供も大人も入り混じった祭りの準備の様子は、かつてないほど賑やかで楽しそうだった。
〝迎謝祭〟
ヴィアドラのおとぎ話にこんなのがある。
遥か昔、二千年以上も前の話。かつてこの地に傷ついた鶴が舞い降りた。その鶴は自らを〈ヴィア=ドラ〉と名乗り、この地の者はその鶴を助けた。鶴は代わりに不可思議な力を見せて、この地の者にそれを与えた。その不可思議な力によってこの地の者は北の悪しき者との戦いに勝ち、この地を手に入れヴィアドラと名付け、幸せに暮らした。
これは寓話で、傷ついた者を見過ごさずに助けなさいと言う教えが込められているとツバキおばさんは教えてくれた。相手を受け入れ、そして感謝する。それがヴィアドラ生誕の祭り迎謝祭ということらしい。
三年に一度、土の期の雪土月に盛大に行われるこの祭りは、商会や組が自分たちの力を見せつける絶好の機会でもあるようで、どこのお店も張り切っている。所々によっては、自分たちは関係ないと言わんばかりに通常営業のお店もあったりするわけだけど、とにかく賑やかだった。
唯一残念なのは、仕事が忙しくて師匠との稽古の時間が取れないことだ。町の中では、親子揃って足場を組んだり、飾りつけをしたり、買い出しをしたりしているのに、俺は配達が忙しすぎて仕事も終わらない。終わる頃にはくたくたで、飯を食べるのを忘れるくらいだった。
師匠も物流が多くなると言うことで用心棒の仕事にてんてこまいだと言っていた。師匠は最近あんまり食べないし、久しぶりに会ったのであろう人には心配されるほど細くなり、こんを詰め過ぎて体調に支障をきたさないか心配だ。
サンは仕事が終わり、ようやくロジウスの家に帰宅する。カシは用心棒の仕事で家を空けることが多くなってきたため、こうしてロジウスの家で世話になっているのだった。
「ただいまー」
居間から漂ってくる肉の焼ける旨い香りに胃が喜びに捻じ曲がる。居間に飛び込むとツバキおばさんが食卓に盛り付けられた皿を置いているところだった。
ロジウスおじさんは無色で最近流行り始めた新聞という目を殺しにくる紙を、暖炉の前の柔らかい椅子に腰掛けて読んでいる。
「おかえりなさい。手を洗ってきてくださいね」
サンに気付いたロジウスが、新聞から顔をちょこっと覗かせて囁くように言った。「サン、今日は豚肉の生姜焼きだ」
「なにそれ」
ロジウスは不適な笑みを浮かべて身を乗り出した。
「高級な家畜で脂ののった肉でな、肉の甘みと相まってタレがよだれもので、老人の胃には少々厄介だが極上の幸せを感じさせてくれるものだ。さっさと手を洗ってきなさい」
サンは手早く手を洗うと、椅子に座ってまだかまだかと待っていた。机に並べられた箸を見てサンはロジウスに訊く。
「とう……師匠は?」
ロジウスは笑った。
「父さんと言いそうになったな。あいつは今日も帰らんよ」
「お父さんでもいいのではないですか? サンちゃんからしたらお父さんと変わりないでしょう。そうなると、わたしはお母さんになるかしら」
「じゃあ私はなんだ」
「おじいさん……かしらね」
居間に笑いが満ちる。サンは自分の顔が熱いのを感じながら席を立ち、ツバキの配膳を手伝った。
四人で揃って食べたのは、いつだったっけ。そんなことを考えながら箸を持つ。空腹が虚しさに変わってしまったような感じがした。
だが、肉と脂、醤油の香りが口に広がり鼻を抜けると、口の中が喜びに捩れ笑いが溢れる。
「うんま!」
その日は白飯を三倍もお代わりし、風呂にも入らず寝てしまった。
木刀を振るっていると、カシが呼ぶ声がして振り返った。カシは手に長細い木箱を持っていて微笑んでいる。サンはその木箱を開けて驚きに満ちた顔でカシをみる。
「父さん、これって!」
「そうだ、愛と犠だ。今日からおぬしのものだ」
「そんな、俺はまだ強くないよ」
「そんなことはない。どうだ、使ってみぬか」
サンは頷き刀を抜くと、カシと通りに躍り出た。通りには妖魔がうろついていて、剛毛に覆われた体に、長い腕を地面すれすれでぶら下げて歩いている。サンを見るなり、黄色く茶色く染みた歯をむき出して走りよってくる。
サンは刀を閃かせ、あっという間に数十体を切り刻んだ。
「やったよ父さん!」
「あぁ、さすがサン、よくやった」
突如地面が揺れに揺れ、瓦が落下してきて頭を守ろうと抱えて地面にしゃがみ込んだ。辺りの建物がおぞましいほど野蛮な軋む音を立てて崩れていく。カシの姿を探すも見当たらない。地の底から震え上がる振動の轟音とともに地面に亀裂が走り、地面が裂かれて真っ赤な溶けた鉄のような光がのぞく。ついに足元の地面までもが裂かれて、なにも抵抗できずに奈落のそこに落ちていく。
叫び声をあげて目を開けると、そこは居間だった。どうやら風呂どころか寝台にも入らず、居間の壊滅的に人を駄目にする椅子で夜を明けてしまったらしい。今日が仕事じゃなくてよかった。椅子に沈み込むように安堵の息をつくと天井を見つめる。
少しだけ、いい夢だったな。
ツバキが焦った様子で居間に入ってきて、サンの安否を確認する。その様子にサンは何があったのかと訊く。
「それはもう大きな地震が。気づかなかったの?」
夢の中のあれは地震だったのか。地震め、お前さえ来なければ夢の続きが見れただろうに、成敗してくれる。
サンは椅子から起き上がると、少し重く感じる体を伸ばす。
「お風呂に入ってきなさいな」
「今日は、いいや」
「なに言ってるんですか。今日はお祭りですよ」
そうだ。今日が迎謝祭だ!
サンは興奮こみ上げ花咲く笑顔を見せると、風呂に向かって部屋を駆けて行った。
風呂から上がったサンは着物を着替えて、短い黒髪をばさばさと手で払い乾かすと、居間に入り牛乳を飲む。玄関からドアノックの音がして、そのまま開けると、そこにはキリとカイロウ、シブキが戦装束ではなく、平民のような着物を重ねた格好で立っていた。キリさんとシブキさんは立ち姿に少し気品があるから似合わないが、カイロウさんは髭面も相まって裏猫にいてもおかしくないように見えた。
「お久しぶりです。どうしたんですか?」
「おお、サンか。久方ぶりだ。やはり、この歳頃は見ないうちに顔つきが変わるな」
丘の上で白焔の鎧を纏った師匠に、仕事の協力を断られて以来キリさん達は接触してこなかった。どういう用件だろうか。
「前に会ってから二つ星も経ってないけど。それに土期だから背伸びてない。ところで、師匠に会いに来たんですか?」
キリは取り繕うように笑って頭の後ろに手を置く。
ベタだなぁと思いつつ、サンは丁寧に答える。
「いないですよ。数日は帰って来ないみたいで。言付けなら俺が」サンは玄関の横に常設してある草紙と筆を持ち、自慢げに筆を構えた。「ここに書いておくので」
「そうか、書き物もできるようになったか。そうか、そうか。では頼むとしよう」
キリの言付けは、まず謝罪だった。どうやら、あの丘の上の家での一件の後にもう一度押しかけて協力を頼んだらしく、直接会うのは躊躇われたようで師匠がいないことに少し安堵を覚えているようだった。
祭りで必ず動く。用心せよ。
きっと夕黒のことだろう。キリのその真剣な言葉に、そこまで深刻なのかと考える。祭りのわざわざ人の多いところで厄介ごとを起こすのは頭が足りてないのではないだろうか。
シブキが懐から掌に収まる小さな木箱を取り出してキリに渡す。キリははっとした表情でそれを手に取り、サンに木箱を差し出した。
「そうであった、これを忘れておった。ほれ、霊通石だ」
「れいつうせき?」
「遠くにいても話せる便利な物だ。まぁ、軍で新しいのが配備されていらなくなったものだが、これがあれば兄上と離れていても話せるぞ。距離は、隣町くらいが限界であろうが」
離れていても話せる。どういうことだ? ものすっごいでっかい声になるとか? この石を煎じて飲めば相手と話せるようになるとか?
「使い方は少し難しいがな。持って念じてみるのだ。対となる霊通石と繋がり、そっちに相手がいれば話しかけることができる。駄目なら、自分の血を塗って念じてみよ」
「血?」
「大丈夫だ。ひとしずくで構わん」
そういってキリは、言付けを伝えてくれと念を押してからカイロウ達と街中へ消えて行った。
霊通石を矯めつ眇めつしているとロジウスがやって来て、サンはことの顛末を話し、ロジウスに霊通石の片方を持たせると、サンは家の中を走ってロジウスの見えない衣装箪笥の中に入った。
霊通石は、六面体で濁った緑色をしている。もっと磨けば宝石みたいに見える。それを握り、念じる。ロジウスおじさん。俺だよ、聞こえる?
返答は何もなかった。血を塗って念じるんだっけ。そう考えたとき何かを感じた。握った霊通石を感じるのだ。その中に入っていけそうで、入るってどういうことだろうともどかしくなるような感じだ。だが、なにかすれば霊通石の中が見れる。その中に意識だけ入っていけそうな、頭の中で遥か地平線を飛ぶような想像と同じことをして霊通石の中の世界を見れる気がするのだ。
〝サン、聞こえるか?〟
突如頭に直接響いたその声には聞き覚えがあった。言葉とともにガサついた壁をひっかいたときのような音も一緒になって聞こえるが、これはロジウスの声だ。サンは握ったまま話しかけると、また頭にロジウスの声が響く。その後何回か会話をして、すっかり興奮したサンは、ツバキにすごいものがあると聞かせた。ツバキとも会話をしようとしたが、ツバキとはできなかった。
「これは、神秘が使えないと無理な代物だな」
「神秘?」
「ヴィアドラでは、そうだな、〝気〟を使えなければできないってことだ」
〝気〟
秘術や剣気の元となる自分自身の中にある力のことだ。つまり、剣気が使えない、使う訓練も受けていない俺からは話しかけることができない。ツバキおばさんと会話できないのも、お互いが〝気〟を使えないからか。
「なら、師匠から俺に話しかけることはできるんだよね」
「そういうことだな」
玄関の扉が開き、サンは誰が帰って来たか理解して素早く振り返った。そこにはカシが体に降りかかった雪を落としながら立っていた。
「師匠! 俺すごいのもらったんだよ。見てよ、霊通石だって。これがあれば離れてても話せるんだよ!」サンはそこで黙り、玄関横においたままの紙をカシに渡す。「あ、キリさんからの言付けだよ」
「知っておる。先ほど付きまとわれたわ」
ロジウスが情緒ある艶がかった木の柱に身を寄りかからせ、もういい加減というように呆れたような色を目に湛える。
「協力してやってもいいんじゃないのかね。報酬もはずんでもらえるかもしれないだろうに」
「そういう問題ではない」その言葉に、ロジウスは頑固に効く薬があれば、と呟いて重々しく頭を振る。「それより、サン。おぬしの仕事仲間とやらが、急ぎ貼り紙屋に来いと言っておったぞ。手が回らんらしく慌てふためいておった」
「えー、今日は祭りで休みだって言ってたのに」サンはカシに霊通石を渡すと足袋をはく。
「とう……師匠は祭りに来られるの?」
ロジウスが二人を見て暖かく微笑むと部屋の奥に消えて行った。
「すまぬ。行けるかわからぬ」
「そっか、俺、夕方にはなにがなんでも帰ってくるから、行けたら用意して待っててよね」サンは玄関を開けると、カシを振り返る。「俺からじゃ話しかけられないみたいだから、師匠から話しかけてきてよ」
「おぬし、先ほど――」
「行ってくる!」
サンは走って家を出た。
なんだってこんな日に仕事なんか。せっかく帰ってきてくれたのにさ。
仕事場はてんやわんやしていた。着くなり貼り紙と糊を渡される。サンはぶっきらぼうに金は出るのかと問うと、大人は「そんなものは律士に聞け」と怒った様子で答える。誰もかれもが怒っているようだ。
貼り紙は手配書だった。
〝夕黒見たら律士に知らせよ。報奨金、壱両〟
壱両。
「壱両!」叫んだサンは必死に考えた。無色の者は一人一年で六百半を稼ぐ。壱両は阡半の十倍だから、十年は無色で暮らせる金額だ。
紙の下には、協力者にも少なからず支払われると書いてあり、貼ったばかりの貼り紙には人溜まりができていた。
仕事が終わった頃には、太鼓の音が間遠に聞こえていた。急ぎ家に戻ると、ロジウス夫婦が待っていてくれていた。毛皮のコートに身を包む二人の姿は異国の人で、とてもお洒落でカッコよかった。なんてお似合いの夫婦なのだろうか。
サンは新しい厚手の羽織を纏うと、四人揃っていたらいいのにな、とカシもいる家族集合を思い浮かべた。
「なんだ、そんなに祭りが楽しみなのか?」
ロジウスの問いに、サンは急かすように扉を開けた。




