十六話
丘の家には、庭に一本だけ木が生えている。その木の根元には縦長の無垢な石が、半分埋まって立っていた。
丘の上の家に住んでいた頃、師匠は毎日その石に黙祷を捧げて、おちょこ一杯の酒を垂らしていた。あれは、もしかしたら師匠の大切な人、シトウ師匠のお墓だったのかもしれない。
あの部屋での師匠の怒りは凄まじかった。あんなに感情を表に出すとは知らなかった。
俺が寂しくなった時、安らぎを求めて行く場所があるとしたら、大切な思い出がある丘の家に行くだろう。だとしたら、師匠はあの木の下にいるかもしれない。
その予想は当たっていた。葉をほとんど落とし、残った葉を乾いた風に揺らす木の下の石の前で胡坐をかいていた。師匠の前には、二本の愛刀、〝愛・犠〟が横たわっている。
サンはゆっくり近づくと、自分の着ていた毛皮の羽織をカシにかけた。
「風邪ひくよ」
カシは喉を唸らせる。
「もしかして、師匠のお師匠さんはそこで眠ってるの?」
カシは目を開けて、顔を動かさずに横に座ったサンを見た。
「さよう。シトウ師匠だ」カシは葉のない木を見上げる。その目は木を見ていないようだった。
「シトウ師匠は、強く、皆に愛され、なにより」カシが笑いをこぼす。「うるさかった」
サンは膝を抱えた手に顎をのせて、微笑みながら石を見る。
「師匠は、お師匠さんのこと大好きだったんでしょ。やっぱり、淋しい?」
カシは暖かな表情で微笑んだ。垂れ下がった灰色混じりのわずかな前髪が風に揺れる。
「その様子、おおかたロジウス殿が話しおったのだな。そうだな、淋しかったやもしれぬ。あの人は、最後まで拙者を認めてはくれんかった」
「お師匠さんのこと、怒ってる?」
カシは疑問を浮かべた目でサンを見る。
「まさか、最後の最後まであの人らしかった。今は怒っておらぬ。抱いた怒りもとうに消えた。拙者は、ただ、師匠に悔いなく逝って欲しかったまでのこと。キリの便りもよこさぬことに腹を立てたが、拙者の力不足であったゆえと気付いた」カシは奥歯を噛み締めて息を洩らした。「あやつの纏ったものをおぬしも見たであろう。あそこまで上り詰めるのは至難であったはずだ。便りを送る暇すらなかったやもしれぬ。だが、それでも拙者は奴が……気に入らぬ」
カシは立ち上がり、愛と犠を腰に差すと、サンの後ろを見た。先ほどの穏やかな表情はすでに無い。
「無色を出た時から、お前は家族を捨てたのだから」
カシが目を向けたところには、今ようやく到着したのだろうキリが息を荒くして立っていた。
「兄上! やはりここだったか。それがしには理解できん。あの時、笑って送り出してくれたではないか」
カシはサンに下がるように手で示し、キリに向かい合う。
「その心は、十年前に手放した。キリ、拙者は話が苦手でな」
そう言ってカシは刀を鞘から抜く。
「それがしが蒼龍に見出されたのが気に食わなかったのか? 弟弟子のそれがしが蒼龍に上がったのを妬んでの所業か。そうならば、認めよ兄上。師匠は兄上でなく、それがしの力を認めたと」
カシが我慢できないと言わんばかりに鼻で笑いをこぼし、やがて豪快に笑った。
サンとキリは、理解不能と言わんばかりに眉を顰めてカシを見る。
「おぬし、面白いことを言うようになった。そうか、おぬしはそう思っておったか。ならばよい機会。抜け、キリ」
キリは何か言いたそうに口を閉じているが、やがて刀の柄に手を伸ばす。
二人の二刀流の吊り劔の構えを見て、サンは止めるべきかと思ったが、二人の目を見てどこか安堵を覚えた。二人とも殺気を感じないのだ。キリさんの目は問いかける色を湛え、師匠はどこか愉快そうだ。
突如、カシから風が巻き上がり、サンは思わず腕で目を覆う。風がやみ、目に映ったカシの姿にサンは言葉を失った。
カシを覆う白い靄の光が次第に形を成していき、白い炎のような鎧と変わったのだ。厳しい白焔の鎧だ。
サンはその鎧の姿に見覚えがあった。書物に描かれていた、ヴィアドラ太古の戦時代の鎧。顔を覆う面頬は厳しく相手を睨みつけている。殺気を感じはしないものの、肌が焼けるようなちりちりとした緊張が、足から頭のてっぺんまで駆け巡り離れない。
キリは瞠いた目に焦りを見せ歯を剥き出した。まるで逃げ場を失った犬が、恐怖を抱きながらも威嚇をせずにはいられないかのように。
「化け物か!」キリは絞り出すように言った。
カシが笑う。
「おぬしを本気で相手してやるのは、最初で最後と心得よ。キリ、ゆくぞ」
カシの立っていた地面がほんの少し陥没したかと思った瞬間、姿が跡形もなく消え光の残滓だけが取り残されていた。次の瞬間には、白焔の鎧武者がキリの後ろに立っていた。
キリは前に転がると、立ち上がり際に刀を振り上げ、剣気を放つ。その剣気は白焔の鎧に到達する前に弾かれて消えてしまった。
カシの白い焔が空気に揺らめいたかと思った瞬間、また消えた。金属がぶつかる甲高い音とともに、キリが派手に転がり立ち上がる。
「やめだ! 参った!」
白焔が渦巻き空気となって消えると、そこにはなにも変わらぬカシの姿があった。愛と犠を鞘に戻し、ため息をついてキリに歩み寄る。
「家族は離れないものと思っておった。そうであってほしいと。それが拙者のすべてだったゆえ」
カシは暖かい笑みでキリを立たせる。
「拙者がおぬしを許せなかったのは……。あのとき、おぬしが蒼龍に行くと言ったことだ。拙者のすべてであった家族は、どんな状況でも一緒にいることを選ぶと信じておった。それを引き裂いたおぬしの決意を尊重することなく、拙者は己の願いが叶わなかった怒りをおぬしにぶつけておった。せっかく帰ってきてくれたというのに、すまなかったな」
キリは目を硬く閉じて刀を鞘におさめると、疑問に揺らいだ力無い目を上げた。
「それがしがなぜ蒼龍に見出された」カシのさっきまで纏っていた姿を示すように、キリはカシに手を向ける。「おかしいではないか。先ほどの力は、それがしにはない」
「蒼龍がなにを見出したかは知らぬ。どうでもいいことではないか」
「どうでもいいか」キリは鼻で嗤う。「國では、家名と力がすべてだ兄上」キリは思いを払うかのように頭をふる。「どうでもいいことだ。それより兄上、師匠に対して怒りはないのか」
カシが思わず漏れた笑いにのせて言う。
「あの飲んだくれに怒りを抱くだけ無駄なこと。そうであろう」
キリは感慨深く懐かしみつつも苦い笑みを湛えて頷いた。
「兄上は達見しているな」
キリは何かを決めたように、真剣な眼差しに戻り言葉を続けた。
「兄上に力を借りたい。昔のように、もう一度協力してくれぬか。無色もとい、ヴィアドラのために。昨今、ヴィアドラと貿易を通して関係を築き上げている国がある。バルダス帝国だ。その商船や商人だけが無色で殺害されている。その殺害に関与しているのが、無色の人間だ」
カシが呆れたように首を横に振る。
「いいや、兄上。近頃、夕黒の噂を聞いた。二十年前に暗躍した無色の人斬り、夕黒だ。それがしらが追っていたが、結局倒すことのできなかったあの夕黒だ。だが最近、蒼龍の剣豪二人がこの無色に潜入しておったが、何者かに斬られた。その後、夕黒の噂が再びこの無色に現れた」
カシは鼻で嗤う。
「拙者は二十年前に夕黒と一度手を合わせておる。言っておくが、あの時すでに若くはなかった。もう生きてはおらぬ」
「テットウ殿のような人間かもしれんだろ。そうでないならば、別の夕黒だ。その夕黒はペイポースト商会の者を一人も襲うことなく、バルダス商会の者だけを狙っておるのだ。無色の者、それも大きな組と手を組んでいるのだろう。夕黒を捕らえればその組に辿り着く。組を粛清すればバルダス帝国に示しがつく。できなければ戦争という報復が待っている。だが、剣豪二人を斬り捨てる強者。兄上、無色のために」
キリはサンを示す。
「無色の未来のためにも」
カシはキリをまっすぐと見つめるが、その目には冷たい決意が宿っていた。
「キリ。おぬしが己の道を選んだように、拙者にも拙者の道がある」
「どんな道だ兄上。それがしらに協力する他に無色が助かる道はない」
カシの目を見るキリは、怒りに燃えていた。だが、それもすぐに揺らぎ諦めがよぎる。
やがてキリは背を向けて、土の期の寒いつむじ風の中を歩いていった。サンはその背中が見えなくなると、カシの袂を引っ張った。
「師匠、本当に良かったの? 手伝ってあげればよかったのに。弟さんが死んじゃうかもしれないよ」
「これでよい。あやつに力を貸せば時間がなくなる。拙者は」カシはサンの肩に手を置いた。「家族との時間を大切にしたいのだ。それに、あやつは死にはせん」
なぜ、キリが死にはしないと言えるのか、サンには理解することはできなかった。心の中ではじける柔らかな熱の渦が思考を消し去ってしまったから。
家族。師匠はそう言ったんだ、俺を家族と。




