十四話
サンはあの後も何度か裏猫に通い、賞金を荒稼ぎした。噂で広がったサンには、他の裏猫を主催している人間達から金を弾んでサンに出場を依頼するようにもなった。
だけど、それもここまでだ。
つい先日、あの裏猫が行われている酒場に、町の治安を維持する組織〈律刑隊〉の隊士、通称〝律士〟が突入してきて、人斬り業らしき人間を片っ端から捕らえていったのだ。
律士がああいった捜査のようなことは普段しないのだと教えてくれた大人は、巷で噂になっている人斬り、〝夕黒〟探しに躍起になっているのが原因だとも口を漏らしてくれたのだ。
俺は子供だったから、木刀を持っていても玩具と勘違いされて律士に捕まることはなかったけど、あそこの裏猫にはしばらく人は寄り付かない。それどころか、裏猫をしていた店主が取り締まりを受けていたのを見て、ようやくいけないことに頭を突っ込んでいたことに気づいた。もう十分に稼がせてもらったし、足を洗うというやつだ。
家の修繕費、二百五十半を全てあの賭けで稼いだ。その金額は無色で働く人の一年分の金額だ。これを三つ月で稼ぎ、黄判硬貨びた一枚も使っていない。
このことは師匠にもロジウスおじさん達にも言っていない。裏猫の店主にお金の保管方法も教えてもらったおかげで、全て銀行に預けてある。仕事を偽って申告したのは気が引けたけど、おかげで師匠達にばれることもないだろう。これで師匠を驚かせてやるんだ。
サンは丘の上の家に向かうために、カシに仕事だと嘘をついて町をでた。
既に町の外では霜が観測され、霜土月らしい寒さになっていた。もう厚手の着物だけでは寒さを拭えず、毛皮の羽織を身につけてている。昼飯を包んだ風呂敷を背中に巻いて、木刀を腰に二本差して、湿った冷たい朝の静けさを味わいながら街道を歩く。
右手の森は橙色や赤を着飾って、静かに土の期を味わっているように見えた。
サンは歩いている道を振り返る。
この道を歩くのも久しぶりだ。師匠が怪我をする前は仕事のために何度も往復したっけ。どこに窪みがあるのかも覚えている。そういえば、最初にここを通った時は師匠と一緒だった。あの時、初めて妖魔を間近で見たっけ。それと、強くなりたいとも願った。
奴隷ではなくなったあの日から一年半、長かったな。
来年こそは師匠と一緒に仕事をして、あの丘の上の家で過ごすんだ。囲炉裏を囲んで団子を食べたら美味しいだろうなぁ。ロジウスおじさん達も招いてみんなで月を眺めるのだっていい。まずはあの家を直さなきゃ。
草原を織り成していた草が倒れ、丘の上に独り取り残されたように佇む家を見て、サンは立ち止まる。
あんなに小さかったっけ。
たったの半年しか経っていないのに、懐かしさに思わず笑みがこぼれた。だが、家に近づくにつれてサンの顔は険しくなり、その足の運びは忍び足になる。
誰かいる。
玄関の引き戸の硝子の向こう側、家の中で影が動いたように見えたのだ。間違いでなければ、あの大きさは男か、熊。最悪、妖魔だ。
サンは家の裏手に回り、風呂場の蔀戸からそっと中に入る。土のついたままの足袋で風呂場に入ったと知れたら、師匠はどんな岩の顔をするだろう。冷静にもそんなことを考えている自分に笑う。次から次へといろいろな、どうでもいいことが頭の中を高速で回転して笑いそうになったとき、冷静なのではなく、恐怖を紛らわそうとしているんだと気づき、首を振った。
居間の前の廊下まできて、確信に変わった。囲炉裏に火が入れられ、それを挟むように座る二人の影が、居間を囲む引き戸の硝子に揺れている。
恐怖よりも怒りが沸いた。勝手に人の家に上がり込み、俺が師匠と囲むはずの囲炉裏を勝手に使っているのだ。
深呼吸を重ねる。怒りはある。だけど、やっぱり怖い。木刀を肌身離さず持っていてよかった。この柄を握っていないと笑い出してしまいそうだ。
二人の男の影をじっと観察した。
これが最後だと言い聞かせてから、数えきれないほどした深呼吸をもう一度する。
「おい、誰だ」
自分の血が部屋の冷たい空気よりも冷たく感じる。足が風呂場へと向きを変える。そんな足を強く握る。
だめだ、取り返すんだ。俺と師匠の場所を。
木刀を強く握りゆっくり抜くと、なにも考えずに居間に飛び込む。
「お、俺の家でなにしてるんだ!」
鉱山から逃げる時、老人とその忠犬カミツキ五郎丸にこうやって大声出したっけ。いや、もっとあの時は必死だったか。
男はやはり二人だった。一人は浅黒く、一人は酒にでも酔ったかのように顔をふわふわとさせている。
「おいおい坊主一人かい」ふわふわとした芯のない声で言った男はにんまりと笑う。顔は赤くないのに立ち上がってからも足取りが定まっていない。
「あんた、あのときの」
帰ってこない師匠を心配して、丘の家から港町まで走っていたときに出会った男だ。
「おー、坊主はあんときの。少し大きくなったかい。あの人斬りには会えたかい?」男はにんまりとした目に、さらに卑しい色を湛えた。
「会えたよ」その言葉を聞いた男の目から笑いが消えていく。それでも口には貼り付けたような笑みが残っていた。
「おい、死んだんじゃねぇのか」もう一人の浅黒い男が、薄笑いの男に眉を顰める。
「死んだはずだ死んだはず。おいおい坊主、なんで今更この家に戻ってきた。ここの主人人斬りさんは死んだだろう?」
「俺の師匠のことなら生きてるよ」
男二人はサンを無視していがみ合い始める。
「この野郎、お前が空き家だって言うから根城にしたんだぞ?」
「わかってるわかってる。あんな傷負って生きてるんて思わないってふつう。それに倒れたところも見たんだからね」
サンは一人拍子抜けしたように握っていた木刀の手の汗を拭う。あのとき、あの男は師匠のことなど知らないと言っていたのに、知っていたのか。
「見るからに剣豪な二人を相手に、斬り傷つくってぶっ倒れたんだよ? でもだよ」男はサンに目を向けて再び目を皿にした。「いい交渉材料がここにある」
男二人は黄色い歯を見せて笑い、サンの左右に分かれはじめる。
「それ以上こっちに来るなら容赦しない!」サンは木刀を交互に振り、力いっぱい目に意思を湛える。
男たちは壁に立て掛けられた鉈と、山刀をそれぞれ持つと、得意げに手の中で遊ばせて見せた。
「殺すなよ」
「お前さんこそ」
サンは、二人がかかってくる前に自ら飛び出した。
裏猫のおかげで、戦うとわかっていても心が無心にできていない者がいる。そういう輩は最初に攻撃を仕掛けて戦意を削いでやるのが得策だ。
鉈を持った男の手首を打ち据える。男は痛みに声を歪ませ鉈を落とすと、手首を押さえて四つん這いになった。
もう一人の男の山刀がサンめがけて振りおろされる。サンは容易くひらりと体を翻し、山刀は本来の標的を失い、四つん這いの男の頭のてっぺんを削ぐように地面を叩いた。
「ちくしょうちくしょう! 俺の頭皮がぁ!」
サンは山刀を地面から引き抜こうとしている男の肘に木刀を走らせる。男は間一髪のところで山刀を引き抜き木刀を打ち返す。破裂する音とともに、サンの木刀が真っ二つに折れた。
山刀の男は、斬り落とされた頭頂部を手に持ちながら泣き叫ぶ男に怒声を上げる。
「いいからてめぇはさっさと獲物を握れ! このガキ、剣術を知ってやがる」
山刀の男は踏み込み、雄叫びをあげながら横薙ぎに連続で振るって近づいてきた。動きが遅すぎる。サンは男を引き戸の方まで誘導すると、引き戸を閉めた。男の山刀が引き戸に食い込み、男は怒りに吼える。
「なめんなガキ!」
男は抜けない山刀を即座に諦め、自分の頭を守るように腕を掲げて突っ込んできた。あんな太い大人の腕に掴まれたら絶対に逃げられない。
サンは居間を走って縁側を抜けると庭に飛び出た。男が怒らせた肩と腕を震わせて勢いをつけてサンに殴りかかる。すでに吊り劔の構えをとっていたサンは、体を落としこれを躱し、幾たびも鍛錬を重ねてきた道を繰り出す。
〝落桜五連ノ舞〟
五連撃全てを打ち据えられた男は、身体全体が痛むのだろう、二本の震える腕でいたるところを触りながら地面に倒れこむ。
サンは残心そのままに、倒れて痛みに耐える男を見おろす。本来ならば十連撃。一本でも通用する剣術なんだ。
男はやがて立ち上がり、腰のどこに隠していたのか小刀を抜いた。顔を真っ赤にして血管を浮き上がらせながら武者震いする男は、サンに笑いかける。
「やめだぁ。ガキ、生きてること後悔させてやる」
男が一歩踏み出したのと同じくして、家の外から声がした。中庭の柵を乗り越えて入ってくる数人の男達。一様に擦れた服を纏った荒くれ者といった風貌で、助けにきてくれた人とは思えない。
四人も相手にはできない。サンは木刀を納めると一目散に走った。
男たちは仲間を痛めつけられたことを怒っているのか、執念深く追ってきた。
手紙の配達でいつも走っていたから、俺は大人よりも足が速いと思い込んでいたが、間違いだったようだ。汚い荒くれ者の大人のほうが足が速い。このままじゃいずれ捕まる。
丘を越え、下ったところに三人の人影が見えた。三人とも笠を被り、揃いの戦装束に身を包んでいる。用心棒にしては秩序漂う姿に、初めて助けを求めたくなった。
こっちに気づいたのであろう一人が笠をちょいと上げてこっちを見ている。サンは声をあげようとするも、うるさい呼吸と咳がでてむせ返える。
あの三人の元に着く前に追いつかれる。あんな奴らに、鉱山の親みたいな奴らに捕まる。
サンは歯を食いしばり、一本だけの木刀を抜いて荒くれ者達に向き直る。
「やってやる」
そう腹を決めた瞬間、二十歩程離れていたはずの男の一人が、旋風と共にサンの横をすり抜け目の前にやってきた。尋常ならざるこの速さは……。
男は居合の格好で踏み込むと、刀を横に薙ぎ払った。揺らいだ空気が枯れた草を巻き上げて荒くれ者の方に飛んでいく。荒くれ者達は何が起きたか理解できていないのか、無言のまま宙に投げ出され、地面を転がったあと、慄いた様子で走って逃げていった。
これは、師匠とカゲムネが戦った時と同じ、剣気だ。




