十一話
海から吹く風に、いまだ人々は暖かさの名残を探す。山を越えてくる西からの風は肌寒く、袂に腕をおさめたくなる寒さを感じさせていた。森は静かになり冷涼よりも淋しさをその身に纏い風に揺れる。
無色の港町を歩くサンは手をすり合わせて息を吐いた。一瞬だけ白くなる息を見て、今年は乗り切れるだろうかという考えがふと頭によぎった。
土期の霊土月からは肌寒くなってくる。街を見回すと、皆はすでに服装が変わっていて、厚手の木綿着物を着ている。働いたお金にロジウスが足してくれたおかげで、霊土月の肌寒い風に耐えられる厚手の着物を買うことができた。
サンは新しい木綿の着物を指で撫でた。麻のものも嫌いではないけど、こっちの方が柔らかい。上等な着物を着ているようで気分がいい。さらに上等な絹というものがあるようだが、それは見たことがない。一体どれだけしっかりした生地なのだろうか。
街の一角にある木造の古めかしい大きな館の門の前に来たサンは、門の梁にかけられた広く長い青銅の看板を仰ぎ見た。
〝空の館〟、そう名付けられているこの二階建ての旅館ほどもある大きい屋敷に、ロジウスの診療所兼自宅に世話になってから二つ月の間、仕事が無い日は毎日ここに通っている。
後ろからゆっくりと付いてきていたカシがサンの横に並ぶと同じように〝空の館〟の文字をみた。
「この名の由来を知っておるか?」
サンはカシに眉をあげて肩をあげてみせる。
「昔、皆が知識を得られればより良い世界になると信じた貧しい生まれのおなごがおったそうだ。そのおなごは信念を貫き、これを建てた」カシは少し黙り込んで、ゆっくりと息を吸った。「空は生まれに関わらず、全ての者に開かれておる。知識も空のように開かれるべきだ。おなごのその想い、強き信念がこの名の由来だ」
長い年月を感じさせるその銅板の文字がさらに重く感じられ、陽に焼けた黒い木の館がより大きく見えた。ここで多くの人が学び、人生を変えていったんだ。
「ただの無色が、四國に無色ノ國と呼ばれる程に大きくなったのも、学を知り、皆が力を合わせて進んできた結果なのだ。覚えておけ」
サンは館を目に焼き付けるように見上げる。もうすでに何十回も見てきた光景だけど。
館の大きな引き戸の正面の入り口から、子供と男が出てくる。子供は何か書いた紙の束を胸に抱え、男に嬉しそうに話しかけている。
「お父さん、明日はもっとうまく書くよ!」
「あぁ、楽しみだな。帰りに団子でも買って帰るか」
「やった!」
ああいうのを親子と言うらしい。二人は絶えず話している。二人の背中越しに見える横顔は楽しそうだ。俺が知っている〝親〟は、奴隷商売をしているただの組の人間だったと聞いて頭がこんがらがったけど、今見ているものの方がそうなのだと信じたい。俺にもあの子供のように親ができるのだろうか。
「ゆくぞ」
カシの声が離れたところから聞こえたサンはあわてて振り向き、すでに入り口に半分体を入れて待っているカシの元へ走った。
勉強という次から次へと発見のある遊びを終えたサンは、カシと港へと向かった。港はいつもの例に漏れず喧騒に満ちている。船と呼ばれる海を渡る木の怪物から、人足達が荷物を運び出したり、入れたりと列がいたるところでできている。できれば人足達とは会いたくない。
「団子でもどうだ」
カシは腕を組み港をまっすぐと見ながら口にする。
「え? いいよ、夕飯代が減るよ」
「そうか」
カシは港の一点を見て動かない。師匠はなにを見ているんだ? 特になにも変わった様子はないのに。
「サン」
「ん?」
「なにか望みの物はあるか?」
どうしたのだろうか。師匠が何か尋ねることは少ないのに。
「んー。とくにないんだけど」サンは閃き手を叩く。「刀握らせてよ!」
「ならぬ」
サンは腕を組むとカシの真似をして腕を組み、「ならぬ」と真似してみせる。カシの鼻笑いを聞いてサンも笑いかえす。
「やっぱり団子食べようよ」
「うむ」
二人は団子を頬張りながら通りを並んでゆっくりと歩いた。サンはカシに空の館で気になったことを聞き、カシはそれに答えていく。
師匠はなんでも知っているのか、全てに答えてくれるし、憶えられないほどに教えてくれる。さっきの空の館の名の由来とかだ。師匠の話は楽しくて飽きない。
「だけど、信じられないなー。三百年生きた鍛冶職人がいたなんて」
「勝手に殺すでない。まだ健在だ」
「え。それはさすがに頭足らずな俺でも――」
カシの顔を見上げたサンは言葉を呑む。いつも岩のような顔をしているが、最近は怒った岩なのか、戸惑った岩なのかはだいたい見分けられるようになった。だけど、今のような信じられないものを見て固まったような顔は見たことがなかった。その視線を追ってみるが、特になにもない。
「嘘ではない。テットウ殿はヴィアドラ一の鍛冶職人だ。拙者のこれもあの御方の打ったもの。名刀だ」
カシは刀の柄に手を置きながら、サンに視線を移した。
「名刀には銘ってのがつくって空の館で読んだよ。やっぱりあるの?」
「最初に抜く方、こちらが〝犠〟。そしてこちらが〝愛〟」
「へぇ」サンはカシの前に立ちふさがり顔を見上げて笑みを作る。「ちょっとでいいからさ、いいでしょ?」
カシは口を一文字にしたまま、〝犠〟を腰帯から鞘ごと抜く。それをサンの目の前に突き出した。サンはきょとんと目を瞬かせ笑みを浮かべる。手が黒光りする漆塗りの鞘に触れ、
「ちょっとでいいと申したな」
カシは素早く刀を腰に戻す。サンはあからさまに肩を落としてみせる。
「強さとやらを見つけたら、その時握らせてやる。これから港の役所へゆく。先に帰っていてかまわぬ」
「ついてくよ」
港の役所の中は商人達の列で混んでいた。窓口の役人達は有無を言わさぬてきぱきとした様子で仕事をこなしている。まるで魚を捌く料理人みたいだ。
「ここで待っておれ。拙者は少し話があるゆえ」
サンの返事を待たずにカシは人混みの中へ入っていく。サンはあっという間に見えなくなったカシの背中をなおも探してから腕を組んだ。どうしたものか。ついてきた手前、黙って帰るのもあれだしな。
邪魔にならないように壁際で寄りかかっていると、顔を寄せ合い周囲を気にしながら話している商人達がいた。聞かれたくない話をしているのだろうけど、興奮しているのか余計耳に入ってくる。
「なんで蒼龍軍の猟船があるんだ? まさか」
「言うな。今朝蒼龍からくるはずの物が無かったからな。きっとあの猟船に捕まったんだろうよ」
「おいおいそれだとコウ――」
「馬鹿野郎、名前は口に出すんじゃねえ。もし違ったらどうする。とにかく、蒼龍の連中が厄介ごとにかこつけて、無色に干渉してくるのだけはごめんだ。そうなる前に積荷は全部売っぱらうぞ」
商人はそう言い合うと、周囲をさっと見回して手に持った紙の文字列を指差しながら、まったく別の会話をし始めた。どうやら積荷の値段の話のようだ。
いきなり誰かに肩を掴まれて心臓が跳ね上がる。なんだ師匠か。
「用は済んだ、ゆく」
帰り道、サンは二人の商人が怪しそうな話をしていたことを話した。ひそひそと話そうとしているのに逆に興奮して声を立ててしまうのだから面白い。師匠は途中から考え事でもしていたのか笑わなかった。
翌朝、ロジウスの家の中庭でサンが朝の稽古に励んでいると、カシが二本の木刀を手に持ってサンの前に立った。
「どれ、教えた型が役にたつかそろそろ試してみるか」
サンは顔に花を咲かせる。
「やった。だけど傷は平気なの?」
「たわいない」
サンは安堵の笑みを漏らす。
「おぬしの相手がな」
サンは挑発したカシの岩の顔に木刀を向ける。
「俺、一から五の型は考えなくてもできるようになったよ」
「型ではない、道といったであろう。型と呼ぶのは命奪う剣術を見世物と見る愚者のたわ言。剣の技は奪う命へと続く道、ゆえに〝道〟と呼ぶ。心しておけ」カシが木刀を二本体の脇に垂らす。「構えよ」
師匠の教える剣術は無色で生まれた〈無色流〉。師匠が型と呼ぶのを怒る道は〝落桜ノ舞〟と呼ばれ、八つの道に技がおさめられている。と、教わったが、道は本当に意味があるのか不思議で仕方がなかった。
〈無色流〉の構えは独特で〝吊り劔〟という吊るされた剣のように不安定な立ち方をする。空の館の書物で見た他の剣術にこんな立ち姿はなかった。刀を二本とも体の横に垂らすが、肘は伸び切らない。足もつま先で立っているかのように見えるが、重心は土踏まずと踵にある。
見た目はふらふらと不安定だが、実際は全ての方向に動ける構えだった。そして、〈無色流〉の動きは〝落とす〟と言い、ヴィアドラ桜の舞い落ちる花びらを模した変則的な動きで、基本的には相手の攻撃に合わせた反撃の剣術。守るための戦い、モノノフの誇りを体現した技なのだという。
だからと言って攻めが弱いと言うわけではないらしく――カシの体が落ちる花弁のようにひらりと揺れ、次の瞬間には腰を落として斬り込みサンに一閃を向ける――こんな感じで動きが読みにくい攻撃を仕掛けることができるらしい!
サンは驚く間も無く、体が勝手に腰を落としてその一閃を躱す。気がつけば腰から力を腕に伝えて木刀を振り上げていた。カシの脇腹に木刀が迫る。
当たった。そう思ったが手には何も伝わってこない。師匠はどこだ?
サンが斬り込んだ木刀をひらりと躱したカシはサンの死角に回り込み、下から木刀を突き上げるようにサンの喉元で寸止めする。呼吸一つよりも速いその動きに、サンは息を呑んだ。今のは見えなかった。
「落桜ノ舞ってこう言うことなんだね」実際に相手にして身に沁みる。「攻撃の合間合間の落としが、落ちる花弁みたいにひらひらするだけじゃなくて、落ちる花弁の動きが読めないのと同じように、攻撃もどこからくるのかわからない」
「さよう、皆それに気づいたと思ったが最後、その気づきが報われることはない」
カシは腰を上げて立ち上がると、サンの肩に手を置いて目をみる。
「最初の一撃を受けずに躱したのは見事であった」その声はどこか柔らかい。
「ありがとう」師匠の褒め言葉は初めてだ。もっと嬉しいと思ってたのに、案外あっけないもんだな。「だけど」負けたこと喜べない。だって、「本当なら死んでたよね。俺」
「拙者が敵であったならば」カシが淡々と答える。
サンは木刀を握る手に力を入れる。「まだ足りない。俺は、犠牲にならないほど強くならないといけないんだ」
「強くなってどうする」カシは体の調子を確かめるように肩を動かしながら縁側の方へと歩きながら言った。
「誰かを守るときのために」
サンはカシの背を見て揺るぎなく言った。そして目を瞑る。ライガが犠牲になって俺を外の世界に連れ出してくれてから、助けに行かなかった後悔と悲しみはいまだに胸の中で疼いてる。だけど、それ以上に湧き上がるものがある。悲しい怒りだ。
「誰かを守るために犠牲になっても、残された人は悲しむんだ。俺は、そんな思いはさせたくない。師匠は言ったでしょ、ライガは強さを持っていたが弱かったって。ライガは俺のために犠牲になった。犠牲になれる決意が強さだって言うなら、俺は犠牲にもならないほど強い者になる」
カシが振り返りサンを見る。
「おぬしは、真の強さを理解してはおらぬ」
サンは奥歯を噛み締めると鋭い目を向ける。「なんなのさ、その真の強さって!」
カシは再び歩き始める。
「今は技を磨け。精進あるのみ」
サンはカシの背中を見ながら、悶々とする気持ちを噛み殺した。




