百七話
なだらかな丘の上、その端は崖になっていて、眼下に広がる無色の港町を眺望する。
そこに一軒の家があった。窓の一つに硝子は見られず障子が貼ってあるだけ、張り替えたばかりの杮葺屋根を持つ平屋で南側に縁側を抱く庭がある。蔦で結んだ簡易な柵が庭の境を作り出し、その外側に一本の立派な樫の木があった。
丘の上にある木はこの樫の木以外には一本も生えていない。見渡せばなだらかな丘には芒の海が広がるだけで、そのために樫の木はよく目立った。その根元に一つ、土が盛り上がった塚があり、それは丘の上の家の主が眠る場所だった。
そこに黙祷を捧げる片腕の男が一人、それを見守る女が今、静かに男の肩に頬を預けてしんみりと微笑んだ。そして顔を上げると、家の方を見た。
取ってつけたような小屋から突き出る煙突から炊煙が立ち昇るのを見た女は微笑んで、黙祷をする男の背中に声をかけた。
「与鶴もお腹をすかせているかもしれません」
男は振り返り小さく笑った。
「与鶴より大食いな方々がいらしてる。きっとそちらの方々の心配をしたほうがいいかもしれないな。次は米俵を持参してもらうか」
間違いありません、女は笑った。
戸を潜り、板間の廊下をぱたぱたと走ってきたのは十歳になったばかりの与鶴だった。
「おとう、お帰りなさい!」
飛びついてくる与鶴を片腕で抱き上げて、良い子にしていたか、と問うと与鶴はにやりと笑う。
「なに、言いつけは守っていたぞカゲツ。与鶴は剣より弓かもしれんぞこりゃ」
〈無色流〉道場の先輩であるカイロウが額にうっすらと汗を浮かばせながら、朗々とそう言った。
カイロウの後ろに老人を認めて、カゲツは与鶴を降ろして老人に会釈した。
「キリ先生、ただいま戻りました」
顔の皺が深くなったキリは微笑み頷く。
「随分と早かったな、芝居はどうであったか」
「芝居は観ずに帰って参りました」苦笑気味にカゲツは答えると振り返り、「鶴、夕餉にしよう」と与鶴を下ろした。
魚の香ばしい匂いが未だ漂う縁側で、カゲツはキリと湯呑みを片手に月を見上げ、吐いたひと息が重なったことに苦笑した。
「わざわざ、こんなに遠くまで御御足を運んでくださり、感謝しています」
「なに、若師範の門出を見送らない師匠はおらん」
そう、ここに道場を開くのだ。カゲツはまじまじと家を眺め、その横に均された土地を見る。十年で若師範の名を師範から賜り、翌年には〈無色流〉道場がここ無色に建つ。
感慨深く、そして疼くような胸の感覚を覚えながら見上げた夜空の二つの月は、今にも重なりそうで輪郭を淡くしていた。
「お前達が烈刀士になると言って旅立ったのも、ちょうどこんな時期であったな」
「あの時は、重ね月でした。先生は悪いことが起こらなければ良いと仰りましたが、面白いことに、見事妖魔に襲われましてね」
キリは神妙に笑みを湛えながら頷き、湯呑みを回す。
「あの重ね月からというもの、サンは龍人となり、波乱が訪れ、あっという間に過ぎて行きました」
月を見上げながらそう言うカゲツの湯呑みの湯気が風に攫われていく。キリは、居間の壇に飾られた二振りの刀を見て喉の奥を鳴らした。
「お前は、まだ待っておるのか」
カゲツは片側だけに笑みを作って、すぐにそれを引っ込めた。自嘲するかのように小さく頷き湯呑みに目を落とす。
「どうでしょう。あいつを探し、白夜戦闘区域とその奥を探し回ったのは最初の一年だけです。その後、除烈が認められ鶴と与鶴を連れて蒼龍ノ國に移り住みましたから。そこからは家族のことで精一杯。除烈から九年、サンが消えてからもう十年です。そして、師範の名をいただき、ここに道場を構えることになり過去を振り返ることが多くなった。だからですかね、あいつのことを思い出すんです」
「消えた、か」
キリの言葉に、カゲツはまたも自嘲気味に笑む。
ヴィアドラには名高い天ノ五剣を打つ匠がいる。蒼龍、皇燕、巖亀、白鬼、そして無色にいる刀匠が一人、天ノ濤徹。その名を刻んだ一振りが居間に設えられた壇の上にある。龍人とカゲツの親友であったサンの愛刀〝心・通〟だった。
「ここがあいつにとって一番思い出のある場所だと聞いたので、帰ってくるかもしれないと、淡いものを抱いていたのは認めましょう」
「この十年で鬼の襲撃は一度もないと聞く。噂ではあるがな」
「おそらく本当でしょう。私があの一年、鬼が跋扈する森を駆け巡り、いくつ夜を越えても鬼と出会うことは遂にありませんでしたから。もちろん、あの莫迦サンにも」
「サンか。子は親に似る……か」
カゲツが、どういうことかと訝しむ。キリは両眉を少し上げて、首を振り、茶で口を湿らせた。
「あいつを拾って、ほんのばかし育てたのはそれがしの兄、カシだ。あの樫の木で眠っている」
庭の外れの樫の木、家に入る前に何を願ってか黙祷を捧げずにはいられないあの場所に眠る、サンの師匠。
「サンは奴隷だったそうだ。ゆえに、血の繋がりはなかった。それでも、兄様は家族であり初めての親だったのだ。その兄様は、サンが無色から他國へ行けるように、己を犠牲にして大金を稼いだ。子を想い、無色でできる唯一の手段をとってな。兄様の願い通り、その金があったから、それがしはサンを蒼龍ノ國の民にすることができた」
「それが、なぜ子が親に似ると」
キリは両手を広げる。尚も眉を顰めるカゲツを見て、キリは呆れたように息を吐く。
「それがしが知っているのは、あいつは朱雀炎魔と戦い死んだことだ。だが、お前さんの話では死を偽り鬼の元へ行った。それをきっかけに鬼の襲撃は止み、ヴィアドラは潤い始め、未だかつて見たことも無い安寧を傍受している。無色に元老院が関与し、法律を敷き、空の館を町に建てて老若男女に学を施す。ただの農民が畑を耕すだけの人生では終わらなくなっておる。言うなれば、サンの犠牲に成り立つ未来であろうな。お前さんが除烈できたのも、あやつが龍人として元老院と戦ったからこそであろう」
カゲツは理解し、しかし眉を顰めることをやめなかった。あいつ自身、犠牲を恨んでいた。だからこそ言っていたではないか、犠牲にならないほどに強くなると。その結果がこれだというのなら、あいつは強くなかったと自分から証明したってことになる。大莫迦者だ。
しかし、与鶴と鶴が恵まれた環境で暮らせるのは、あいつのお陰なのだ。龍人として戦ったからこそ、元老院を納得させ、氏族を収めることができたのだ。あいつはこうも言っていた。大切なものを守るために強くなる、と。あいつは自分が強くなりたいと思って戦いを望んでいたわけじゃない。守るために戦いたいから強くなりたかったのだろう。守りたい大切なもの、それがヴィアドラという大きなものだったのか。ヴィアドラに住む人達の未来、そのためにあいつは。
「犠によって愛を知る。あいつなりの、ヴィアドラへの愛であろう。青は藍より出でて藍より青し、無色だけを思った兄様を超えるとは」
「犠により愛を知る……ですか」
そうキリに問うと同時に、与鶴が寄りかかってきた。振り返ると、手には笹を皿にして並べられた串団子があった。
「あぁ、好きなのを食べなさい」
カゲツの言葉に、しかし与鶴は首を傾げる。
「どれでもいいかなぁ」
カゲツは与鶴の額を指で小突いた。
「おかんがわざわざ芝居を諦めて並んで買った団子だぞ。有名だとかなんとかで」
え、と与鶴は額を摩りながら居間の方を見た。そこには小袖にたすき掛け姿の鶴が背を向けて、土間にある台所で作業をしているところだった。与鶴は一瞬切なさそうに眉を寄せて団子を一口頬張る。飲み込む頃には笑顔を見せて居間に走っていく。
背後で、「おかん、すごく美味しい! ありがとう!」という言葉を聞きながらカゲツは庭に目を落とした。
「あれが、まさにそれであろう」
キリが腕を組みながら味わうように言った。カゲツの視線に応えることはなく、夜空を見上げる。
「人は往々にして、犠牲という形から愛を知ることのほうが多くはないか。日々を何気なく重ね、当然とし生きる。歳を重ねると、それがよくわかる。振り返れば、愛が溢れておったわ」
カゲツはキリが見上げる夜空の月を見た。
サンの犠牲は許せない。でも、いつか心の底からそれが愛だったのだと、そう思えるようになりたい。カゲツは心の内で一つ呟いた。
――ありがとう。
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