百六話
〈大霊樹〉の幹の隙間から白い光が溢れていた。そこからゆっくりと歩み出る神楽は、まるで星でも掴んだか、光の波を発する白緑の光そのものを仰々しく掌に載せていた。頬を伝うものに喪失と希望を、口元の蕾をやんわりと喜びに染めて。
漆黒の巨軀を持つウラド、そのアイラ=ハーリトの長老アースィンジャルが神楽の掌の下に掌を重ね、その光を譲り受ける。鬼と呼ばれ人への憎しみを抱き続けてきた者でも、黄金の双眸に和敬を滲ませずにはいられなかった。
アースィンジャルはその白緑の光を掲げて、振り返る。夜の霊樹の森の草木は淡い燐光を帯びて仄かに森を彩る。その光に満ちた森の中でさえ、白緑の光は眩しく光を放っていた。それを見るウラド達は万感たる思いをそれぞれの目に浮かばせ、歓声もなくば悲嘆もない、しかしそれは確かに森の空気を、空間を、歴史の流れを変えるほどの力を秘めている。
ウラドの一人が胸に掌を当ててから蕾のような形にして地面にそっと触れた。それはウラドの最大の感謝の印だった。ウラドにとって種とは、すなわち命のことであり、それは心ともいえる。それを捧げる意味が籠められたその儀礼は、人間に故郷を奪われたハーリトからすれば誉められたものではない。しかし、少なくない数が次々と胸に手をあて、地面に触れる。
烈刀士ノ砦の遥か北へひと月の距離に、アイラ=リーフの〈大霊樹〉を柱として広がる霊樹の森がある。人がいう妖魔の森よりも妖気に満ち満ちて、緑ない森の中は幹の黒い樹木、硝子のように透き通った色とりどりの花が生ける森。更にその北、ウラドすら棲まず妖魔が支配する妖魔の森に、神楽はいた。火季だというのに雪が薄く積もった峨峨と聳える山岳の峰の一つから、眼下に広がるその寂れた妖魔の森を見下ろす。
ウラドの一つの共同体をアイラと呼ぶ。その内の一つアイラ=ハーリトが、寂れた森の大地で儀式的に円陣を作り坐っている。その数、三千余。大地に円陣を組み、黒い輪の中央にアースィンジャルがいた。その手に掲げられた白緑の光源は人とウラドをつなぐ唯一の光であり、そのために命を捧げた者の魂の輝き。
閃光が走った。円陣の中央、その白緑の光は天を射るようにまっすぐ空を翔け昇る。雲一つない空に生きる星のように煌々と輝き瞬くと、今度は勢いよく地面に降ってくる。彗星が見せる最期の如く輝くそれは、落下の途中で白緑から無垢な白い閃光になり、アースィンジャルごと地面を貫き天災さながらに地面を襲った。大地を砕き、土の波が全てを呑み、砕けた光が地面の亀裂から白い閃光が迸り雷雲のような土煙りが辺りに垂れ込んだ。
森があった場所は、大地が砕けひっくり返り、樹から石から森を成す全てを混ぜ合わせた、それこそ耕した畑のような有様になっていた。もちろん、円陣を組んでいた三千余のウラドも見られない。ウラドは〈大霊樹〉から生まれる。彼らもまた森の一部であり、森へと還る。そうしてアイラとなる森を作り出す。
神楽は目を伏せて、アイラ=ハーリトの繁栄を願った。かつて人に故郷を追われ、大切なもののすべてを踏みにじられた者達のことを。
烈刀士ノ砦、その海から山を繋ぐ壁の上部にある歩廊にいた明水は、勢い弱くなってきた火季の終わりを告げるかのような、土季の乾いた風を感じて北を見た。
「なんだあれは」
白緑の閃光が、遥か北の山を越えた先の空に瞬いていた。夜空に現れる紫星は凶兆だという。鬼の住処である北にある光なら、色がどうであれそれよりも確かな意味をなすだろう。明水はその閃光を睨んだが、なぜか不思議と馴染み深いような気分に首を傾げて訝しむ。
鬼の跋扈する地の光であるにも関わらず、それに親しみを覚えることに恐怖し、明水は刀の柄頭を握った。そして気付く、あれは蒼龍将とサンの羽衣の色に似てはいないか。
烈刀士を支えるはずの一人はもういない。希望となる龍人も、あの朱雀炎魔との戦いの後から行方知れずだった。ヴィアドラ内では龍人の訃報が、発生源も定かではないのに広まり根付き始めている。しかし、戦神の魂が空を翔ける姿も見ていない。龍人が死ねば、依代を失った戦神の魂は天を翔けて龍人の祠へと帰り、御神体である幻鏡羅心という神刀を象り次の龍人たる者を待つ。それが見られていないのだから、サンは生きているという事になる。ならば、どうして姿を見せないのか。
「どうだ、変わった様子はないか明水」
誰にかけるでもない様子でそう言いながら、狭間に寄りかかるのは烈刀士総将となった朱雀炎魔だった。にやりと笑みを佩く顔を一瞥した明水は北を顎でしゃくる。
「北の空に光が走った。薄い若葉のような色だ。蒼龍将と龍人と同じような羽衣の色をしていた」
ふーん、と意味ありげに炎魔は顎を撫でた。
「なにかが起きたってこったな。いい方向に行けばいいが」
何を知っているか訊いたところで話すはずもない男のことを放っておいて、明水は北に目を戻し、静かに重い息を吐く。ヴィアドラには星が必要だ。古いしがらみに縛られない心と力を持つ者が。帰ってきたら、今度こそしっかりと支えてやろう。




