百三話
額に温かなものが触れた。それは髪を掻き分けて、羅を指で愛でるような優しさで何度も撫でる。葉漏れ日に微睡み、そよぐ風に息を合わせる、そんな草原の樹の下で寝転んでいるかのような気分にさせた。
目を開けると、紅い宝石が慈愛に満ちた微笑みを垂らしている。解けた心はその笑みに暫く浸り、瞬きすら忘れていた。
「ご機嫌いかがでありましょう、龍人様」
鈴を転がしたような一つの笑みを見つめ、サンは目覚めたかのように身を起こした。そして紅い眼を振り返る。雪の肌に濡れ色の髪、神楽だ。
「俺は……」
そこはどこかの破れ屋の中らしかった。屋根は苔むして半分落ちている。壁の板は縮んで隙間があちこちにあり、隙間風と呼ぶにはしっかりとした風が屋内を横切った。人の暮らしを窺わせるものは何もない。木の梁と落ちた屋根、土間すらない。部屋の隅の影には白い茸が生えていた。床にはサンが仰臥した場所だけ筵が敷かれており、これは最近編まれたようだった。
「七つ。七つ陽を拝みました」
サンは顔を手で拭い、驚いた様子で神楽を見た。
「俺は、そんなに眠っていたのか」サンは立ち上がり、神楽が恭しく差し出す二本の刀を受け取り、念じるように額に当てる。失ったかと思った〝心・通〟を数秒見つめてから帯に差した。「あれから何があったのか、教えてくれないか?」
サンは川底に沈み、そのまま流され河口付近で漁の網に引き揚げられた。神楽が、まさか龍人だとは思わない漁師から戦に出た恋人だと言って引き取ったのだった。龍人が斃れたことに烈刀士側のほとんどが戦意を喪失し、炎魔が烈刀士将となること――実質元老院の管理下になる――を条件に元老院と烈刀士の戦は一先ず幕を閉じた。少数の氏族と烈刀士がその結果を認めずに妖魔の森に潜伏していたが、炎魔は元老院にこれの始末を一任。未だ種火は燻ってはいるものの、とにかく、一大事は免れたのだった。
「帝国は?」
帝国は現在蒼龍ノ國に迎えられ、元老院との会談中だということだった。
「そうか。周到と言うべきかなんと言うか」
サンの重くも枯れ葉のように乾いた声に、神楽は手を伸ばし落ちた肩に触れる。
「あなた様には、やるべきことがあって?」
サンは神楽の言葉にゆっくりと頷いて破れ屋を出て空を仰ぐ。まるで気持ちを代弁するかのように、今にも雨が降りそうな曇天だ。
蒼龍将の信念を支持する形で烈刀士側に肩を貸した俺が生きているならば、俺を信じてくれた者達を諌めるのが道理だろう。立ち上がり、尻をはたくサンを神楽は見上げる。
「いずこへ」
「烈刀士側の氏族、隠れている烈刀士を見つけて説得する」
神楽が風鈴の音のように澄んだ微笑みをサンに向ける。なぜ痛いげな、それでいて感心したかのような笑みを向けるのか、サンの問いに神楽は二重の大袖の懐に手を入れて手紙を取り出した。朱雀炎魔の名にサンは訝しむ。
内容は状況の説明だった。元老院は炎魔を烈刀士総将におき、烈刀士将を更迭、烈刀士を管轄下に治める。バルダス帝国の兵器の訓練を受けた四國の軍から任期を決めて派兵をする。烈刀士には除烈を設けた。
除烈とは、額面通り烈刀士から外れることだった。昔ならば烈刀士を抜けた場合、または烈刀士ならぬ行為から追放された時点で不名誉除隊となり、それは死をもって赦されるものであり、その死を贈るのは仲間である烈刀士という厳しい扱いだった。元老院に下ることで、法律の元に公的に外れることができるようになる。しかし、現状任期二十年以上の者に限るという話であり、若い衆には関係のない話だった。
元老院は四軍の他に烈刀士という力を手に入れたことになる。しかし、烈刀士はあの食えない朱雀炎魔が頭であり元老院の言いなりになるとは思えない。四軍も個々として力があるので元老院がまとまったようには見えない。それどころか、烈刀士が元老院の管轄となり、元老院が敷いた法律に縛られることに対して、神から賜った憲律を重視する古参の烈刀士や、個人的に烈刀士を支援をしている荘園との問題が新たに出てくる。戦を止めても平和な未来の姿が見られないことに、サンは肩を落とした。
その肩を重くさせるのはそれだけが理由ではない。除烈が適用されるのは任期二十年以上、それは蒼龍将と共にヴィアドラに刃を向けた古参の烈刀士であった。元老院との戦に対する事実上の恩赦。その屈辱に、古参が耐えられるはずがない。戦が終わった後も、妖魔の森に潜伏する者がいるというのが何よりの証拠だった。
炎魔の手紙はこう締めくくられた。
〝龍人は必要ない。美人と余生を楽しめ〟
サンは鼻で苦く笑う。結局、俺は何も成していない。
サンは、墨を乗せすぎた画のような曇天の空を見上げて、一人独白する。
それでも、まだやれることはある。
「北へ行こう。彼らの住処へ。アイラ=ハーリトのところだ」神楽は何も答えず、曇天を見上げるサンの言葉の続きを待った。そんな神楽に振り返ったサンは、苦笑を交えた。「だけど、いきなり行ってもアル=アシャルと呼ばれて攻撃されるだろうな」
アル=アシャル――最悪な竜巻――ウラドは俺をそう呼ぶ。すべてを壊すものと忌み嫌う呼び名で。
「だから、アイラ=リーフに寄って仲介を頼むんだ。ハワだったら力になってくれるだろう」
ウラド――鬼――の一つの国のようなものをアイラと呼び、その頂点となるウラドは長老と呼ばれる。人との共存を願うアイラ=リーフの長老ならば力になってくれる。ライガを助けるのを手伝ってくれたのだから。
サンは己が希望に縋っているのを重々承知で、それでも確信を得たくてアイラ=リーフのウラドを知る神楽の目にそれを求めた。だが、お伴しまする、と神楽は肯定も否定もせずに、ただ目を伏せただけだった。
重く、暗い雲の中に稲光を見た。葉は緩い風に揺れ、時折勢いづいて騒めき立つ。まるで急かすようなその風を背に受けながら、サンと神楽は森の切れ目にでる。
そこは高台で、烈刀士ノ砦までの森を一望できた。サンは足を止めて空を仰ぎ、胸をざわめかせるものに歯を擦り合わせて、首と衿との間に指を走らせた。
「この感覚はなんだ。空がおかしい」
砦から北にかけての雲が塊のようにゆっくりと渦巻いていた。戦の前から空は怪しく曇っていたが、その元凶があれなのだとサンは直感的に感じた。
そこからサンは羽衣を纏い、獣よりも速く飛ぶように森を駆け抜けた。神楽は艶やかな着物を纏っているにも関わらず当然のようについてきた。普通ならば三日はかかる距離を一日足らずで駆け抜けたサンの目の前に、肆ノ砦の施設広場があった。
森の中から覗く砦の様子はいつもと変わらない。木士が捩り鉢巻きを陽に焼けた頭に巻き、木材に鋸を入れている。石士は滑車を使い、大声で指示を飛ばしながら砦に補強のための石を積み上げている。補強されている場所は黒く焼け焦げていた。鬼の襲撃ではなさそうで、雷が落ちたようにも見える。雑士が豚を連れて納屋に戻っていく。女達の操る織機の規則正しい音が建物の中から零れて間遠に聞こえてくる。
サンは柔らかなものを湛えた目で笑んだ。
「変わらないな」
神楽は静かにサンを見た。サンはその視線には何も言わず、部屋の空気を入れ替えるように深呼吸をした。
「俺が生きていることも知らないんだろうか」
「はい。龍人はあの河で斃れたと、噂になっています。龍人が斃れれば戦神の御神体である刀が彗星の如く空を翔け、龍人の祠にお戻りになる。それが見られないので、生きているという民もいます。ですが、元老院然り、烈刀士の長に置かれた炎魔が、龍人が身を隠したと流布させました。その知らせを鵜呑みにしてはいないでしょうが、烈刀士は依然として廉潔なる初志のもと暮らしています」
そうか、と短くサンは息をつき、ふと空を見上げた。
「雨だ」
雫が頬に一滴、続いて地面をも慄わす霹靂と共に世界が白桃色に変わった。体の芯を打ち震わせる雷鳴が轟然と尾を引いて間遠になっていく。施設広場の誰もが文字通り跳び上がり、玉のように降り注ぐ雨に目を瞬かせると、声を掛け合うこともなく仕事を中断して慌ただしく建物や砦の中に避難していった。
「ある意味運がいいな。これで簡単に砦を越えられそうだ」
風の無い黒雨に打たれ、二歩先も見えない中をサンと神楽は砦の横の階段を登って回廊に出た。回廊はまるで小川でも流れているかのような有様だった。ざぶざぶと音を立てて歩を進め、サンの記憶だけを頼りに北へ降りる梯子を探した。
梯子の前にきて、サンはぎょっとして立ち止まった。目の前の黒い影、梯子守が平常と言わんばかりに北を監視しているのだ。
ひょっとして死んでる?
サンは数秒傍で佇み、意を決して肩を掴む。その瞬間、梯子守が振り返り、鷹のようにほりが深い目元から鋭い視線をサンに浴びせた。
「友を助けてやんだ。おめにしかできん」
生きていることに安堵しながら、サンは訊き返そうとしたが、言葉を遮るように梯子守が北を指差した。
「おめが行け。はやぐ、はやぐ!」
その血相悪く見える張り詰めた表情に、サンは頷いて梯子を滑り降りた。神楽は間を空けずに地面に花弁のようにふわりと舞い降りる。サンはそれを見届けると羽衣を纏い北を駆ける。
友を助けるとはどういうことか。カゲツ、ライガ、鬼火。俺の友はそれくらいしかいない。
森へ入りすぐに後方――砦の方――から何かが近づいてくるのを感じ、サンは足を止めて振り返る。懐かしいというほどでは無いが、親あるその気配にサンは苦笑いした。
「小言じゃ済まないかもな」
そう言ってサンは刀を二本とも抜いて、無色流の構え吊り劔をとる。豪雨の中に茫洋と藍色の光が近づいてくる。そして、羽衣の鎧を顕現させたサンにぶつかるようにして飛来した。
視界も覚束ない雨の中に、緑と藍の閃光が丁々発止とぶつかり合い、一つ甲高い音を引いて二つが離れる。刹那、剣戟の衝撃波に捉えられた雨が無音の空間を作り出し、時を刻むことを思い出したかのようにどっと地面を打つ。
「カゲツ、激烈な見送りをありがとう」
「死んだかと思ってたんだぞ! 砦に戻っててよかったよまったく。お前の気を感じて急いで来てみたら……」
カゲツは藍色の羽衣を纏い、しかも鎧の姿を纏っていた。裾が窄まった鎧直垂に、腰布を巻いた姿を象ったそれは、どこか雅だった。藍色の深みといい、攻撃的すぎないその姿はカゲツの優しさ体現しているよう。サンは感心しながら、カゲツの憤った顔に苦笑いする。
「まさかお前、本当に鬼のために?」
怒気の滲むカゲツの言葉に、サンは苦笑を深める。
「あぁ。だけど、他にもやることがあるらしい。友を救えと言われた。そうだ――」サンは唾を飲み込み、ほんのすこしの間を置く。訊くのが怖いが、訊かなければならないこと。 ――ライガと鬼火はどうなったのか。
サンが言葉を発するよりも早く、カゲツが吐き捨てるように顔を背けて顎を強張らせる。震えているようにも見
えた。
「まさか」
「鬼火も、腹の子も助からなかった」
世界に槌を下ろすかのような雨の冷たさをもってしても、サンの熱くなった目頭を冷ますことも、その流れるものを止めることはかなわない。サンの白緑の羽衣の光が弱くなり、ついには消滅し、サンは膝を折って地面に拳を叩きつけた。
医療班は何をやっていたのか。氏族に助けは求めたのか。人が足りなかったのだろうか。もし、俺やカゲツが砦に残っていたらなにかが違って……。
「戦が始まる前に容態が悪くなって、ライガが國に移送しようとしたらしい。國の方が治療師は優れているからね。でも、人質になるかもしれないという烈刀士とすこし揉めて、それでもライガは少数の仲間と移送したそうだ。だが辿り着いた頃には戦の準備が始まっていて、案の定、烈刀士は拘束されたんだ。その時の戦いに巻き込まれて、鬼火は死んだ」
元老院と烈刀士の軋轢が、鬼火を殺したのか。俺がもっと早くたどり着き戦を止められていたら。
地面に叩きつけた拳はただ痛むだけで、何にも影響はない。俺はこの拳と同じだ。
「ライガは、鬼火の移送を邪魔した軍の兵士を殺し、砦に戻り移送に反対した烈刀士を皆殺しにしたらしい。それからは行方知れずだって」
鬼火に寄り添い、その腹に手を添えて儚げな幸せに満ちたライガの笑顔を思い出してサンは震え上がった。そして、そのまま雄叫びをあげた。
鬼火を貫いた鬼の槍。俺はそいつらのために力を使おうとしているのだ。俺の守りたいものを壊した、あいつらのために。
サンは感じる視線に怒りをぶつけるように、さっと紅い眼を見上げた。その心配そうな顔を、サンは歯がぴしりち音を立てるほどに感情を噛み殺し見つめる。その心配は、俺の心を案じてか、俺の友の悲劇に心を痛めているからか、それとも、鬼のために俺が力を使わなくなるかも知れないことを心配してか。
鬼火が何か口を開き掛ける。その言葉を掻き消すようにサンは再び羽衣を纏った。雨が白緑の焔に触れて蒸発する。サンの目は翡翠色に変わり、白くなった肌に鮮血の隈取を浮かび上がらせる。
鬼に力を貸して、ヴィアドラの未来のための土台を作るか。この骨の髄まで震わせる怒りのままに鬼を殺すか。
「行くぞ、カゲツ」
カゲツは物言いたげに眉を顰めたが、何も言わずに肩を並べる。
「俺が何をするかわからないのに、それでもお前はくるか」
カゲツは、羽衣を文字通り焔にしているサンを横目で見て頷く。
「何度も同じことを言わせないでくれるかな」
白緑と藍色の光が並んで北へと向かう。その後ろを神楽は追わなかった。




