押印の仕事
ふと思いついたので投稿です。
古い紙とカビの匂いのする部屋。今日は雨が降っているからジメジメして暑い。
長い髪を搔き上げれば汗がべたついて気持ちが悪い、押印はため息をついた。
「滲むなぁ。」
湿気った紙にハンコを押せばインクが滲んだ。こすってみればインクが指についた。
ハンコで埋め尽くした紙を横にどけて、押印は机に突っ伏した。
「暑いなぁ。」
机に体温が伝わってじんわりと熱を返してくる。 古い小さな木の机は押印のお気に入りだった。ボロボロで、小さくて、角も丸くなってしまっている。古い紙だらけの狭くてカビと埃の臭いのするこの部屋にはお似合いだった。
「暑いよう。」
うめきながら体を起こせば汗のが目に入る。手で拭って瞬きをした。
「うーっと、やらなきゃなぁ。」
伸びをして新しい紙の束を取る。ポン、と億劫にハンコを押せばごわごわの紙に赤い模様がつく。
ポン、ポン、ポン。
かたくてゴワゴワの紙は赤い模様で満たされる。
「暑すぎてやる気にならないや。」
ハンコをポイっと机に放り出して部屋を見渡せば机と入り口以外全て紙で埋め尽くされている。押印の背よりも高く積まれた紙は圧迫感がある。これのせいでよけい暑い気もする。
「まだこんなにあるんだもんなぁ。」
押印はうげぇ、と舌を出した。
押印の仕事はハンコを押すことだ。朝9時から午後5時までこの部屋で白い紙にひたすらハンコを押す。ハンコを押す場所がなくなれば次の紙に押し始める。部屋を埋め尽くしている紙全てにハンコを押すことが押印の仕事だった。代々、押印の仕事はそれだけだ。
先代の押印が黙々とハンコを押し続けて亡くなったように、押印もこの部屋の紙にハンコを押し続けて生涯を終えるのだろう。
一体何代目の押印になったらこの部屋の紙はなくなるのだろう、と押印は思った。
全くやりがいのない仕事だ。ハンコを押すだけの仕事にやりがいを感じる方が難しい、押印はハンコを押した赤い紙を束ねながら思った。
「はたして、君たちは何になるんだろうなぁ。」
束ねた紙に声をかける。
押印はハンコを押した紙がどうなるのかも知らなかった。どう考えても赤いハンコで埋め尽くされた紙に需要があるなんて思えない、と不思議な顔をする。
「こんな紙欲しいものかなぁ。」
押印が汗をかきながら作った赤い紙の束を眺めながら考える。
「こんなの一枚も欲しいと思わないけどなぁ。」
赤いハンコでぐちゃぐちゃにされたその紙の有効な活用方法なんて一つも思いつがなかった。
「あ、もう5時すぎてる。」
左腕につけたボロボロの腕時計をみれば5時を少し過ぎていた。いつもならもう出る時間だ。急いで机の上を片付けて帰るしたくをする。
代々押印が使ってきたその小さな机は、きっと押印以外使う人なんていない。見たこともない今までの押印たちもここでハンコを押していたのだ。
「今までの押印達はどんな気持ちで仕事してたんだろう。」
机に話しかける。
返事は帰ってこない。当たり前だ。
「早く出なくちゃ。」
そんなことをしてる場合ではなかった。机をひと撫でして挨拶をすませる。少ない荷物をもってたった一つのドアから出ようとした。
押印がドアノブに触れる前にひとりでにドアノブが回り出す。勝手にドアが開いて、
「「え。」」
青年が入ってきた。
「えーと、どういう状況。」
青年が頭を掻きながら言った。
そんなのこっちが聞きたい、と押印は言いたくなった。
「えーと、僕は消印。仕事しにやってきたんだけど。」
消印と名乗った青年はそばかすだらけの顔でにへらと笑う。
「押印。仕事を終えたから帰るところ。」
「そーなんだ。じゃ悪いことしたね、どうぞ。」
消印がドアの前からどける。押印は少し考えた。
「仕事って、この部屋で?」
「そのために来たんだけど。」
消印が怪訝そうに言う。
「少し見ていってもいい?」
「ん?んー、いいけど、面白くないと思うよ?」
苦笑いで消印が言った。それでもいい、と押印は頷いた。
「まぁ、君はそこの椅子にでも座っててよ。」
「あなたは座らなくてもいいの?」
「今日はお客さんがいるからね。」
「じゃあ、お言葉に甘えることにする。」
押印は部屋に一つしかない椅子に座る。座り慣れた木の椅子の感覚に少し、ほっとした。久しぶりに人と話したから知らないうちに緊張していたらしい、と押印は息をつく。
消印は床に散乱する紙の束を避けて座った。押印の作った、赤いハンコだらけの紙を1枚とる。ウエストポーチから小さな砂消しを取り出してハンコを消し始める。ほんの少しずつ赤いハンコが白くなる。少しずつ消印の額に汗がにじむ。やっと1枚の紙に押された1つのハンコを消し終わって言った。
「見ていても面白くないでしょ?俺の仕事はこれをひたすら消していくだけ。」
消印が自嘲するようにわらった。
「その赤い紙、全部?」
「そう、全部。消したらまた束ねてあそこに置くだけ。」
そう言って積み上げられた紙の束を指す。
あぁ、わたしの仕事って、押印は考える。
「意味が、なかったんだなぁ。」
押印は、ただつぶやいた。
「誰がこの紙欲しいんだろう、と思ってたけど。ただ消されるだけなんて思ってなかったなぁ。」
押印は自分の感情が何なのか分からないまま消された紙を見る。
「君、このハンコを押すのが仕事?」
「うん、そう、だけどたった今わたしの仕事に意味がないことが分かった所。」
押印は頬杖をつきながら言う。
「毎日ハンコをひたすら押して、押して押して、押したところでその日のうちにあなたに消されるんだもん。消されなくてもなんの役にも立たない紙が出来上がるだけ。」
消印が作業の手を止めた。
「僕の仕事は君の押したハンコの跡をひたすら消すことだけど、まぁ、僕も君と同じで意味のない仕事だね。」
茶色の跳ねた髪の毛を気にしている様子で消印は言う。
「消さなくても害のない、消しても意味のない紙を毎日毎日消して、消して。まぁ赤いハンコで埋め尽くされた紙がたくさんあるのは少し怖いから消した方がいいかな、なんて思うこともあるけど。僕は一応君に感謝してるよ。この仕事が好きかって聞かれたら好きじゃないけど、君のおかげで僕は仕事にありつけてるわけだし、仕事がないのが一番つらいわけだし。」
消印はへへっと笑った。汗のかいた額を拭ってまた作業に取り掛かる。
押印は目を瞬かせる。口がぽかんと空いて少し間抜けな顔になった。
「…その発想はなかったなぁ。」
押印は消印の作業を見つめながら言った。
「ねぇ、明日も仕事見てもいい?」
読んでいただきありがとうございました。




