神話以前 外伝
神が生まれるよりも前の昔の話
私には名前は無かった。
私はただの紅だった。
私は蒼暗い帳の中に、淡い光を放つガラス球のように浮かぶ星と、そこに珍しくも生まれては消え、消えては生まれる命と言うものを見る、ただの紅だった。
「愛しい友よ。また、こんな所にいて。」
深い青い声がかけられる。
私はガラス球から目を転じ、眩しい光の波に思わず目を細めた。
それは、宴の席からの光で、そして愛しい友の放つ光でもあった。
「笑っているのかい。」
友は目を細めた私を勘違いしたのか、笑みを浮かべながらすいっと寄ってくると、温かい腕の中にすっぽりと私の体を収めてしまった。
「どうだろう。あの星が綺麗でね。」
友は私の頭の上からガラス球を見つめると、小さく息をこぼした。
「新しい、命が生まれるようだ。今までとはいっぷう変わった命のようだ。」
深く青い声色に、腕の中らかもがき顔を上げてみてみると、青い瞳がひたりと、ガラスの球を見据えていた。楽しむというよりも思案するような、その瞳の色に、思わず問いかける。
「何か憂いているのかい。」
すると、友は私の顔に視線を落とし、柔らかく微笑んで見せた。
「心配してくれるのか。だがお前が憂える必要はない。」
答えにならぬ応えに、私は苦笑する。
過保護で愛しい私を愛する大きな友。
愛し方を知らぬ友。
困ったやつだと口を開こうとすると、銀の鈴を振るような声が響いた。
「蒼の王は、新しい命の幼い知恵に憂えているのだよ。」
白とも銀ともつかぬ長い髪を揺蕩わせた月の人だ。
私の小さな命が、喜びに震える。
「蒼の王はまた、紅を独り占めしている。
私とて、愛する太陽と同じ紅を纏うその人をいとおしみたいのに。」
「何をいうか。太陽のぎらつく赤と、紅はまったく違うぞ。
紅は青を身に秘めたなんとも言えない紅なのだ。私の紅だ。」
友は月の人の視線から隠すように、あるいは私の視界をふさぐように、ぎゅっと私を腕の中に囲み込む。
少しくぐもった月の人の笑い声が、友の鼓動と重なって、なんとも耳に心地よく、私はうっとりと目を閉じた。
「蒼の王の語彙は乏しく、気の毒よ。
紅はな、涙の紅なのよ。
悲しみを飲み込み、優しさに変えて、われらを癒すための温かい涙の紅だ。
私は、だからお前の守護者でいようね。
ずっと、ずっとお前の守護者でいようね。」
月はころころと笑うと、友の腕の間から私を引っ張り出してしまう。
眩しいその人に、私は嬉しい。
焦がれる私を心を知りながら、私に微笑みかける月の人。
その残酷な優しさが、私はかなしく嬉しい。
「踊ろう。かわいい子。」
白い細い右手が私の左手をとりあげる。
すると、蒼の王の、堅くたくましい左手が私の右手を包み込む。
「そうだな。ここは冷える。愛しい友よ。踊ろうではないか。」
恋して愛して愛されて。
全てを手に入れ、何も手に入らぬ。
なんと愛しい時なのだろうか。
私は身に収まらぬ幸福に眩暈を感じた。
あぁ、これは昔話。
けれど、まぎれもない記憶。
記憶とは何のためにあるのだろうか。
過去とは何のために後ろに降り積もってゆくものなのだろうか。
それは、未来を生きるためかもしれぬ。
それは、変革に耐えるためかもしれぬ。
それは、幸福を知るためかもしれぬ。
そして、哀しむためなのかもしれぬ。
月に恋して、海に愛され。よせてはかえすように、恋と愛の間をたゆたい踊った。
過去に思いを馳せるとき、私は今を明日をより一層愛せるのかもしれぬ。
永遠に続くような幸福は、けれどガラス玉が割れるように、パシャリと壊れた。
友の憂えた変革によって。
神とは何であろうか。信仰とは何であろうか。
それは強い思いであり、祈りであり、願いであるのだろう。
だから、それが、哀しい変革だったとしても、私たちはそれを愛しんだのだろう。
踊りの日々は終わりを告げて、我々の知っている太陽が消えた。
新たに生まれた拙い命は、新たな太陽神が産み落とした。
白銀の月の人は哀しくなって、永遠の眠りにつき、遺骸だけを天上に張り付けていってしまった。
私の蒼の王は、来るさらなる変革のために、ガラス球の海へと自らを封じた。
私は、つまらぬ紅として、割れたガラス玉のかけらに、時折キラキラ過去が映るのを、ただぼんやりと眺めている。
「それで、主はなんなのじゃ。」
問いかけたのは、新しく生まれた女神。
美しいその人は、意味なく存在するつまらぬ紅が不思議なのだろう。
けれど、幼子の問いは時に哲学的だ。
その純粋な質問は私をひどく悩ませた。
私とは何か。そんなこと、考えたこともなかったから。
「蒼を秘めた紅であろうか。」
不敬なと、頬を強く張り飛ばされる。
どうやら口のきき方がよくなかったようだ。しかし、これ以外の話し方を私は知らぬ。
女神は綺麗な眉毛をわずかによせると、大きな椅子の片腕にしなだれるように寄りかかった。
「まぁ。よい。かわった存在よのう。蒼でもなく紅でもなく。力もなく、価値もないのに存在する。
主をどうすべきか、わらわは悩ましい。
でも、凡庸ではあるが美しくもある。
さて、そこのどっちつかず。
天上に残りたいか、地上へ墜ちたいか。汝に選ばせて進ぜよう。」
恋か愛か。選べというのか。
恋する月の人の遺骸のそばにいるのか。愛しい友のそばへゆくのか。
どちらも選べはしまい。
私はどりらも選びはしまい。
「地上へ、海へ。」
だから、私は口にする。
欲張りな私が選べる答えはただ一つ。
愛しい友の腕に抱かれながら、恋い焦がれる月の人を見上げていよう。
女神の赤い唇が弧を描いた。
「墜ちることを望むのか。」
私はゆっくりと笑み返す。
幼い子よ。愚かな子よ。
「よかろう。汝の望みをかなえよう。
その代り、これより、汝はわらわの目となるのだ。
海の王。あやつは未だに力を持っておる。あやつを見張るものが必要じゃ。
汝はこれより、その目となるのじゃ。」
私は、ただ一つ、頷いた。
見たいならば、見ればよい。私の目を通して。
悲しみと愛おしさと狂おしさに満ちた世界を。
愛と恋に満ちた、優しすぎる世界を。
そして私は海へと孵った。