龍彦誘拐事件
龍彦が小学6年生だった夏休みの終わり。
彼は、かなり暇を持て余していた。
夏休みの宿題は、龍介同様、最初の1週間で全て終わらせてしまう子供だった為、他の子が泣きながら宿題をやらねばならなくなると、遊び相手もいなくなってしまい、暇なのである。
買って貰った本も全て読んでしまったので、母に本屋に行って来ると言い残し、龍彦が家を出たのは、昼過ぎだった。
ところが帰って来ない。
1980年だから、携帯も無かったし、発信機なども大きくて着けさせては居なかった。
2時間しても帰って来ない段階で、母は当時、図書館で部隊長をしていた真行寺に連絡を入れた。
真行寺は、当時第1中隊長という、部隊長の直ぐ下の部下であった竜朗に相談すると同時に、佳吾が休暇で今日、帰国する事を思い出し、情報局に伝言を頼み、帰宅した。
帰宅した真行寺は龍彦の足取りを追った。
自宅から龍彦が行く商店街の本屋までの道には、格別怪しいタイヤ痕なども無かったが、商店街に入る手前の路地に、龍彦の自転車のホイールに棒切れが突っ込まれ、倒れているのを発見した。
そこは舗装されていない、土の残る路地だったので、真行寺は足跡を丹念に見た。
龍彦の小さなスニーカーは、29センチはある大きな靴の男と争っている跡が見られた。
そして、龍彦の足跡は消え、男の足跡が、真行寺が入って来た方向へ戻っている。
ー車に乗せたか…。
この道は、商店街に通じる道ではあるが、人通りもまばらで、車も殆ど通らない。
目撃者は期待できそうになかった。
真行寺はそのまま、商店街に向かって道路を観察しながら歩いて行った。
すると、見慣れた物を発見した。
龍彦のノートだ。
龍彦はこれをいつも持ち歩いていた。
ガンダムの表紙の、小さなそのノートは、何故か彼のスケッチブックだった。
絵が得意な彼は、しょっ中見かけた物をスケッチし、その腕前はなかなかの物なので、本物のスケッチブックを買ってやったのだが、スケッチブックを広げるのは照れ臭いのか、結局いつもガンダムノートに描いていた。
真行寺はノートを拾って、パラパラとめくった。
すると、最後のページに殴り書きで、車のナンバーと車種と色が書かれていた。
そしてもう一ページ。
誘拐された。
金目当て。
実行犯は1人。
アジトにもう1人居る。ケンと呼ばれてる。
仲間割れを誘ってみる。
真行寺は満面の笑みでノートを叩いた。
ー流石俺の息子だぜ!
真行寺は早速、竜朗に車のナンバーを知らせた。
その頃の龍彦は、龍介が小6の頃よりも、背は小さく、同学年の子に比べれば力は強かったものの、その頃の龍介に比べたら、遥かにか弱かった。
龍彦が自転車を走らせていると、棒切れを持った怪しげな大男が車から降りて来るのが見えた。
ーなんだ?なんか嫌な予感がするな。
龍彦はその男と車、それからナンバーを確認して、素早く通り過ぎようとしたが、男が龍彦の自転車のホイールに棒切れを刺そうとしたのを見て、咄嗟に自転車から飛び降りた。
龍彦は叫ぼうとした。
だが、男は素早く龍彦の口を塞いだ。
男の鳩尾に肘鉄を食らわせたが、男はちょっと痛そうな素振り見せただけで、全く力を緩めない。
男の急所を狙って蹴りも放ったが、逃げられる。
かなり粘ったが、男の力は相当なもので、龍彦は太刀打ち出来ない事を悟った。
ーこれは…、気絶したフリして、ネタをありったけ残して行くしかねえか…。
龍彦は口を抑えられていたのを利用して、気絶したフリをした。
男は龍彦を抱きかかえて、後部座席にそっと置いた。
焦っているのか、龍彦を拘束する事もせず、車を急いで出した。
龍彦は、急発進した揺れで座席から落ちたフリをし、男の死角に入ると、ジーンズのお尻のポケットからガンダムのノートと鉛筆を出し、車のナンバーと車種と色を書いた。
男は力も強く、身体も大きい様だが、どうも頭は足りない様だ。
何か1人でブツブツ言っている。
聞き耳を立てると、男はこう言っていた。
「ケンの言う通りにやった…。後はこの子連れて戻れば、ケンが電話して、金が入る…。」
ーケンとかいう奴に命令されて動いてんのか…。
でも、相当バカそうだな…。
こいつ、こっち側につかせりゃ、脱出は出来なくても、仲間割れは誘えて、時間稼ぎにはなるか…?
そして、真行寺が見つけたメモを書き、窓の外に放り投げた。
ー親父なら気付いてくれんだろ…。多分…。
アジトに着くと、大男は龍彦をそっと引っ張り出して、抱き上げ、家の中に入った。
住宅街の一軒家の様だが、そこかしこに色々な物が転がっていて、とても汚く、みすぼらしい家だ。
雑草も生い茂り、家の裏には竹林がある。
右隣は何かの工場の様で、大きな音を立てており、河原崎工業と書いてある。
左隣は裏の竹林がそのまま繋がっている様だ。
ー高速乗ってたよな…。降りたのは府中だったよな…。
「殺しちまったんじゃねえだろうな!?」
ケンという男がタバコをくわえたまま叫んだ。
「えっ!?」
大男は、その段になって、漸く龍彦の安否に頭が回った様で、龍彦をソファーに寝かせると、龍彦の頬をペチペチと叩いた。
「痛え。」
目を開けるなり、ギロリと睨むと、大男はそれだけでも居竦んだ。
ー気がちっちゃいんだなー!
内心驚きながらケンという男を見ると、縄を持って、龍彦の両手両足を縛り、ニヤニヤしながら名前を聞いた。
「真行寺龍彦。」
「よしよし。あの立派なお屋敷のガキだろ?」
「そうだけど。」
立派なお屋敷なのは、先祖代々の家に住んでいるからなだけであって、金持ちなわけではないのだが、そこまで調べず、あんな凄い家に住んでいるのだから、金持ちなんだろうと思って身代金目当ての誘拐をしたらしい。
ーなんつー短絡的な…。
親父が何してるかとか調べねえのかよ。
表向き図書館司書だぜ。
纏まった金なんかあるわけねえだろ。
ケンは龍彦に電話番号を聞いた。
ーんな事も調べてないの!?
こいつら何考えて犯罪犯してんの!?
もうちょっと上手くやれるだろうに!
教えてやろうか!?
いやいや、それはまずいな。
まずは、突入前に脱出しといてやったほうが、親父達も突入しやすいだろう。
そしてケンは電話をかける。
既に逆探知の機械は付けているはずだし、車から住所や氏名も割り出されているはずだ。
真行寺が電話に出た。
「息子を預かった。返して欲しかったら、2000万円用意しろ。警察に連絡したら、命は無えからな。」
「龍彦は無事なんだろうな!?声を聞かせてくれ!」
ケンは龍彦に受話器を押し付けた。
「ちょっと。この手の縄、解いてくんない?あんたの当て方悪くて、耳に当たってないよ。」
「うるせえガキだな。」
しかし、ケンもバカらしい。
言われるまま縄を解いた。
ーちょっとは時間稼ぎになったな。お次は…。
「龍彦!無事か!乱暴されていないか!?」
「今のところ大丈夫だよ。お父さん…。」
「ーん?なんだ?」
ーキャラ変えか?龍彦…。仲間割れ誘うっつってたもんな。なるほど…。
「僕のガンダムのノート…。」
ー僕!?5歳以来聞いてねえぞ!
真行寺は心の中で笑い出しそうなりながらも、必死に龍彦の演技に乗った。
「大丈夫だよ。お父さんが預かってる。」
「あれ大事な物だから、失くさないでね。」
「ああ。分かってる。」
「お父さん、それから、ポチの家の周りなんだけど。」
真行寺家では犬は飼って居ないので、当然犬小屋は無い。
これはアジトの話だと、真行寺と、側で聞いていた竜朗と佳吾は感じ取り、メモの用意をした。
「うん。」
「今日掃除しようと思ったんだけど、そのままでごめんね。
草ぼうぼうでさ。
でも、あそこ場所変えたほうがいいと思うんだ。
横と後ろに竹林があるから、蚊が凄いし、すぐ隣は工場みたいな大きな音出す河原崎さんの家だから、ポチ、落ち着かないみたいだしさ。」
「そうだな。犬小屋の場所は変えてあげよう。」
「お願いします。」
ケンが電話をもぎ取った。
「元気いっぱいなのは分かったろ?2000万だ。場所はまた知らせる。」
「ちゃんと食べさせてくれよ!?」
「分かってるよ!じゃあな!」
電話を切ると、ケンは龍彦のポケットを弄った。
ポケットには鉛筆と、本を買う為、母に貰って来た二千円しか入っていないが、その二千円を取ると、ケンは自分の作業ズボンにしまった。
「飯買って来る。ブン、飯炊いとけ。」
ー飯代にも事欠いてんのかよ…。何やってんだか、大人のくせに…。
龍彦は電話をかけてからの時間を計っていた。
ー逆探知ギリギリかな。まあ、車のナンバーがあるから、親父達は夕方には来てくれるかな?
ケンが行ってしまうと、龍彦はブンと呼ばれた大男を見つめた。
「これ、解いてくれませんか。なんか痛い。」
足のロープを指差す。
「だ、ダメだよ…。ケンに怒られる…。」
「そのケンさんですけど、どんなお知り合いなんですか。」
「え…えっと…。ガキの時からの友達…。」
「ずっと、ブンさんはケンさんの言う通りにしてるの?」
「だって、いっつもケンの言う通りにしてれば上手く行くから…。」
「今回も上手く行く?」
「行くよ!だって、ケンだもん!」
「でも、あの人、相当お金に困ってるでしょう?ここは誰の家なんですか。」
「俺の家。親が死んで、1人だからって、ケンが一緒に住んでくれた。」
「車は?」
「俺の…。まあ、親父の形見だけど…。」
「ケンさんは、ブンさんの物ばっかり使ってるんですね。ケンさんがブンさんに貸してくれてる物ってあります?」
ブンは押し黙って、考え込み始めた。
「ー無い…。無いけど、ケンは友達だから…!」
「友達…。命令して従わせるのが友達?」
ブンは黙り込むと、頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
「ケンさん、僕のお金まで持って行った。すごくお金に困ってるんでしょう?」
「ーうん…。ヤクザみてえなのに借金しちゃったんだってさ…。だから、早く2000万返さないと、殺されちゃうって…。」
「2000万。僕の身代金と同じ額だ。つまり、ブンさんには一銭も入らない。」
ブンはバッと顔を上げ、龍彦を必死な顔で見つめた。
「い、いいんだ、俺は!ケンの命が助かるなら、金なんか要らない!植木屋の仕事で十分食って行けるもん!」
「ブンさん、それで済むならいいです。
でも、身代金誘拐っていうのは、とてもリスクが高いんだ。
犯人で捕まって居ない奴は居ない。
金の受け渡しで、どうしても足がつき、捕まるんです。
その時、ケンさんがあなたに罪を全部擦りつけたらどうなりますか。」
「ケンはそんな事しない!」
「本当に?今まで一度もケンさんに裏切られたり、逃げられた事はない?」
龍彦は賭けに出ていた。
この単細胞の大男ブンは、気が小さいが故に、パニックになって、怒り狂って、自分より弱い龍彦をぶちのめす可能性もあった。
しかし、龍彦はもう一つの可能性に賭けていた。
ブンという男は、優しいのだ。
龍彦を後部座席に入れる時も、抱き上げる時も、ソファーに寝かせる時も、とても丁寧だったし、誘拐する時も、決して殴る事はしなかった。
そして、得てして、優しいが、頭の回転の鈍いこのタイプが、ケンの様な小賢しい小者タイプとつるんだ時、常に損な役回りをさせられている事も、級友達を見て、知っている。
ブンはいつも、ピンチというと、ケンに逃げられ、罪をなすりつけられ、代わりに大人に怒られるという事が多々あったはずだ。
そして、ケンはその後、謝りながらブンに過剰に優しくする。
そうする事で、孤独だったのであろうブンは救われた気分になり、ケンと離れられなくなる、そんな見慣れた図式が見て取れたのである。
ブンは頭を抱えたまま泣き出した。
そして子供の龍彦相手に告白を始めた。
「そうなんだ…。いっつもそうだった…。
野球やってて、植木鉢割ったり、ガラス割ったりすると、ケンは先に逃げちゃって、俺に謝っといてくれって…。
俺が叱られて戻ると、優しくしてくれて、絶対くれなかったベーゴマくれたり、メンコくれたりしてさ、ごめんなって…。
だからケンて優しいって思ってたから、これ位ってずっと思って来た…。」
「それは全部、ケンさんの作戦なんですよ。ブンさんを意のままに操る為のね。」
「そ、そしたら、俺、どうなっちゃうの!?どうしたらいいの!?」
「僕が思うに、2000万という借金の額と身代金の額が同じという事は、まずブンさんの分け前は無い。
まあ、それはいいとしても、多分、ケンさんは、身代金の受け渡しには、ブンさんを行かせる。
ブンさんが逃亡に失敗したら、自分は逃げる為です。」
「じゃあ、ケンが身代金取りに行けって言ったら…?」
「ブンさんは捨て駒と考えているという事でしょう。」
「そんな…。そしたら、俺、どうしたらいい…。」
「そしたら、僕を連れて逃げて下さい。
僕から、この人は騙されてた、だから助けてくれたって、警察に言ってあげますから。
僕を助け出す事で、ブンさんの罪は相当軽くなるはずです。
上手く行けば、お咎め無しかも。」
「本当に!?分かった!でも、君、本当に頭いいんだなあ。凄いなあ。」
ーあんたが頭使わなさ過ぎなんだって…。ま、いっちょ上がりだな。
ブンが縄を解いてくれたところで、ケンが帰って来た。
「ブン、飯炊いてねえのかよ。さっさと炊け。カレー買って来たんだから。」
そして、龍彦の足の縄を見る。
「何解いてんだよ!」
「だ、だって、この子、いい子だよ。勝手に逃げたりしないし、痛いって。可哀想だよ。」
「逃げませんから…。」
涙目になり、ブンの後ろに隠れて震える…フリ。
「ほら、ね?脅さないで。」
ブンにとって、可愛い、庇わねばならない対象でいる作戦も同時に取る。
自分の身をケンから守る為だ。
「そうだ。公衆電話から電話して来た。
明日の朝5時。あそこのデカイ公園の門の前だ。
ブン、行って来い。車でさ。
そんで受け取ったら、こいつ池にでも落として、相手が慌ててる最中に速攻で逃げるんだ。
いい作戦だろ?」
ブンは悲しそうな目をすると、龍彦を見た。
「殺せなんて言ってねえよ。夏場に池に落とした位じゃ死なねえから大丈夫だって。」
龍彦はこくりと頷いた。
ブンもやはり龍彦の言う通りかと、納得した様子で、ケンを見据えた。
「それで…ケンは何してるんだよ、その間…。」
ブンの目が怒りを帯び始めた。
「何って…。お前との待ち合わせ場所で待ってるに決まってんだろ?」
「それってどこだよ。」
「えーっと、ほら。この間バイクで奥多摩行ったじゃねえか。あそこらへんまで逃げられれば大丈夫だろ。そこで待ってるからさ。」
「なんでケンが金受け取らないんだよ。その方が早いじゃないか。」
「そりゃ、お前、アレだよ…。お前の分け前をさ…渡してえからに決まってんじゃん。俺がそのまま逃げて、借金返しちまったら、お前に渡す暇無えだろ。」
全く筋が通っていないが、必死になって言っている。
「いいよ、それで。ケンがやりなよ。」
ケンは、ブンの初めて反抗に、初めの内は宥める作戦に出ていたが、その内、思い通りに行かない事に苛立ち、怒り始めた。
「お前は俺の言う通りにしてりゃいいんだよ!バカのくせに!俺しかダチも居ねえくせに!」
ケンはまた出て行ってしまった。
「またパチンコとか、競馬だよ。それで借金まみれなんだ。」
ケンが買って来たのは、レトルトカレー3つだけだ。
二千円持って行って、これしか買って来ないのだから、少なくとも千円以上はまだ持っているのだろうから、その少ない額で遊んで来るのか、また借金を作るのか、というところだろう。
「ブンさん、元気出して…。あなた優しい人だから、ケンさんと付き合いやめれば、他のちゃんとした友達が出来るよ。」
「そうだね…。龍彦の言った通りだったよ…。ケンは俺を利用してるだけなんだ…。ずっと…。」
龍彦はブンが落ち着くまで待つと言った。
「じゃあ、ブンさんの罪が軽くなる様に、ケンさんがちゃんと捕まる様に、これから僕の言う事聞いてくれる?」
「うん。龍彦を助けたい。ケンの奴、龍彦に何するか危ないもんな。それに、あんな奴、牢屋に入った方がいいんだ!」
ーよーし。作戦開始だ。
龍彦は心の中でニヤリと不敵に笑い、表面上は天使の微笑みと、慣れない事をやっていた。
ーつ…疲れる…。このキャラ厳しい…。