龍介の不機嫌の行方
新学期が始まって、始めての音楽があったその日の龍介は、尋常でなく機嫌が悪かった。
いつも通りの5人一緒の帰り道でも、受け答えは普通にはするものの、例の怒っている時の指標である、こめかみの青筋が立ちっ放しで、恐ろしくて、亀一でさえ話し掛けられない。
駅からの帰り道、一人抜け、2人抜け、寅彦は、龍介と2人きりの息詰まる加納家への道程が永遠の如く長く感じられた。
2人の帰宅で、お帰りと顔を出した竜朗が、龍介のあまりの形相に逆に笑いだしてしまった。
「どうしたんだい、龍は。んな怒った顔して帰って来て。朱雀が居たら泣いちまうぞ。」
「俺だって泣きたいですよ。」
「そうだよなあ、亀一と別れたら、2人っきりだもんなあ。どうした?ん?」
龍介をソファーの隣に座らせ、いつもの様に肩を抱いて話を聞こうとすると、龍介のこめかみの青筋が更に増え、漸く話し始めた。
「音楽の先生がさ、産休で2学期から変わったんだよ。」
「ああ、手紙にそう書いてあったな。嫌な奴なのかい。」
更に3本に増える青筋。
もう寅彦は早々に部屋に逃げ込んでいる。
「嫌なんてもんじゃねえ…。俺の音痴がどうしようもねえっつーのは、前の先生から聞いてるから、歌わなくていいけど、独演をやれっつーんだよ。」
「独演?チェロのかい?」
「そう…。今までみたいに伴奏じゃダメなんですかって言ったけど、駄目だって言う。」
「なんだい、そりゃ。虐めかい。」
「俺もそう思って、虐めてるつもりなら、こっちもそれ相応の対応をさせて頂きますっつったら、なんて言ったと思う?あのクソババア。」
オヤツを持って来たしずかがギロリと龍介を睨み付けた。
「龍、女の人をクソババアなんて言ったらいけません。」
「だってクソババアなんだよ。
50過ぎてんのに独身で、そのくせ全身ピンク尽くめで、直ぐ金切声上げて怒るんだぜ?
それなのに、俺とかきいっちゃんとか寅には、妙な猫撫で声出して、身体くねらせて近付いてくんだぜ?
瑠璃とか鸞ちゃんには異様に冷てえしさあ。」
「はあ、成る程。3人は顔が整ってるからか。それはクソババアね。言って良し。」
「だろ?」
竜朗も頷きながら、先を促した。
「そんでそのオールドミスは何て言ったんだい。」
「オールド…ミス…?年老いて失敗してる人って事?」
竜朗もしずかも笑い出した。
「今の子知らないのね、そんな言葉。ミスは未婚女性の方の意味よ。年増の独身女性で、ヒステリーな方をそういう風に悪口言うの。」
「ああ、成る程。」
「ん。そういう事だ。そんで?」
2人と話していて、少し収まって来た青筋を再び一気に増やしながら答える龍介。
「『加納君は見た目もとっても素敵だからに決まってるじゃなーい?それに、チェロの腕前は素晴らしいし、才能があるんだから、みんな喜ぶわ。是非お願い。曲目はそうねえ。バッハの無伴奏組曲1番でお願いね?弾けるでしょう?』ってさあ。」
「弾けるじゃねえか。そんで龍の怒り所はどこだい。そのしな作って気色悪く迫って来るオバハンの言うなりになってやるのが嫌ってとこかい?」
「その通り。なんで俺が見世物みたくならなきゃなんねえんだよ。音痴だからってさあ。」
しずかが何か思い付いた様子で龍介の膝を叩いた。
「やってやんなさいよ。」
「やだよ。」
「そうでなくて。チェロでロック弾くのよ。
イギリスで、龍彦さんと見つけて、今どハマりしてる2人組の男性ユニットが居るの。
2cellosって言うんだけど、日本でも秋にCDが発売されるはずよ。
それやっちゃって、度肝を抜かしてやんのよ。そのクソババアの。」
龍介がニヤリと笑った。
「ベタベタのクラッシックの筈が、ロック…。それいいな。聴かせて。」
「ん。ちょっとお待ち。」
しずかは2階の寝室に駆け上がり、CDを手に降りて来ると、リビングのステレオで大音量でかけ出した。
マイケルジャクソンのスムースクリミナルが流れ出し、龍介のこめかみの青筋は消え去った。
しかし、竜朗が心配顔になった。
「こりゃ確かにカッコイイし、いい感じだけどよ。
2人要るだろ。
いくら龍が上手くたって、2人分は無理だ。
たっちゃんにやらせる訳にも行かねえし、相方はどうすんだい。」
「ー策はあるぜ、爺ちゃん。」
ニヤリと笑うと、ポチの散歩を兼ねて、CDを持って、何処かへ出掛けてしまった。
亀一は泣き出しそうな困り果てた顔で、自宅のリビングのソファーで腕組みをして、目を閉じて黙り込んでいた。
目の前には龍介と優子と拓也、それにポチまで座り、じっと亀一を見つめている。
長岡家のリビングにも、大音量で2cellosが流れている。
「お兄ちゃん、受けてあげなよ。龍さんにはいつもなんだかんだで助けて貰ってるじゃないか。こういう時に恩返ししないでどうすんの?」
「そうよ、亀一。親友の危機には万難を排して臨むべしよ。」
「危機って…。あのクソババアは確かに俺も嫌いだし、ギャフンと言わせるのは吝かでないが…。」
龍介は亀一に一緒に演奏してくれと持ちかけて来たのだった。
実は亀一は小学校5年までは、龍介と一緒にチェロを習いに行っていた。
だが、面倒になって辞めてしまった。
もうそれからずっとチェロには触っていないし、こんな、いかにも難しそうな演奏、到底自信が無かった。
ロックにしているからと言って、適当にやっているのでは全く無い。
寧ろ、しっかりした技術に裏打ちされた演奏だ。
それを、チェロの先生が『音大に行ってプロになれ。』と絶賛する龍介が挑戦するのは未だしも、才能が抜きんでてあるわけでも無い亀一が出来るのか。
亀一としては、甚だ疑問でもあり、不安でもある。
龍介が優子のブラウスの袖を引っ張って、小声で言った。
「優子さん、お願い。どうしてもやってみたいんだ。ギャフンと言わせるだけでなく、俺、これ弾いてみたい…。」
うるうるうる…。
別に作戦では無いのだが、母性愛の深い優子にこの目はかなりのズッキュン効果をもたらす。
それに、なんと言っても、そういう時の龍介は物凄く可愛いのだ。
「任せて頂戴。策はあるわ。」
優子も小声で返事をすると、亀一の膝に手を置いた。
「音楽祭、栞ちゃん来るんでしょ?勉強だけでなく、カッコイイ所見せたくないの?」
亀一の肩がビクッと動き、目を開けた。
確かに、これが弾けたら、凄まじい格好良さである。
瞬時に亀一の脳内を駆け巡る様々な妄想。
栞のうっとりとした笑顔が目に浮かぶ。
『きいっちゃん、すっごく素敵。』
『きいっちゃんの彼女で良かったわ。』
『龍ちゃんよりかっこ良かったわ!』
妄想の真っ只中に居る亀一の決断は早かった。
やおら立ち上がり、宣言の様に言い放った。
「龍!やってやろうじゃねえか!
拓也!物置から俺のチェロ出して来い!
これから毎日特訓だ!いいな、龍!」
龍介と優子は密かにハイタッチし、拓也とポチまで加わっている事に、亀一は気付かない。
なぜなら彼は、今後の壮絶な猛特訓を考える事なく、只管成功した時の栞との会話を妄想していたからだった…。