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◆◆◆
「コレット、急げ!」
「わかってる!」
畑に向かって、私たちは走った。
「急がないと、火が広がるぞ!」
みんなまだ畑のことに気づいていないのか、夜道は誰もいなかった。農園のひとつひとつの間隔がとても広いこともあるし、なにより農家の朝は早い。陽が暮れると、みんな早々と眠りについてしまう。きっと、焦げ臭い煙のにおいに気づいて、ようやくこの火事に気付くのだろう。
走れば走るほど、燃え盛る炎がどこからあがっているかわかる。嫌な予感が現実に変わっていって、私は走る足に力をこめた。
今まで起きていた野火は、みんなただの草むらだったというのに。今回の炎は、間違いなく、りんご畑からあがっていた。
幸い、まだ大きく広がってはいない。ただ、一つの木がまるまる炎に包まれてしまっている。畑の一番端にあり、なにより風下にあるからこそ、まだどこにも燃え移っていないのが幸いだった。
息が上がって、のどから鉄の味がする。それでも私は、走り続ける。先を走るノイが何度も振り返って、そのたびに私は「いいから先に行って」と叫んだ。
苦し紛れに見上げた空は、あいかわらずぽっかりと月が浮かんでいる。その満月が私たちのことを嘲笑っているように見えて、私は悔しくて涙が浮かんだ。
月は人を惑わす。
ノイの言葉が、胸に突き刺さる。
これは野火なんかじゃない。きっといままでのもみんな、野火ではなかった。
誰かが意図的に、火を放っていたのだ。
息も絶え絶えになって、ようやくりんご畑にたどりついて。私はそのまま、その場に崩れ落ちてしまった。
「コレット、大丈夫か」
肩で息をしながら、ノイが私に立ち上がるよう腕を引いてくれる。けれど私は足に力が入らなくて、ただただ炎をまとい続けるりんごの木を見上げることしかできなかった。
小さいころから、ずっと、そばにあったりんごの木。毎日まいにち両親と一緒に手入れして、大切に大切に育てたりんごの木。
それが、燃えている。
「――ニール!」
りんご畑の中、マッチを持って立ち尽くす少年に、私は叫んだ。
「なにやってるのよ……!」
火をつけたのは、ニールだった。
「姉ちゃん……」
弱々しい声で、弟が私を呼ぶ。手にはマッチを持ったまま、足もとにある瓶には油が入っているに違いない。もう一本の木に火をつけようとしていたところだったらしく、その木に撒かれた油のにおいがする。私たちが走ってきたことに気づき、けれど逃げもせず、彼は茫然とした表情で息を切らす私たちのことを見つめていた。
ニールの身体に巻きつく蛇が、さらに大きくなっていた。
「姉ちゃん、僕……」
蛇は、マッチを持つニールの腕に絡みついている。その黒い鎌首が、彼の手に噛みつき、マッチを持つ手をあやつっているようだった。
「りんご畑が、なくなればいいと思ったんだ」
マッチを握りしめて、ニールは言った。
「りんご畑がなくなれば、僕はこの家を継がなくていいと思ったんだ」
蛇が、マッチをつけさせようと、ニールの手にさらに深く牙を差し込む。彼の目には、いまだ蛇の姿は見えていない。痛みでふるえているのか、緊張でふるえているのか、その手で彼はまたマッチをこする。
「ニール、やめろ!」
ノイが、ニールに叫ぶ。動けない私にかわって、ノイは燃えさかる炎を消そうとしてくれていた。けれど近くに水はなく、油のせいで火の勢いはとても強い。ノイが脱いだ服でどんなに叩いても、無駄だと言わんばかりに炎は隣の木へと手を伸ばしつつあった。
「りんご畑なんてなくなればいいんだ」
「どうして、そんなこと言うの?」
やっとの思いで立ち上がり、私はニールに歩み寄る。彼は後ずさりながら、なかなかつかないマッチを何度もこする。焦っているのか、マッチは不発を繰り返すばかりだった。
「そうしたら、僕はこの畑を継がなくてよくなるから」
力をこめるあまり、マッチが折れた。ニールは慌てて、新しいマッチの箱をポケットから取り出す。もう片方のポケットがいびつに歪んでいて、その中にはきっと油の瓶が入っているのだろうと思われた。
「僕は、家なんて継ぎたくないんだ」
「だからって、こんなことをしたの?」
「この畑がなくなればいいと思ったんだ!」
威嚇するように、蛇が大きな口を開けて私を見た。それはまるで、蛇がニールのことを守っているようだった。
小さな目が、私に向かって鋭い牙をてらてらと光らせ威嚇する。炎で明るく照らされた、その小さな目が激しくにらみつけてきて、その威圧感に私は思わずひるんでしまった。
その瞳は、すみれ色をしていた。
「姉ちゃんに、僕の気持ちはわからない! 毎日診療所に行って、好きなところに行って好きなことができる姉ちゃんに、僕のことわかるわけがない!」
「ニール……」
ようやく私は、ニールの持つ蛇の意味に気づくことができた。
この蛇はきっと、『創世記』の蛇だ。
天界に住むアダムとイヴに、りんごを食べるようそそのかした蛇。神様に食べてはいけないと言われていたりんごを、食べたがっていたふたりに、食べてしまえとささやいた蛇。りんごを食べさせ、人間に知恵を与えた蛇。
りんごを食べたがる、ふたりの欲望を、あおった蛇。
今ニールに絡みついているのは、まぎれもなく、ニール自身の『欲望』だった。
その欲望が、マッチに火をつける。
「この畑さえ、なくなれば……!」
「――ばか!」
気づけば私は、その顔を力いっぱい平手打ちしていた。
蛇に気圧されて言うことを聞かなかったはずの脚が、ふいに動くようになった。そしてそのままニールにつめ寄り、私は力いっぱい、弟の身体が吹っ飛ぶほどに頬を叩いていた。
「そんなこと、畑がなくなったって、変わることじゃないじゃない!」
そんな簡単なことが分からなくなってしまうほど、ニールは欲望にとらわれてしまっていた。日増しに大きくなっていく蛇が、仕事を手伝いたくないと思えば腰に巻き付き、仮病を使いたいと思えば頭に巻き付いた。そして、畑がなくなればいいと思えば、手に巻き付き火をつけさせた。
「いいから、火を消すわよ! 手伝いなさい!」
地面に落ちたマッチの火を、私は靴でふみつけて消す。そして、燃え盛る炎と戦っているノイに駆け寄る。ニールはただ茫然と、叩かれた頬をおさえて座り込んでいた。
「ノイ、どうしたらいい?」
「この木はもうだめだ。水をかけても間に合わない。とにかく、燃え移らないようにしないと……!」
誰かを呼びに行く時間なんてない。今にも、枝を伝って隣の木に火が移ってしまいそうだ。ノイは身体を煤だらけにしながら、火の粉が飛んで燃え移りそうなものを片っ端から離していた。
燃え移りそうな木に、私は梯子なしでよじのぼる。スカートが引っ掛かって破れたけど、そんなのどうでもいい。葉先をちろちろとあぶられている枝に飛び移り、全体重をかけてみたけれど、剪定で正しく見極めて残した枝は強くたくましくびくともしなかった。
「だめだ、折れない……!」
火が燃え移ってしまうなら、その枝を折ってしまえばいい。そう思ったのだけど、それもできそうにない。
「ニール、座ってないで、手伝いなさい!」
私の叫びに、座り込んでいたニールがようやく顔をあげる。けれど腰が抜けてしまったのか、ただただ見上げているだけ。言葉も出ないのか、ぱくぱくと唇を動かすだけ。
「……ニール?」
そして私は、木が燃えるのとはまた違う、嫌な臭いに気が付いた。
ニールの唇の動きが、何度も、同じことをうったえている。目を凝らしてそれを読み取り、私は彼のまわりを広がっていく液体に血の気が引いていくのを感じた。
――あぶらが。
ニールの唇は、そう動いていた。
倒れた拍子に、ポケットの中の油の瓶が漏れ出してしまっていた。そしてそれが、地面に染み広がっていく。ニールの下半身も油で汚れ、その恐怖で彼は動けずにいたのだった。
飛び散る火の粉が、油に引火すれば、ニールの身体は炎に包まれてしまう。
「ノイ、大変! 油が!」
枝から飛び降りながら、私は叫んだ。
「ニールが!」
猫のように身体をまるめて、私は地面に着地する。気持ちは急いでいるのに、なぜかすべてがゆっくり動いているように見えてしまう。ようやく油の存在に気づいたノイがニールのもとへと走るけど、降りそそぐ火の粉には間に合いそうにない。私はなかば這うように、ニールへとかけよった。
「――姉ちゃん!」
そう叫ぶ彼の目の前で、火の粉を浴びた草むらが火の手をあげる。
「ニール!」
なりふりかまわず、私は弟の身体を抱きしめた。