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○
「すっかり暗くなっちゃったな。遅くまでつきあわせちゃってごめん」
診療所は相変わらずの閑古鳥。けれど今日は、私は遅くまで診療所に残っていた。
私はずっと、診療所中の本をかき集めてノイの蛇について調べていた。けれど、その答えを見つけることはできなかった。
ノイもノイでなにやらせっせと薬を作ったり勉強したりを繰り返していて、そのうち疲れたのかそのまま眠り込んでしまった。つまり私は、昼寝をしてしまったノイが目を覚ますまで、ずっと診療所でなんの収穫もない時間を過ごしていただけだった。
「親が心配するだろ、送ってくよ」
「ありがとう。でも、もうちょっとここにいていい?」
夜の診療所のバルコニーの上に、私ははじめて立っていた。
ちょうど、満月の日だった。ぽっかりと夜空に浮かぶそのまんまるな月の光が、見慣れた景色をまた違うものへと変えている。その光景があまりにも綺麗で、私はバルコニーの手すりに身体を預けたまま動けなくなってしまっていた。
「夜の町も綺麗だろ」
「うん。見れて良かった」
月夜の町は、まるで海のようだった。
りんご畑も小麦畑も、みんな色を消し、深い夜空の色に染まっている。それを月明りが照らし、風が吹けば草木が揺れる。こずえの音があいまって、まるでさざ波のように水のない海がどこまでも広がっていた。
「ずるい。ノイったら、こんな綺麗なものずっと隠してたのね」
「コレットにばれたら、毎日なんだかんだ理由づけして遅くまで残ってただろ」
ずばり指摘されて、私は否定の言葉が出てこない。陽が落ちて冷えてきた空気が、身体を舐めとっていくように風をおこし、私は無意識に腕をさすっていた。
「寒いか?」
「ちょっと。でも、中には入りたくない」
「風邪でもひかれたら、おれがコレットの親に怒られるんだけどな……」
そうつぶやきながら、ノイが白衣を羽織らせてくれる。てっきり首根っこをつかまれて診療所の中に引き戻されると思っていたので、私はその意外な行動に、隣に並んだ彼の顔を見上げた。
「……ノイ、目が」
「夜はいつもこうなるんだ」
いつも燦々と輝いていた彼の瞳が、夜になると、まるで暖炉の中でくすぶる薪のようにその光をこもらせていた。
昼間は照り付けるような太陽。でも、夜になると火をつけた炭のように赤黒く光っている。その変化に見上げた目を離せない私に、ノイが苦笑しながらまぶたを閉じた。
「こわいか?」
「ううん」
そう答えると、ノイがまた瞳を見せる。それは夜闇で獲物を狙う獣たちの瞳にも見えて、私はその鋭さに、背筋がぞくりとふるえた。
「夜は苦手なんだ。今はこうでも、ちょっと気を抜いたらあっという間に燃え上がる」
まぶたをこすりながら、ノイが言う。いつも彼のまなざしから伝わってくるはずのあたたかさが、今はない。診療所で診察してくれる彼とは別人のようで、こわくないと言えば嘘だった。
「満月の夜は、子どもがよく生まれる。満月の夜に収穫した作物もおいしいという。でも満月の夜は、痴呆の人たちがよく徘徊する日でもある。死者が目を覚ます夜でもある」
私をわざと怖がらせようとしているのか、ノイがおばけのように手を顔のそばに寄せるしぐさをしてみせる。けれど彼がその手に持っていたものは、どう見てもお化けには不釣り合いなものだった。
「せっかくだし、ここでこれ食べちゃうか」
ノイは片手に、今朝ニールからもらった紙袋を持っていた。
朝ごはんにと作ってくれたサンドイッチは、診療所を開ける前にふたりで食べた。もう一つはあとでゆっくり食べようと思って残しておいて、それぞれなんだかんだ作業しているうちにそのまま夜になってしまったのだった。
「ずっといいにおいがして、気になってたんだよ」
紙袋を開け、ノイは中身を確認する。そしておもむろに手を突っ込み、彼が取り出したのは手に持って食べやすいよう一つ一つ包み焼きされたパイだった。
「さすが、ニール」
さらにひとつひとつに紙が巻いてあって、仕事中でもすぐ食べられるようになっている。中身が飛び出ないよう表面に小さな切れ込みがいれてあるだけで、いったい中がどうなっているのかわからないけど、ニールなりにいろいろ工夫して作ってくれたのだとすぐに分かる差し入れだった。
「いただきます」
言うやいなや、ノイがパイにかぶりつく。時間がたって冷めてしまっても、パイは相変わらずサクサクのままだった。
「ほんとおれ、このパイ好きなんだ。軽くて口当たりもよくてさ、これも生地から自分で作ってるんだろ?」
「うん、そうみたい。私はパイ作るの苦手なんだよね。すぐバターが溶けちゃうの」
「おれはそもそもかたまったバターを一瞬しか見たことない」
そう苦々しげに、ノイがつぶやく。確かに彼の瞳なら、バターもすぐにやわらかくなってしまうに違いない。パンに塗ろうとバターナイフを持って、あっという間に溶けていくのを呆然と見つめる。そんなノイの姿を想像して、私は思わず笑ってしまった。
「笑うなよ。けっこう悩んでるんだぞ」
「だって、なんか面白くて」
上手にパイ生地を作るためには、手の温度でバターが溶けてしまわないよう手早く作業しないといけない。けれど、私はどうも要領がつかめていないのかすぐにドロドロにしてしまう。ノイはまずそれ以前の問題だった。
いただきます、と大きな口で一口かじり。ノイは一瞬、口の動きを止めた。
「……アップルパイだと思ったら、違う。これミートパイか」
「私のはグラタンだったよ?」
パイの中身がそれぞれ違うようで、私たちはお互い顔を見合わせる。この様子だと、紙袋に入っているのはどれも違う種類なのかもしれない。ひとり台所に立ち、手間のかかる料理を作るニールの姿を思い浮かべて、私たちは残さずすべて食べようとうなずきあった。
「ニールはどうしても家にこもりがちだったから、料理をするのが好きだったのよね。ほんと、どれもおいしい」
二つ目をかじれば、中はいつものアップルパイ。塩気のあるものの次に甘いものがきて、口の中がちょうどいい。アップルパイが好きなノイが中身に気づいて覗きこんできて、私に断りもなく大きな口でかぶりついた。
「うん、うまい」
ひとくちで、かなりの量を食べられてしまった。私がそれに抗議の目を向けると、彼は「ごめん」と言いながら新しいパイを取り出す。そしてまだ口の中でもごもごさせたまま、私に先に食べるようにと口もとに差し出した。
お茶でも持ってこようかな。そんなことを思いながら、私はパイをかじる。こうしてふたりでバルコニーで食べていると、なんだか夜にピクニックをしているようで楽しかった。
「……これ」
「ん?」
口もとをおさえた私に、ノイが不思議そうに首をかしげる。そして口の中のものを飲み込むと、彼もまた、その新しいパイを食べた。
「マーマレードか」
「きっと、私の木の夏みかんよ」
あの木の夏みかんは、どんなに熟れても酸味が強くて、そのままでは食べることができない。シロップ漬けやジュースなど加工をすれば食べられるのだけど、その中でも作るのに手間がかかるのがマーマレードだった。
皮と実を選り分けて、皮を刻んで水につけて、薄皮と種でペクチン液を作ってと、下ごしらえをするのにまずとても時間がかかる。何度か母と一緒に作ったことがあるけど、私は一番長く台所に縛り付けられる、皮と実を煮詰める作業が苦手だった。正直なところ、ノイが夏みかんを買い取りたいと申し出てくれた時、これでマーマレードを作らなくていいと思ったのだった。
「そっか、ニールが作ってくれてたんだ……」
収穫する夏みかんはすっかりノイの薬の材料になっていたから、マーマレードを食べるのはほんとうに久しぶりだった。たっぷりの砂糖で煮詰めた皮の、ほろ苦い甘さが心地よい、すこし大人の味のマーマレード。これをせっせせっせと鍋で煮詰めているニールの姿がありありと浮かんできて、私はなんだかあたたかい気持ちになれた。
「ニールの腰は、どうしたら良くなるのかな」
「……コレットは、あの蛇はいったい何なんだと思う?」
「わかんないから訊いてるんじゃない」
質問に質問を返されて、私は思わずむっとしてしまう。ノイが残りのパイを私の口にねじ込んで、指についたマーマレードをぺろりとなめとった。
「診察の時、ニールといろいろ話してるんでしょ? なにか変ったこととか、ないの?」
「あれは男同士の秘密の話だから、コレットには言うのはちょっとな」
ニールの身体に関わっていることだというのに、なにが男同士の秘密の話だというのか。なかば睨むように見上げる私の視線が居心地悪いのか、ノイはすこしためらう様子を見せながら私の頬に指先を伸ばした。
「コレットもニールも、ふたりともおんなじ顔でおれのこと見るんだよな」
「なによ、それ」
「ふたりはよく似てるなって思うんだ。双子みたいにそっくりってわけじゃないけど、話し方とか仕草とか、診察してるときは借りてきた猫みたいになることとか、よく似てるんだよ。姉弟って面白いなって思って」
頬についていたらしいパイをとってくれながら、彼は見上げる私の瞳をじっと見つめた。
「違うのは、瞳の色だけだ」
彼の指が、ふいに私の目じりを撫でた。
「ごめんな、もとの瞳に戻してやれなくて」
「私はこの銀の瞳も好きよ」
すみれ色の瞳も好きだったけど、この新しい銀の瞳も好き。なによりこの瞳のおかげでノイと一緒にいられる時間が増えたことが、不謹慎だなと思うけど一番うれしかった。
「だって、ノイがつくってくれた瞳だもん」
光を失った私のために、ノイが知恵を尽くして作ってくれたこの瞳。髪なんてすぐに伸びる。でも、目だけは一度見えなくなるともう二度と戻らない。絶望していた私に、もう一度光を取り戻してくれたのが、いまこうして目の前にいる彼だった。
「……気に入ってもらえたようで、よかった」
不安そうだったノイの表情が、安堵の息とともに和らいでいく。まぶたを撫でる指先がすこしだけふるえていて、私は彼の手にそっと自分の手を重ねた。
「その言葉、私、前にも聞いたことがある気がする」
「……コレット?」
「なんだろう。なにか、思い出せそう……」
彼の手を握りしめ、私は頭の中にぽっかりとあいている穴を必死に覗きこむ。何か思い出せそうで、でも、思い出せない。
もどかしくて、歯がゆくて、唇を噛んでしまう。なにか大切なことだった気がする。でも、思い出せない。
「私……」
握りしめる私の手を、ノイが握り返してくれる。そのあたたかいぬくもりを感じながら、私は必死に、記憶を探した。
風が吹き、バルコニーの上を駆け抜ける。それは私の羽織っている白衣を揺らし、髪を揺らし、そして耳もとのピアスも揺らした。
「――あ」
「思い出した?」
「この、ピアス……」
風を受けてゆらゆらと揺れる、アメジストのピアス。それを見つめながら、ノイは静かにうなずく。
「これをくれたのは、ノイだったのね」
「毎日つけてくれて、うれしいよ。あげてよかった」
ピアスをつけるのは、私の日課だった。毎日、目が覚めたら当たり前のようにつけていたから、いつから使っているものなのかなんてさっぱり気にもしていなかった。
いつ、何のときにもらったのか。そこまでははっきり思い出せない。でも、これはたしかにノイからもらった。そして『気に入ってもらえたようでよかった』と言った彼のこともおぼえている。
「大きな街に薬草を買いに行ったとき、コレットの瞳によく似たピアスを見つけたんだ。だからお土産に買って帰って、プレゼントしたんだよ。すみれ色の瞳に似合うと思って」
「そうだったんだ……」
「銀の瞳になっても、よく似あうよ」
ノイが、私のピアスに触れる。月明りが照らす彼の表情は、微笑んでいるのだけどどこか翳りがあるように見える。いつもと同じ、私に向ける彼のまなざし。でも今夜の彼は、月の光に、その奥にひそめていた感情を吸い上げられているようだった。
彼は何かにおびえている。
それを隠したくて、いつも、自分の太陽を隠してしまっている。
「……私、ノイの太陽、好きよ」
月明りから隠れようとする太陽の瞳を、私はじっと見上げた。
「みんなこわがってるけど、私、ノイの瞳も好き。だから、そんなに隠さなくていいよ」
手を伸ばして、私は彼の額に触れる。彼の夜の瞳は、前髪をかき分けてむき出しにしても、昼間のようなまぶしさがよみがえることはなかった。
「ノイがうちの畑に来るとき、すごく気を使ってくれてるのもわかってる。ほんとうはもっといろいろ手伝いたいと思ってくれてるのもわかってる。でももし何かあったらと思って、遠慮してるのもちゃんと気づいてるよ」
「コレット……」
「私は大丈夫だよ。ノイがうちの畑を燃やしちゃっても、離れていったりしないよ」
その瞳を見つめたまま、私は彼の頬に触れる。心地よい風が吹いて、夜の海が静かな波音を立てる。
月が見せてくれる、ノイの隠れた素顔。それを覗きこもうとして、私は一歩彼に近づく。
「――だめだ、コレット」
ふいに、ノイが私から離れた。
「おれに近づいちゃだめだ」
「どうして?」
「どうしてもだ」
一歩、二歩と、ノイは私から離れていく。髪をくしゃくしゃにかきむしり、前髪で表情を隠してしまう。私が追いかけようとするのを、彼は手のひらで制した。
「月夜はだめなんだ。抑えがきかなくなる」
うつむき、ノイは頭をふる。そのくすぶっていた瞳が、また赤々と燃えだしていることに気づいて、私は夜空で一段と明るさを増した満月を見上げた。
「月は人の本性を暴くんだ。特に、満月は」
両手で目を覆い、ノイは淡々とした声で言う。その指の隙間から、かすかに赤い光が見える。暖炉の薪を増やしたように、急に彼のまわりの温度が増して、私は暗くなった瞳もまた太陽なのだと感じた。
「ノイ……?」
「満月は、人を惑わすんだ」
その声は、まるで泣いているようだった。
「見ないでくれ、コレット」
両手で顔を塞ぎ、ノイは私から逃れるように顔を背ける。突然の異変に驚き、彼の腕に触れようとして、私は月明りとは違う光が彼を照らしていることに気づいた。
銀の光が、夜闇の中輝いている。
「なに、これ……?」
私の銀の瞳が、かすかに、光を放っていた。
自分の手のひらを見れば、私の視線と同じように、銀の光が動いているのがわかる。鏡があるから自分の顔を見ることはできない。けれど、間違いなく、この光は自分の瞳から出ているのだと私は確信した。
まるで、ノイの太陽のように。
「ノイ、大丈夫?」
私が近寄り、そっと腕に触れると、彼はびくりと身体をふるわせた。
「大丈夫じゃない。まさかこんなに、コレットの瞳が強烈だとは思わなかった」
目を閉じたまま、ノイは私の手を引き離す。手首をつかむその力があまりにも強くて、私は彼の必死さを感じた。
「おれはもう、コレットのこと、傷つけたくないんだ」
「ノイ……?」
ようやく開かれたノイの瞳は、昼間とは違う、暗い太陽の光を放っていた。同じ太陽であるはずなのに、赤くも黒くも見える。私は以前、ノイに教えてもらった、太陽の中にたたずむ黒点の存在を思い出した。
どんなに暗くても、太陽は太陽。近づけば、あっというまに焼き尽くされてしまう。
それが、私の瞳と絡み合う。よりいっそう赤黒さを強めたその瞳が、私を飲み込んでしまおうと、手を伸ばしてくるように思える。
まるで獣ににらまれたように、私はその瞳に射すくめられ動けなかった。
「コレット、おれ……」
何かを言いかけ、けれどノイは最後まで言わなかった。
「……あれ、なんだ?」
ノイが目を向けた先に、小さな明かりが見える。私も彼とともに、月夜の海に突然浮かんだランプのような明かりに目を凝らした。
「畑が、燃えてる……?」
さざ波を響かせる畑の海の中に、突然、炎が上がってた。
それは私の家のりんご畑だった。