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「ノイ、そんなに遠慮してないで、ばんばん摘んじゃっていいわよ」
「いやでも、なんかもったいない気が……」
「そんなこと言ってたらいつまでたっても終わらないから。手伝うって言ったのはノイでしょ!」
お互いそれぞれりんごの木に梯子をかけて、私はなかなか作業の手が進まないノイに大きな声で呼びかけていた。
「なんかおれの判断だと、いいやつ摘んじゃいそうでこわいんだよ」
「大丈夫、これからまだまだ同じことするんだから」
梯子の上で頭を悩ませているノイは、私の声に意を決したように作業の手を早める。日増しに強くなっていく陽ざしから頭を守るため、貸した麦わら帽子はニールのものだった。
『ニールの腰がよくなるまで、コレットの家の仕事手伝うよ。どうせ診療所も暇だし』
ノイが突然、そんなことを言い出したとき、私は彼の気まぐれだと思った。
もともとノイは、夏みかんを受け取りに朝早くから私の家に来てくれていた。その間、いつもベンチに座って読書をしていたのだけど、実はしっかりとりんご農家の仕事の様子を見ていたようだった。
朝、夏みかんを受け取りに行くついでに、診察までの時間を私の家の手伝いに空けてくれるという。期間はニールの腰が良くなるまで。痛む腰で無理して仕事をさせるより、すこし休ませる時間を与えたほうがいいと、ノイが治療の立場からも言ったことだった。
両親と私とニールの、一家四人でやっているりんご農園。正直いって、手伝ってくれる人がいるのはありがたい。両親は最初その話が持ち上がった時すこしためらったけれど、ニールの腰のことを思って、ノイを受け入れてくれたのだった。
これから本格的な夏になろうかという時候。りんごの木は、真っ白に咲かせていた花をすこしずつ散らしはじめ、小さな実がつくようになっていた。いま私たちがする仕事は、このたくさんなっている実を間引いて、一つの実に多く栄養がいくようにする摘果だった。
りんごを育てるために、することはたくさんある。冬のうちから樹の手入れをして、害虫退治や枝の剪定をする。春になって花を咲かせたら、実の成長が早くなるように花を摘んで整理してしまう。そして実がついたらまた摘んでと、とにかくとことん摘み取る作業が続いていた。
「りんごって、咲いた花は全部実になるんだと思ってた」
「実がついても、たくさんあったら栄養が分散して実が小さかったり甘味が足りなくなったりしちゃうから、こうやってちゃんと手入れしないといけないの」
物心つくころから当たり前のように手伝っていたから、私はしっかりりんご農家の一年が身についている。忙しい時は他の農家さんから誰かに手伝いに来てもらっているけど、それもだいたい収穫時期の秋が多かった。
「ニールの腰も、忙しくなる前には治るといいんだけど……」
重要な働き手が、収穫時期に動けないとなると大変だった。それを見越しての、ニールの今回の長期療養。ニールもニールで自分のできる範囲のことをして、母のかわりに家のことをやってくれていた。
「その木が終わったら、夏みかんの木に行こう。ノイもそろそろ時間でしょ?」
「うん、それとニールの診察もしないと」
私に言われて勢いに火がついたのか、ノイは遠慮なく小さな実を摘んでいた。彼の残す実がまた、変色や小さな傷もなく、位置的にも申し分ないものばかりで、ひそかに勉強していたのだろうなと私は思う。
私もノイも、他の木で作業をする両親に比べればまだまだ仕事が遅い。熟練の技で次の木次の木へと移っていく両親は、決して口には出さないけれど、やっぱりノイが自分の家の木に触っていることが気になっているらしい。それに彼も気づいていて、麦わら帽子をこれでもかというくらい目深にかぶっていた。
「昨日また、野火があったんだって。ノイの診療所の近くじゃなかった?」
「うん、たしかに騒ぎになってた。でも鎮火が早かったみたいで、今朝通った時に見たけどほんとうに小さなボヤだったみたいだよ」
どうも最近、野火が連続して起こっている。まだどこかの畑が燃えてしまうような被害は出ていないけれど、道端の茂みに火がついたり、丘の木が燃えたりと野火が続いていて、農家のみんなはそれに敏感に反応していた。
「変だよね、こんな時期にまで野火が続くなんて。もうとっくに乾燥の時期は終わってるっていうのに」
野火は主に、冬から春にかけての乾燥した時期に起こることが多い。主な原因は煙草の火の不始末や、ごみを自分で燃やしてしまうこと。それから、子どもたちが火遊びをしてそれが大きく広がってしまうこともある。でも自然を相手に仕事をしている農家が多いこの町では、野火に対してはほんとうに神経質なほど注意を払っているはずだった。
「まぁ、おれも必要以上に外出しないようにするよ。夏みかんもらったら急いで帰るから」
的外れなことを言っているように思えるノイだけど、実はこういうことが起きるとき、真っ先に疑いの目が向けられるのは彼だった。
「ほんとうは外出するのは雨の日だけにすればいいんだろうけどさ、コレットの家のこともニールの腰のことも放っておけないし……」
ひととおり実を摘み終えたのか、ノイが梯子の上で軽く手を払う。そして麦わら帽子から恐る恐る太陽を見上げ、「今日もいい天気なんだろうな」とひとりごちていた。
「診療所もますます閑古鳥だよ。薬を売り歩きたくても、町を歩いてたらみんな逆に怖い顔で睨んでくるし。おれが出歩くとやっぱり不安なんだろうな」
ノイは幼いころ、よく自分の力をコントロールできずに野火を発生させてしまっていた。その話は、ノイと関わる私にいろんな人が口うるさいほど吹き込んでくる。本人たちは親切のつもりで言っているのだろうけど、私からしたらただノイの過去のことをいまだに根に持っているようにしか思えなかった。
「ノイが町に降りたほうが、ほんとは私たち助かるのにね」
「まぁ、それで逆にあちこちから手伝いに来るよう言われると、おれも診療所の仕事できなくなるし」
ノイが毎日顔を出すおかげで、私の家の植物たちは他の家よりも元気で成長が早かった。これもまた、彼の持つ太陽のおかげだった。
「おれだって困ってるんだぞ。この瞳のせいで、診療所のまわりの雑草がやたら育つこと育つこと」
「いっそ家庭菜園でも始めればいいじゃない」
「手をかけすぎると逆に日照りになっちゃいそうで嫌なんだよ」
ノイのまなざしはいつも、ひなたぼっこをするようなあたたかさに満ちている。彼の中にある小さな太陽が近づくと、植物たちも元気になり、けれど近づきすぎるとその陽ざしの強さに負けて枯れてしまう。だから彼はいつも、外に出るときはできるだけ瞳を隠すようにしていた。
なにも、人目から避けたくてそうしているわけではない。でも結果的には、彼の瞳を見るとみんなが怖がってしまうから、長い前髪の向こうから物を見るのがすっかりノイのくせになってしまっていた。
「……それにしても、さっきからいい匂いがしてお腹がすくんだけど」
「ニールが朝ごはん作ってくれてるからね。よかったら診察の後に食べていきなよ」
「いや、いいよ。長居すると申し訳ないから」
梯子を降り、私たちは作業を続ける両親に呼びかける。両親はまだ仕事を続けるようで、先に家に戻るようにと手をふってこたえた。
朝ごはんができたよと、私たちを呼ぶニールの声が聞こえたのは、それから間もなくのことだった。
「腰の調子は、あいからずか? ニール」
「うん。良い日もあれば、悪い日もあるって感じかな」
ノイの診察もすっかり往診になってしまって、ニールの部屋のベッドの上が診察台のかわりになっていた。
ニールが私を自分の部屋に入れることを嫌がるので、私は部屋から聞こえてくる男ふたりの会話から診察内容を探るしかない。でもそれもなんだか多感な年ごろの弟に悪いような気がして、私はひとり、またしても梯子にのぼって夏みかんを収穫していた。
夏みかんといっても、この木は本格的な夏になる前に収穫が終わってしまう。春先から初夏までが収穫のタイミング。夏みかんの木が終わったら、今度は大きくなってきたりんごの実に傷がつかないよう袋をかける作業が始まるのだった。
「――そっか、ニールの部屋からだと畑がよく見えるんだな」
その声とともに、ノイがニールの部屋の窓を開けた。
突然のことにおどろいて、私は小さな悲鳴をあげながら梯子の上で飛び上がる。それでバランスを崩しそうになってあわてて枝にしがみついたのだけど、ノイは全く気付く様子もなく窓からの景色にひとりはしゃいでいた。
「でも、りんごじゃない木もあるんだな?」
「……それはニールの木よ」
「コレット、なんでここにいるんだ?」
そして、夏みかんの収穫をする私の存在にようやく気が付いたようだった。
ニールの部屋の窓を開ければ、一面に広がるりんご畑を見渡すことができる。けれど窓のすぐそばにはりんごとは違う木が植えられていて、その隣にあるのが私の夏みかんの木。だから私も決して弟の部屋を覗いていたわけではなく、ノイもちゃんとそれをわかっていて窓から身を乗り出し隣の部屋を確認した。
「隣が、コレットの部屋?」
「そう。窓から見えるところに、自分の木を植えてくれたのよ」
私の部屋の前に、夏みかん。ニールの部屋の前には彼の木が植えられている。つまり子どもたちが毎日寝起きする自分の部屋から、りんご畑とともに自分の分身の成長を見ることができるようにと、両親が考えて植えてくれたものだった。
「勝手に私の部屋に入っちゃだめだからね」
「わかってるよ。どうせ散らかってるんだろ」
「ノイの診療所と一緒にしないでよ」
夏みかんをぱちんと切り離しながら、私は彼を睨むように見つめる。年頃の少女の気持ちを、ノイはまったくわかっていなかった。
「……姉ちゃん、まだ朝ごはん食べてなかったの?」
ノイに続いてニールも顔を出してきて、私は診察が終わったのだとわかった。
「先に夏みかん収穫しちゃおうと思って。ごはん食べてからだと、どの夏みかんがおいしいか見分けがつかなくなっちゃう」
ニールの細い首筋を、蛇の黒い鎌首がつたっている。それを見て、私は思わず悲鳴をあげそうになるのをぐっとこらえた。
「なんか今日、食欲がないんだ。僕の分、姉ちゃんが食べちゃっていいから」
蛇の巻き付くところが、彼の不調につながっている。頭に巻き付いている時は、頭が痛いという。胸に巻き付いている時は息が苦しいという。けれどその蛇の姿をニールも両親も見ることができなくて、私はいつもひとりでその蛇を見張っていた。
「ニールの木、そろそろ収穫してもいいんじゃない? 綺麗に色づいてきたよ」
「ほんと? じゃあ、あとでとりにいくよ」
「ニールの木は何の木なんだ?」
窓からさらに身を乗り出すノイを、ニールがあぶないよとたしなめる。前髪が邪魔だとかきわけて太陽の瞳をむき出しにしたノイは、背の低いニールの木を見てそこになっている実をじっと見つめた。
「……ブルーベリーか! いいな!」
「食べられるものを植えるっていうところが、私の親らしいでしょ」
「木になってるところ、見たことないんだ。いまそっち行くから、ちょっと待ってて!」
たしかに、この町ではブルーベリーの木で生計を立てている農家はどこにもいない。みんな趣味の範囲でいろいろ育てていて、うちでも自分たちで食べる分の野菜を育てていたりする。家の外からでも聞こえてくるノイのあわただしい足音に、私とニールは顔を見合わせて苦笑した。
「……私、前にもこうやってニールとお話した?」
「姉弟だし、会話なんていつもしてるじゃないか」
「そうだけどさ。なんか久しぶりな気がして」
ふたりだけになるのも、久しぶりだ。難しい年ごろになったニールは家にいてもやたら反抗的になって、私とはほんとうに必要最低限の会話しかしなくなっていたのだった。
「ねえ、ニール。なにかあったら私に言ってね?」
「なんだよ、突然」
「腰が痛いことだって、誰にもずっと言わなかったじゃない。せめて先に言ってくれれば、私からお父さんとお母さんに話すことだってできたのに」
「だって、ただでさえしょっちゅう風邪ひいては寝込んだりしてたから……」
ニールもニールなりに、自分の身体の弱さを気にしている。なかなか家の手伝いをできないことを、もどかしく感じているのも私はわかっているつもりだった。将来この農園を継ぐニールより、私のほうがよっぽど木々のくせも土に含まれている栄養のことも育て方もわかっていて、手伝いをするたびに私にあれこれ言われることに悔しそうな顔をする彼のこともよく見ていた。
「……コレットがお兄ちゃんだったらよかったのに」
「え?」
どういうこと、と訊く暇も与えてくれず。そのまま、ニールは窓を閉めてしまった。
「コレット、手伝わなくてごめん」
そして、家から飛び出してきたノイがかけよってくる。彼に夏みかんの入ったかごを渡して、私は梯子から降りた。
「これが、ニールの木か。いつも何の木なんだろうって思ってたんだけど、実がならないとわかんなかった。ブルーベリーは目の薬に使えるから、これも売ってもらおうかな」
「ほんとうならもうとっくに収穫していてもおかしくない季節なんだけどね。ニールの木はどうも、成長が遅くって」
うまれたときに植えられたからなのだろうか、夏みかんの木もブルーベリーの木も、私たちに合わせて成長しているように思える。夏みかんもブルーベリーもどちらも日当りのいいところで枝を伸ばしているはずなのに、ニールの木はいつも弱弱しくて虫もつきやすく、実もあまりならなかった。
「ねえ、ノイ。ニールの調子はどうなの?」
「……あまり、良いとは言えないかな。夜もあまり眠れないって言ってるし」
「あの蛇、なんだか日に日に大きくなっていってる気がするの」
枝や葉は生い茂るわりに、なかなか実のつかないニールの木。それに手を伸ばし、ノイはあえて前髪をかきわけ太陽の瞳で見つめる。ブルーベリーの木は枝に群生するように実をつける。すずらんのように白くまるい花を咲かせ、それが終わるとまるい実がつく。はじめは緑色だった実が日に日に色を濃くするのだけど、ノイがそばに行くと心なしかまた色の深みを増したような気がした。
「ニールのこと、心配?」
「あたりまえじゃない、大事な弟だもん」
「いいな、家族がいるって」
決して私に顔を見ないまま、ノイは言った。
「ノイ……」
「ごめん、今の聞かなかったことにして」
枝から手を離して、ノイがふりむく。またいつものように前髪で目を隠して、その隙間から太陽のあたたかさがもれだしていた。
ノイの家族について、私は何も知らない。噂でも、聞いたことはない。ノイはこの町で生まれ育ったというのだから、確かに家族もここにいたはずだろうけど、彼はそのことに関して一切口を開こうとはしなかった。
「……ノイ、姉ちゃん」
「ニール」
ノイに続いてニールも降りてきて、私は彼の身体に巻きつく蛇の不気味さに思わず後ずさってしまった。
「姉ちゃん、さっきはごめん」
それを違う意味で受け取ったのか、ニールがあやまりながら私にやたら大きなバスケットを渡してくる。中には紙袋が二つはいっていて、すきっ腹で作業していた私はそのいい匂いにお腹が鳴ってしまいそうだった。
「もう、診療所に行く時間でしょ。朝ごはん急いでつめといたから、ふたりで食べてよ」
「……ありがとう」
紙袋を覗きこめば、サンドイッチが入っているのが見える。きっと、今日の朝ごはんに作ったおかずを手早く挟めてくれたに違いない。料理に関しての手際の良さは、ニールがこの家で一番だった。
「もう片方のは、休憩のときにでも食べてよ」
もう片方は、しっかりテープが貼ってあって覗きこむことができない。私と同じ亜麻色の髪を太陽に輝かせながら、ニールは実のついた自分の木を見てほっと目を細めてみせた。
「よかった、今年はもう実がつかないんじゃないかと思ってたんだ」
「ニール、自分で手入れしてなかったのね」
「姉ちゃんみたいに元気に育ててあげる自信がなくてさ」
かつては、私も同じ色をしていたすみれ色の瞳。その瞳は私のアメジストのピアスにも、この木になるブルーベリーの色にもよく似ている。一粒つみとって、ニールは迷わずそれを口に放り込んだ。
「……おいしい」
ほっと、彼が頬を緩める。それを見て、私はこっそりノイに目くばせをする。
ニールが嬉しそうに笑ったのは久しぶりのことだった。