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「――あの、すいません」
ふいに声が聞こえて、真剣なまなざしで鍋の中身をかき混ぜていたノイが手を止めた。
「もう診察、はじまってますか?」
開け放たれた診療所の入り口に立っていたのは、私が毎日顔を合わせる、小声で小柄で小生意気な少年だった。
「ニール! どうしたの、珍しい」
「母さんが、ノイと姉ちゃんに差し入れ持って行けって……」
ニールは私の三つ下の弟だ。診療所の入り口で警戒するように立ち尽くす彼は、その手に小さな紙袋を持っていた。
「いつもありがとうな、ニール」
まあ、入れよ。ノイに手招かれて、ニールがおずおずと中に入ってくる。家の中ではいつも生意気な口をきいてわがまま放題だというのに、一歩外に出ればこうなのだから私には不思議だった。
ここまでどうやってきたのだろうと思えば、外に自転車が停めてあるのが見える。緩やかながらも長い長い坂道をのぼってくるのは大変だったようで、ニールの額には大粒の汗が浮かんでいた。
「のど乾いてるだろ。いま、お茶を出すから」
ノイもそれを一目見てわかったようで、作りかけの薬の鍋を作業台の上に置く。彼に目くばせされるよりも早く、私はニールのために冷たい麦茶をコップにそそいでいた。
「いただきます」
よっぽどのどが渇いていたのか、ニールは受け取るなり一息に飲み干してしまう。おかわりをそそぎながら、私は「これ」とぶっきらぼうに渡された紙袋の中身を覗いた。
「なんだ、アップルパイじゃない」
「なんだってなんだよ」
「いや、だってお母さんからって言うから」
「いらないなら僕一人で食べる」
紙袋を奪われてしまいそうになるのをかわして、私はそれをノイに渡す。パイ皿で焼いたときのままのまんまるなかたちで、細長く切った生地で網目模様を編まれた昔ながらのアップルパイ。焼きあがってすぐに持ってきてくれたのか、まだあたたかいままだった。
「ありがとう。おれ、このアップルパイ大好きなんだ」
紙袋を覗きこんで頬笑むノイに、ニールがこわばった表情のまま小さくうなずく。麦茶をおかわりしてのどの渇きが癒されたはずなのに、その額はいまだに汗の粒が浮いていた。
「あの、ノイ……」
おずおずと、ニールは上目づかいにノイを見上げた。
「なんだか最近、腰が痛くて。診てほしいんだけど、いいかな」
「えっ?」
彼の思いがけない言葉に、驚きの声をあげたのは私だ。ニールに思いっきりにらまれてしまったけど、驚かずにはいられない。ニールは、この町の人たちと同じで、ノイのことが苦手だったはずなのに。
「もちろん、いいよ。だからそんなに汗かいてたのか、こっちおいで」
ノイがエプロンを外して、診察用の白衣を羽織る。私も診療所中の窓を開け放って、薬草のにおいがすこしでもはやくなくなるように風をいれた。
診察台にあがるよううながされて、ニールは靴を脱いでそれに従う。診察台の上でうつぶせになると、ノイはまず問診を始めた。
「痛みがあるのは、いつから?」
「一ヶ月くらい前から。最初は我慢できたんだけど、でも最近ひどくなってきて、家の手伝いしてたらもうほんとうにつらいんだ」
「だから最近さぼってたのね」
私がつぶやくと、またニールににらまれてしまう。ノイにも視線で注意されて、私は口を閉じて何も言わないぞと心に決めた。
「父さんも母さんも、跡取りなんだからちゃんと手伝えっていうんだけど、痛くて梯子を上るのも辛いんだ。さすがにもう我慢できなくて……」
「そっか、それは大変だな」
服の上から、ノイはニールの腰を触る。押すと痛いところはあるか、どの姿勢になると一番痛いのか。ひとしきり質問したあと、おもむろにニールの服をめくった。
その腰は細くて、日にもあたっていないから私よりも真っ白な肌をしている。生意気な態度をとるわりに身体が弱く、ベッドで寝込んでいることが多い彼の身体は、同じ年頃の友達たちの中で一番小さかった。
「骨に問題はないよ。痛み止めと湿布を処方するから、まずそれで様子を見て」
「それだけ?」
「お灸とか針とかやりたいならやるけど?」
「……湿布と痛み止めなら、他の医者とたいしてかわらないじゃないか」
ニールがそうつぶやくのを、ノイは聞き逃さなかった。
たしかに、ニールの言うことはごもっともだ。ノイがしたことも、ただの問診と触診だけ。これなら隣町の病院のほうがもっと丁寧に診察してくれるに違いない。
「それなら別に、こんなところにわざわざこなくても……」
「わざわざアップルパイを焼いて口実作って、長い坂道をのぼってきてくれてありがとう」
差し入れのアップルパイはニールが作ったということに、ノイは気づいていた。
「指に、りんごとバターのにおいが染みついてる。そっか、いつもおいしいパイを焼いてたのはニールだったのか」
「……男がお菓子作りとか、変だって言うんだろ」
「おれは別にそうとは思わないけど?」
ちょっとだけめくった服をもとに戻して、ノイはその腰を軽く叩く。それが腰に響いたのか思わず飛び上がったニールに、彼はいつもの太陽の笑みを見せた。
「おれのところの来たからには、大丈夫だ。下り坂は気をつけて帰るように」
腰をおさえ、抗議の声をあげようとしていたニールは、ノイのはつらつとした笑顔にすっかり毒気を抜かれてしまう。そして痛む腰を庇いながら、診察台の上に行儀よく座った。
「……僕、てっきり、診察はもっと危ないものだと思ってた」
「腰に火をつけると思ってたんだろ? そんなことしないって」
苦笑いを浮かべ、ノイは立ち上がり作りかけの鍋を手に持つ。
「……みんな、おれがそんな診察してると思ってるんだな」
顔に笑みは浮かべているけど、その声はちょっと寂しそうだ。作りかけの鍋にため息をこぼして、彼はエプロンをつけるのを忘れたまま、鍋の中に入った夏みかんと薬草のスープにそっと手のひらをかざす。
「人の噂はどんどん誇張されてしまうものだから、しかたないけどさ」
彼の嘆きとともに、鍋から激しい火柱があがった。
ニールが驚きの声をあげるのを見て、私は笑ってしまいそうになるのをこらえる。私にはすっかり見慣れた、この火柱。これがノイの使う魔法だった。
鍋底からすべてをまるまる包み込んだ火柱が、中に入っていた水分を一気に蒸発させてしまう。かといって、焦がしてしまったわけではない。残ったのは綺麗に乾燥した粉薬で、それはノイ特製の肩こり腰痛関節痛なんでもこいのよく効く痛みどめだった。
「……しまった、またシャツ焦がしちゃった」
飛び散った火花が、シャツに穴をあけてしまっている。それに気づいてあちゃーと呟くノイの瞳が、いつにもまして鮮やかな太陽の色に輝いているのを、ニールは食い入るように見つめていた。
ノイは、その太陽の瞳で魔法を使う。
「出来立てのアップルパイを持ってきてくれたから、おれは出来立ての薬でお返しするよ」
ニールがおびえた表情をしていのに気づいていても、ノイはあえて笑みを浮かべていた。
その太陽の瞳は、彼を苦しめる呪いだった。
○
太陽の呪いを、ノイはその身に受けている。
その呪いがあるからこそ、ノイにしか使えない魔法もある。うまれながらにもったそれは呪いというより体質なのかもしれないけど、それは間違いなく、彼自身を苦しめるものだった。
ノイが燃やすものは、木や草だけじゃない。その瞳が映すすべてのものに、太陽は火をつけてしまう。
人のことだって燃やしてしまえる。
自分の畑が燃えることより、何より、人々はそれを恐れてノイから離れているのだった。
「今日も結局、閑古鳥だったね」
陽が傾きはじめた空を見上げて、私は診療所のバルコニーでのんびりと本を読んでいるノイに話かけた。
「まぁ、一日にひとり患者がくればいいほうだし。今日はいい日だったよ」
「ノイったら、途中で診察室出てバルコニーに行っちゃうんだもん。お昼すぎたらもう、完全にやる気なくしてるでしょ」
「そのかわり、ここでこうやって勉強してるからいいだろ」
黒魔術とはまた違う表紙の本を読みながら、ノイがおおきなあくびをする。太陽がかたむいたおかげで外の気温もだいぶ和らいで、私はそのすずしさにほっと息をついた。
「今日は何の本?」
「整形外科の本」
「医学書?」
「当たり前だろ」
むっと唇を尖らせて、ノイが本の中身を見せてみせる。そのびっしりと細かい文字を見ただけでくらくらとめまいがして、顔をしかめる私を見て彼は楽しそうに笑った。
「ニール、まだ若いのに腰が痛いなんてさ。農家のみんなってやっぱり腰とか膝とかを痛めやすいんだよな」
「そりゃあ、身体使った仕事してるんだもの、あたりまえでしょ」
「そういう診察をするとさ、できることって対症療法しかないんだよな。痛みをおさえて、回復してくれるのを待つだけ。風邪みたいに、菌を殺すような直接的な治療法はないんだよ」
「あの薬は、ほんとうにただの痛みどめなの? 診察の時になんか魔法を使ったとか」
「しない。おれは基本、よっぽどの症状じゃないと魔法の治療はしたくないんだよ。薬を調合するときにつかったりとか、まぁ、湿布なら浸透を良くさせたりはしてるけどさ」
本のページをめくり、ノイは真剣に目で文字を追っている。彼は毎日、こうして何かしらの本を読んでいる。たまに飽きて小説を読んでいることもあるけれど、たいていは医学に関する本か魔法に関する本のどちらかを選んで勉強していた。
「こういうとき、おれにできることってちっぽけだなって思うよ。ただ痛みをおさえてやることしかできない。だからこうやって、なにかいい方法はないか探してるんだけど……」
今日、整形外科の本を選んだのは、やっぱりあの診察があったからに違いない。今日起きた出来事から、ちゃんと自分への課題を見つける。ノイの向上心を失わないその姿勢を私はいつも尊敬していた。
「患者が来てくれたとしても、ちゃんとした診察ができなかったら意味がないだろ」
「……でも、せっかくノイが腕を磨いても、誰も来てくれないんじゃ意味がないわ」
「薬を買いに来てくれる人はいるから、そうやって地道におれのこと評価してくれればそれでいいさ」
欲がなさすぎるところが、ノイの良いところでもあり悪いところだ。自分を高めることは望んでも、他から何かを求めることがない彼を、私はずっと間近で見つめ続けていた。
「……いい風だな」
バルコニーの上を吹き抜けていく風に、ノイが目を細める。読みかけのページがぱらぱらとめくれてしまい、それで集中力が切れたのか、彼はぱたんと本を閉じた。
そして椅子から立ち上がり、バルコニーの手すりに身を預けていた私の隣にやってくる。風が吹くたびに、木々がざわめく。バルコニーから見える景色に、ノイがそっと微笑んだ。
小高い丘の上にある、ノイの診療所。バルコニーからは、この町いっぱいに広がる、さまざまな畑や果樹園を見下ろすことができた。
「いつ見ても、綺麗だ……」
風が吹くたび、小麦畑の稲穂が波打つように揺れていく。りんご畑のまるい木がゆらゆらと揺れている。私の分身の夏みかんもまたバルコニーから見下ろせて、そしてどの畑も、夕日を浴びて茜色に輝いていた。
「いつまでも見ていたいけど、燃やしてしまいそうで怖い」
それを見つめる、ノイの瞳。それもまた、夕日を受けて、燃えるように輝いている。
「この瞳が、いつか、この町を火の海にいてしまいそうで怖い」
「ノイ……」
太陽は、作物の成長をうながし、豊かな実りを与えてくれる。生き物はみんな、太陽の光がないと生きていくことができない。
けれど太陽は、近づきすぎれば猛威をふるう。日照りが続けば作物は枯れ、大地は乾燥してしまう。照りつける太陽が、野火の原因になり畑を燃やしてしまうことだってある。
ノイの瞳は強い魔力を持つ反面、太陽の力で火を放ってしまう。いまでこそ彼はちゃんと自分の瞳をコントロールしているけれど、幼いころは制御できずに、畑に火をつけ、何度もボヤ騒ぎを起こしてしまっていたらしい。
畑が燃えれば、それだけ農家には大きな損害が出る。もし万一巻き込まれようものなら、人の命にもかかわる。ノイの瞳を恐れる人々は次第に彼から離れていき、ノイもまた、人に迷惑をかけてはいけないと、畑から離れたところにひとりこうして居を構えていた。
この丘もかつては、うっそうと木が生い茂っていたらしい。それをノイが焼け野原にしてしまい、責任を感じた彼はここに診療所を建てたのだった。
「おれにできることは、たくさん勉強して、いざけがをした人や病気になった人が来たらすぐに治せるだけの知識をつけることだけだ」
そう言って、ノイは閉じていた本を再び開く。手すりに身体を預けたまま、真剣なまなざしで知識を増やそうとする彼の本の中身が気になって、私が横から覗いてみても難しい内容でさっぱりわからなかった。
「コレットも読むか?」
「ううん、難しくてわからない」
「じゃあ、わかりやすく教えてやるよ」
頼んでもいないのに、ノイが私に本を持つよう手渡してくる。そして呪文のような医療用語ばかりが連なる医学書を、私にも理解できるよう簡単な言葉で説明してくれる。
けれど、相変わらずさっぱりわからない。
私は聞いているふりをして、まるで絵本を読み聞かせるように話してくれるノイの表情を盗み見る。その瞳が夕焼け色に染まっていることに、彼は気づいていない。
朝は、朝日のようにみずみずしく澄んだ瞳に。昼間は、太陽の恵みを降りそそいでくれる燦々と明るい瞳に。そして夕方になると、燃えるような炎の瞳になる。一日を通してその瞳の変化を見るのが、私のひそかな楽しみだった。
文字を追う指先。聴き取りやすくはっきりと話してくれる、深みのある声。それがすぐそばにあって、私は吐息がかかりそうなほど近くにある彼の顔に自分の頬まで夕焼け色に染まりそうになってしまう。
その太陽の瞳を、いつまでも見ていたいと思う。
「……ねぇ、ノイ」
「わかりづらいところでもあったか?」
「私、前にもこうやって、ノイに本を読んでもらったことがある?」
自然と、私の口からその言葉がこぼれた。
「あるよ」
「やっぱり?」
「医学書を読んだことはめったにないけど。魔術書とか、図鑑とか小説とか、聖書とか。明日の天気を晴れにする魔法とか、宇宙図鑑のとかロミオとジュリエットとか、創世記とか。よくこうやって、読んで聞かせたよ」
ノイは怒りもせず、そう教えてくれた。
「……覚えてなくて、ごめんね」
「いいよ。しかたない」
私が覚えていないことは、事故の時だけじゃない。日常のふとしたことが、ぽっかりと穴があいたように欠けてしまっている。事故の記憶を消そうとした私の頭は、まったく関係のない事柄まで一緒に消してしまっていたのだった。
それでも、こうやってたまに思い出すことがある。またひとつ、あいていた穴が埋まってくれて、私はほっと安堵の息をついた。「……あやまるのは、おれのほうだよ」
消え入りそうな声でそう、彼は言った。
「ごめんな。おれ、頼りない医者で」
「ノイ……?」
ふせられたその瞳が、今日の診察のことを思い返しているのがわかる。問診と軽い触診しかできなかったノイ。いつもなら、彼はもっと丁寧な診察をしていたはずだった。
「ニールの腰、難しい?」
「……あんな症状、おれ、はじめて見た」
夏みかんをもう一口かじり、私は間近で見ていたノイの診察を思い出す。
銀の瞳が見せてくれたものは、どうやら幻覚ではなかったらしい。
「あの蛇、いったいなんなんだろうね」
ニールの腰には、きっと普通の人には見えていないであろう、真っ黒な蛇が幾重にも幾重にも巻き付いていたのだった。