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私の大切なもの。
それは、夏みかんの木。
私の大切なもの。
それは一面に広がるりんご畑。
私の大切なもの。
それは、いつもあたたかく見守ってくれる、
太陽。
◆
「コレットの木は、いつも太陽みたいだよな」
梯子の上にのぼる私を見上げながら、ノイは読んでいた本から顔をあげてそう言った。
「そりゃあ、太陽の恵みをいっぱい受けて育ってるからね」
「その夏みかんの実がまたさ、太陽みたいにまんまるでオレンジ色なんだよな」
「そうやってただ見てないで、ちょっとは手伝ってよ、ノイ」
梯子の上から私が叫ぶと、彼はしぶしぶといった様子で読んでいた本を閉じ、日陰に置いていたベンチから重い腰を上げた。
日増しに強くなっていく陽ざしを浴びて、ノイはまぶしさに目を細める。目にかかるほど長い前髪の上に、上着のフードを目深にかぶり、どこを見ているのかさっぱりわからない姿で私のいる夏みかんの木へと歩いてくる。
「収穫したの、かごに入れて」
よく熟れた夏みかんを探し、私はそれをはさみで切り離す。ぱちん、と小気味よい音をたてて、太陽の光をたっぷり浴びた夏みかんを収穫するのが、私の朝の日課になっていた。
「今日はどれぐらい必要? またかごいっぱい必要?」
「収穫できるぶんだけでいいよ。数よりも、よく熟れたもののほうがいいから」
ひとつひとつ熟れ具合を確認して、私は夏みかんを収穫していく。丹精込めて育てたこの木から、一番食べごろの状態で収穫してあげたいと思うからこそだ。
じっくりと枝を探す私を、ノイはせかすわけでもなくかごを抱えて待っていてくれる。家の窓から漂ってくる朝食のにおいに、何も食べていない私はお腹が鳴ってしまいそうだった。
「……りんご農家から夏みかんを買うなんて、ほんと、ノイも変な人だよね」
私の家は、りんご農園を営み生計を立てている。家の周りにはりんごの木がずらりとならび、私も両親もその木の手入れをしていた。
「コレットの木の夏みかんが、この町で一番見事だと思うからね」
この夏みかんの木は、私の誕生日に両親が畑の隅に植えてくれたものだ。十七年すくすくと育ったこの木は、毎年初夏になるとたくさんの実をつけてくれる。私の分身ともいえる夏みかんは、甘くもなく酸っぱいばかりでそのまま食べられるものではない。ほとんど趣味のようなもので育てている夏みかんを、ノイはお金を出して買ってくれていた。
「ノイ、何読んでたの? 恋愛小説?」
「まさか」
ただの医学書だよ、と、彼は表紙を見せてくれる。その中世的な面立ちとは違って、手はふしばったたくましいものをしている。その大きな手が隠していた背表紙のタイトルは、医学書というより黒魔術の本に見えるのは気のせいだろうか。
「それ、何に使うの?」
「惚れ薬の作りかたを覚えようかと思って」
それは冗談なのかそれとも本気なのか。その飄々とした口調から読み取れなくて、私は苦笑いを浮かべるしかない。彼は医学だろうが白魔術だろうが黒魔術だろうが、自分が興味のあることはとことん勉強してあっという間に習得してしまうのだった。
「それに、うちの夏みかんつかうつもり?」
「実はもう、完成してたりして」
ノイが魔術書を閉じると、その手の上にひとつの夏みかんが乗っていた。彼が背伸びをして手を伸ばせば、梯子にのぼっていた私の口もとにそれがやってくる。
「食べたら、おれのことが好きになる」
「いらない」
即答すると、ノイが歯を見せて笑った。ほんとうに彼は太陽のように笑うんだなと、私は思ったけど決して口には出さなかった。
「うそだって。それはコレットの今日の薬」
「ならそうと、ちゃんと言ってよね」
収穫の途中で、両手がふさがってしまっている。見上げてくる彼のフードがはらりととれて、いつも隠している切れ長の目があらわになった。
その瞳は、黄色とも金色ともいえない、鮮やかな太陽の色をしている。そのひだまりのようなあたたかな瞳にうながされて、私は夏みかんに唇を寄せた。
「いただきます」
収穫したばかりの、みずみずしさの残る夏みかん。私はそれを、皮のまままるかじりする。苦くて食べられないはずの夏みかんの皮も、ノイの魔法にかかるとまるでいちごのように甘酸っぱくなるから不思議だった。
「おいしいか?」
「おいしいにきまってるでしょ。私の育てた夏みかんなんだから」
たしかに、ノイの魔法でさらにおいしくなっているのはたしかだった。ほんとうならそのまま食べることもできないはずの皮も薄皮も種も、すべて、まるごと食べることができる。りんごのまるかじりならぬ、夏みかんのまるかじり。いつも食べると口のまわりが果汁だらけになってしまうのが悩みだった。
「で、薬の効果はどう?」
「残念ながら、この夏みかんに惚れ薬の効果はないみたいだけどね」
わざと真面目に返してみれば、ノイはまた太陽の笑みを見せた。
一日一個、私はノイの魔法がかかった夏みかんを食べる。これを食べ続けないと、私にかけられた魔法はあっという間にとけてしまうのだった。
夏みかんは、私の薬。この薬がなければ、彼の笑顔を見ることができなくなってしまう。
私はまた、光を失ってしまう。
半年前、私は視力を失った。そんな私のために、ノイは自分の知りうる知識をかき集めて、新しい瞳を与えてくれた。
それは、夜空に浮かぶ満月のような、銀の瞳をしていた。
ノイは世界一、白衣の似合わないお医者さんだと私は思う。
「……あいかわらず、ここの診療所は誰も来ないのね」
町のはずれにある、小高い丘の上に建てられた診療所。それが、ノイの根城だった。私は毎日、彼の診療所に卸す夏みかんの代金精算とともに、瞳の検診をしてもらっていた。
「患者が来ないってことは、この町の人たちがみんな健康だってことだよ。いいことだろ」
「違うわよ。みんな、ノイに診てもらいたくないから隣町に行ってるの」
毎朝ひょっこり私の家に顔を出すノイは、収穫した夏みかんを受け取ると先に診療所に帰ってしまう。代金をいただくべく、請求書を目の前に突き出すと、彼は財布を取り出しながらその明細を見て苦々しげにつぶやいた。
「何個収穫したとか、どの大きさだといくらとか、ほんとコレットは細かく覚えてるよな」
「だって、いつも家でやってることだもん」
りんごを育てて、収穫して、出荷する。私は小さなころからずっと、家の手伝いをしていた。だからりんごを手に持っただけでどれぐらいの重さでどれぐらいの単価になるかをすぐに計算することができる。趣味で育てている夏みかんだって、売るとなれば大きさによって値段も違うし、傷があればそのぶん値引きもしていたのだった。
「……いつも赤字経営だっていうのに、コレットは容赦ないよな」
「夏みかんの代金はちゃんともらってるけど、それでも私の診察代とか家族に買っていく薬代とかでほとんどとんとんでしょ。赤字なのはこの診療所に患者が全然来ないからよ」
私の鋭い指摘に、ノイが何も言えずにぐうの音を漏らす。軽くなった財布を握り大きなため息をつきながらも、ちゃんと自分の仕事をするべく棚から私のカルテを取り出した。
「椅子に座って、コレット。診察するから」
「おねがいします」
うながされて、私は診察台のそばに置かれた椅子に座る。ようやく顎先まで伸びた亜麻色の髪を手ぐしでととのえ、前髪が目にかからないよう気をつける。毎日必ずつけているアメジストのピアスが、指先にあたって耳もとでゆらゆらと揺れた。
「目の見え具合は、どうだ?」
「ばっちりよ。家の窓からノイの診療所までしっかり見えるわ」
「目が乾くとか、涙が出るとか、そういう症状は?」
「とくにないと思う。ただ、やっぱりたまに変なものが見える」
診察に、ノイは明かりを使わない。自分自身の瞳が放つ明るさで十分らしく、その太陽の瞳を見開きながら私の瞳を覗きこんでくる。まぶしくて細めそうになるのをその太い指先で強引にこじ開けられるのももういつものことで、毎日診察を続けるうちに、彼もだいぶ遠慮がなくなってきたように思う。
「買い物に行ったりするとね、なんだか人混みと一緒に黒いものが見えるの。でもそれを目で追いかけたらどこにもいなくて……ひとりできょろきょろしてるから、なんだか怪しい子に見えちゃうみたい」
「それは……虫が飛んでいたとかじゃないのか?」
「違うってば」
私がむきになると、まぶたから手を離したノイがくすくすと笑いながらカルテに書き込みはじめる。ちらりと覗きこめば、私が話したことをちゃんと書き留めてくれていた。
「幻覚の回数が、増えてるのが気になるな」
銀の瞳になってから、私は幻覚を見ることが増えた。
幻覚といっても、小さな虫が飛んでいるとか、自分でも変だとわかるものだから惑わされることはない。ただ、その原因がなんなのかノイも突き止められずにいるようだった。
「ま、あれだけ正確な請求書あげられるんだし、頭には問題ないと思うけど」
「頭はいたって正常よ」
「どうかな。瞳が悪いと思っても、実は頭の中が変なものを見せてるかもしれないぞ」
私の頭を、ノイが乱暴に撫でる。短くなってくせ毛がいうことをきかない髪は、毎朝早起きをしてセットしているもの。それを乱されて怒る私を見て、ノイはやっぱり太陽のように笑う。
「診察終わり。今日も特に異常なしだ」
「変なものが見えるのは変わりないけどね」
「あと、なにか思い出したことがあったら、ちゃんとおれに言えよ」
カルテに記入しながら、ノイはそう言った。
「事故のショックで思い出せないこと、まだたくさんあるだろ。すこしずつ思い出していくと思うから、なにかあったらすぐに言えよ」
「……うん」
一文字一文字、丁寧に書き綴られていく私のカルテ。真剣なまなざしでそれを書く彼の横顔を見つめながら、私は素直にうなずいた。
「事故のこと、思い出したらやっぱり辛いと思う。だから無理して思い出そうとはしなくていいから」
「うん。辛くなったら、ノイに言う」
私が光を失う原因になった事故は、ここ最近多発している野火だった。
でも、私はその時のことを覚えていない。
私の治療をしてくれたノイが教えてくれたことは、私が野火に巻き込まれてしまったということ。その際に、長く伸ばした髪に火がつき、目が熱で傷ついてしまったということ。もとはアメジストのピアスとよく似たすみれ色の瞳が、熱で変質して白濁してしまい、それで失明してしまったのだと、ノイは書き記していたカルテを読み上げ説明してくれた。
その時のことを、私はなにひとつ覚えていない。事故のショックでしかたないとノイは言う。けれど何かの拍子で突然思い出すことがあるから、もし辛くなったら言うようにと、何度も何度も繰り返し言われていた。
「さ、次の患者は誰かな。今日も患者さん来てくれるかな」
事故の時の話を、ノイは意図的にあっさりと終わらせた。そして椅子から立ち上がり、私に水玉模様のエプロンを手渡す。私がそれを受け取ると、彼は満足そうにうなずいた。
「じゃあ、今日もよろしくな」
「うん」
瞳の検診とともに、私は毎日、彼一人しかいない診療所の手伝いをしている。
魔術の心得も医療の知識もない私にできることといえば、お茶くみや掃除くらいだけで、役に立っているかはわからない。だから周囲の人にノイの腕の良さを広めようと頑張って宣伝しているのだけど、その効果もさっぱり出てくれそうになかった。
この町で、ノイの診療所に足を運んでくれる人はほとんどいない。それはこの診療所が、心臓破りの長い坂道をのぼらなければいけないのもある。農作業をするみんなは膝や腰などあちこち痛めることが多いから、なにかと病院のお世話にはなるはずなのだけど、ノイのことを話しても痛み止めを買ってきてほしいとおつかいを頼まれるばかりだった。
「今のうちに薬作っちゃうから、コレット、手伝ってくれ」
「うん、わかった」
ノイが白衣を脱いで作業用のエプロンをつけたのを見て、私も作業に必要な道具を集める。まな板に、包丁に、ボウルに鍋。まるでふたりで料理をするようだけど、これがれっきとしたノイの魔法なのだった。
手始めに、ノイが戸棚に並ぶ薬草の入った瓶から、必要なものを選んで取り出す。その隣で、私が夏みかんの皮を剥く。とれたての夏みかんは、指で穴をあけただけで甘酸っぱい香りが部屋いっぱいに広がって、その香りにノイの口もとがほころんでいく。彼は夏みかんが好きなのだ。
皮と実を選り分けて、分厚い皮を包丁で細かく刻んでいくと、ノイはすり鉢に入れた様々な薬草にさらに夏みかんの種を入れて細かくすりつぶしていく。先ほどまでの甘酸っぱい香りが薬草の苦々しい香りに一気に打ち消されて、その刺激臭に思わず涙が浮かんでくるけど、ノイは表情一つ変えずに手でほぐした身と刻んだ皮を鍋に入れ、最後に粉状になった薬草を豪快に入れる。舞い上がるそれに私がくしゃみをすると、「ちゃんと手をあてろ」と怒られた。
「だって、すごいにおいなんだもん」
「このにおいがないと、患者の痛みはなくならないぞ」
「それは困る」
目に浮かぶ涙を必死に拭い、私は鍋をノイに渡す。自分に手伝えるのはここまで。あとは、彼だけにしかできないことだった。
ノイの作る薬は、基本、どこの家庭の食卓にも並ぶような野菜や果物をもとにして作られることが多い。いろいろな国の様々な医学を勉強した彼は、作物がそれぞれ持つ薬のような効能と、それが最大限に引き出される旬の時期を活かして薬を作る。たとえば冬の時期によく飲む生姜湯の生姜を使って、凍傷によく効く薬を作ったりする。とても効能があるとは思えない大根を使って薬を作ると聞いた時は半信半疑だったけど、出来上がった胃薬は二日酔いのお父さんに効果てき面だった。