8.髪と噂
サラとの「勉強会」は場所を毎回変えて行われることとなった。
ある時は街中を歩いて探索しながら買い物を楽しんだり、またある時は街で評判の食堂で昼食を食べたり、サラが急患を見なくてはいけない時は傍らで彼女の仕事振りを見学したりだの、内容は勉強会の名とは到底程遠いものであった。
これはエレスに人々が送る日々を直に体験させて、何か体が覚えていることがないかどうか明らかにしようというサラの目論見だった。そうしてエレスの記憶回復に繋がる糸口をありとあらゆる所から探ろうとしたのだ。たとえ記憶がすぐに、もしくは永遠に、戻ることがなかったとしても、これからエレスが生きていく為の人生選択に役立つのではないかとサラは考えていた。
サラは優秀な治療師で街中の人々と知り合いらしく、十歩歩くごとに人々に話しかけられた。その度にサラがエレスを紹介したので幾度と無くエレスは笑顔で同じ挨拶を繰り返さなければならなかった。
街へ出る前にはエレスは自分の素性をなんとかする必要があった。色々考えた挙句、リアムの居る宮殿に出入りする為の身分として、サラの故郷の縁者であれば自然だろうということに落ち着いた。
人々はエレスを暖かく受け入れた。
若くて可愛らしい女はいつでもどこでも男達の注目の的となりうる存在だった。尚且つエレスに決まった相手がいないという事実はあっという間に人々の話の種となり、外を歩く度に独り身の男達の熱烈な視線を受ける羽目となった。視線だけで済んだのは隣に並んで歩くサラの存在と、チェルシー、デニーと一緒に暮らしているという事実があった故であった。
三人は王太子と親しい存在であり、チェルシーとデニーはなにやら街では有名な夫婦で一目置かれる存在でもあった。
よって、行動を起こして自滅したくない男達はただエレスを遠くから見つめるだけしか出来なかった。それでも中には勇気と骨のある男達もいることにはいたのだが、ある時はサラの柔らかな物腰と恐ろしいほどの眼力によって彼らは途中で踵を返す羽目になり、またある時は物陰から黒の影が男達の腕を掴み、路地裏へと連れ込んだ。こういった虫除けがエレスを取り巻いていたので、彼女がその哀れな男達に気づくことはなかった。
ある夜、サラはエレスを夕食に誘い、婚約者であるジャスティン・クロスを紹介した。ジャスティンはすらりとした長身で金に茶色がかった髪の持ち主だった。丸い眼鏡の奥から明るい茶色の瞳が優しく細められ、サラと何処と無しか似ている柔らかな微笑みでエレスを温かく歓迎した。
「教師、ですか」
「そう。だいたい4歳から12歳くらいまでの子ども達を教えてるんだよ」
「ああ、ジャスティン。エレスに一度見学してもらいたいんだけど、いいかな?」
今晩は患者の一人が元気になったお礼にたくさん南瓜を届けてくれたのでそれを使った品々がテーブルを彩った。エレスも少し手伝った乾燥えんどう豆と南瓜のスープはジャスティンに絶賛され、彼のスプーンを運ぶ手は止まることがない。
「いつでもいいよ。今や街で一番噂になっている人が見学に来るなら子ども達は大歓迎すると思うよ」
「噂になっているって……どう意味ですか?」
「ジャスティン!」
サラのジャスティンを非難する声とエレスの質問は同時だった。
ジャスティンはしまった、とばかりにずり落ちた眼鏡を指で押し上げ、片手で婚約者の手を握って謝る仕草を見せた。そうしてエレスの方に向き直り軽く咳払いをした後、低く唸った。愛しい婚約者の怒りをこれ以上買うような余計な事が自らの口から零れ落ちるのを防ごうとして、ジャスティンはサラの方を横目で見る。
サラはその視線を受け取り、呆れたように溜め息をついて口を開いた。
「いつか話さなくては……とは思っていたのですが――――エレスさんの髪のことです」
サラは少し言いにくそうに切り出す。あまり見られる光景ではないのでエレスは少し不安になり、身構えてサラの続きを待った。
「その……男女が十五歳で成人と認められてから二つ、慣習として受け継がれていることがあるんです。未婚男性の場合、耳飾りをつけること。結婚を約束する時に相手の女性にその耳飾りを渡します。その飾りはそのまま女性の耳を飾ってもいいですし、ただ持っているだけでもいいのです。最近では加工を加えて首飾りとして使うのが女性の間では人気です」
「僕のもサラが首飾りとして使おうとして、ちょっと手を加えている最中なんだよ」
人差し指を胸の前に翳してサラがジャスティンを黙らせる。彼は少し肩を竦めると再びスプーンを口に運んだ。
「そして、女性の場合、髪を結わず長く伸ばすというのは未婚という証で……その……男性に対して恋人を募集していますという意思表示でもあるんです」
サラが一瞬間を置いてから最後まで言い切った後、エレスは片手を頭にやり煉瓦色の髪を一房掴んだ。真っ直ぐで癖のない髪は手を開けばさらりと滑り落ちる。
結わず、長い、髪……!?
「それって、私のことです、よね。どう考えても」
そうか。サラと街を歩く度に視線を感じたのはこの髪のせいだったのか。 いくら知らなかったとはいえ、外へ出る度に人々に自分は恋人がいないということを高らかに宣言していたのだ。言葉にしなくとも。エレスは顔が恥ずかしさで赤くなってくるのが手に取るように分かった。
ああ、なんてこと!
「近い内に話さなければ、と思ってはいたんです。もちろんエレスさんが恋人や配偶者がいたかどうかを覚えていないのは知っています。髪が長いところを見ると、もしかしたら配偶者はいなかったのだろうと推測しました。ああ、既婚の女性はだいたい髪を短く切るんですよ。例外もありますが」
「そういえば、チェルシーさんの髪は短い……」
「そう。それで、エレスさんの場合、過去が分からないのに今、髪を切ったり結ったりしたら、記憶が戻った時に困るかなと思ったんです。そして、この慣習を伝えたら戸惑わせるのが分かっていたから……ちょっと言い兼ねていたんです。ごめんなさいね」
「噂になったのは髪のこともあるけどね、サラと共に行動していることや、チェルシーとデニーと暮らしていることも関係してるかな。三人はリアム様と親しいし、未婚の女性達はエレスがリアム様の恋人なんじゃないかって心配しているみたいなんだよ」
エレスは南瓜のパイが載った皿を取り落としそうになる。それを間一髪でジャスティンが受け止め、そのままパイを切り分けるのは彼が引き受けた。 サラはテーブルにあった夕食の残りを下げ始め、お茶を入れるために席を立った。
窓に映った自分の姿を見つめる。煉瓦色の髪は長く、背中で揺れていた。
この髪が色んな人を一喜一憂させているなんて思ってもみなかった。
サラに紹介される人々や街の様子に触れる度に嬉しくて楽しい毎日だったのに、裏でその人々は自分の事を話の種にして騒いでいたのだ。
恥ずかしさの他に何やら言い様がない思いがエレスの胸に込み上げた。時々、若い女達からの視線が痛いほど感じたのは、嫉妬されていたのだろうか。そういえば、何人か男が声を掛けてきたのは、きっと髪を見たからなのだろう。てっきりサラの知り合いかと思っていたのに。
「エレスさん、パイとお茶の用意が出来たよ」
ジャスティンが後ろで優しく声をかけた。振り返ればサラはもう席に戻っていてエレスにぎこちない微笑みを向けた。
「その……どうしたらいいと思いますか。確かに、私に配偶者や恋人がいたかどうかは覚えていません。それならいっそ結ったり切ったりした方が周りの人を悩ませなくていいのかもしれません……」
「私の考えとしては、このまま人々の噂に乗っかってしまうのもいいのかなと思ってます」
「エレスさんを知ってる人がその噂を聞いて現れるのを期待してるんだよ、そうだよね、サラ?」
「そうなんだけど、エレスさんが周りの人にむやみやたらに近づかれたり、不快に思ったりするような事があるかもしれないし……。んーどっちがいいのか決めかねてるわ」
三人がお茶とパイを食べ終わった頃、外から扉を叩く音が室内に響いた。
ジャスティンが来訪者を確認する為、席を立つ。もう外は闇に包まれていた。いくら家がここから近いとはいえ、一人で帰るには少し心細い。後でジャスティンに送ってもらえないか聞いてみようと思っていると、居間にジャスティンと客人が入って来た。
「迎えに来た」
ラファだった。
一言呟くと、そのまま外へ出ていこうとする。エレスは慌てて二人に夕食に招待してくれた礼を言うとラファを追いかけた。明日は王宮に行くようにサラがエレスに声を掛けると、エレスは振り返って手を振ってそれに答えた。
暗闇に石畳を駆ける足音が響く。家々の窓から漏れる明かりだけが頼りで、明かりがついていない家を通り過ぎる時は一瞬暗闇がエレスを包む。ラファは明かりの中で立ち止まってエレスを待っていた。エレスが追いつくとラファはエレスにちらりと視線を向け、二人は並んで歩き出した。
「ありがとう。迎えに来てくれて」
「チェルシーが行けとうるさかっただけだ」
「それでも、ありがとう。いつもラファさんに助けられてばかりですね」
「……楽しかったか?」
「えっ?」
「初めてだったろう、サラの家に行ったのは」
ラファから何か質問されたのは初めてであった。いつもこちらから話しかけるばかりでその返答もそっけないものばかりだったので中々会話が続くことがなかった。だが今、ラファは自分との会話をしようとしてくれている。 エレスは顔が緩んで笑顔になった。
「はい! 夕食のお手伝いをして、一緒に頂きました。ジャスティンさんに初めてお会いしました。今度、子ども達が学んでいる所を見学させてもらえそうです」
エレスは今晩のことを止めどなくラファに話した。
最近の出来事、見たもの、聞いたことまで。どことなしかラファを包んでいる黒は柔らかく見えたし、表情も優しかった。相変わらず返ってくる答えは短いものばかりだったが、それは会話を終わらせるものではなかったのが余計にエレスを嬉しくさせた。
きっとラファにとってはつまらない話だっただろう。しかし、角を曲がって二人の家が視界に入ってくるまでエレスは話し続けた。自分が街の噂になっている話や髪の事以外は。
家の前まで来ると、ラファはこのままリアムの所へ戻るとエレスに告げた。
「明日は王宮へ伺う予定なので、そちらで会えますね」
「そうだな」
「じゃあ、おやすみなさい」
向きを変えて家に入ろうと扉に手を掛けた瞬間、ラファがエレスの髪を一房手に取った。
――――え?
「髪、半分結って残りを垂らせばいいんじゃないか。そうすればどうとでも誤魔化せる」
ラファはそう小さく呟くとエレスが振り返る間もなく暗闇に消えた。ラファが触れた辺りに手をやって、エレスはしばらく扉の前から動けずに佇んでいた。