4.昼食会 I
サラからもう起きて大丈夫だとお墨付きをもらったのは、リアムと会って2日後のことだった。その翌日朝早くにリュークのふさふさした尻尾が顔に当たって目覚めを余儀なくされた。隣室にいるチェルシーを起こさないようなるべく音を立てずにベットから降りる。そして出窓に腰をかけて外に目をやった。
ここは街の中なんだろうな、と昼間に外から聞こえてくる様々な声や音からエレスはそう想像していた。時折大きな声で客を呼び込む声。男と女の痴話喧嘩。馬と車輪の音。子どもたちが追いかけっこをする声。酔っぱらい達の歌声。弦が紡ぐ優雅な旋律。
それらはまだ朝の靄が濃い今は聞こえてこない。
丸めた両手に息を吹きかけて自分の外套を羽織る。今着ているのはそのままで寝ても部屋の中で動きまわってもどちらでもいい簡素な薄い緑色の室内着だった。
リアムが少し着るものを用意してくれたのだが、それらは肌触りのいい、見るからに上品で豪華なものばかりだった。だが、自分には不釣合いな気がしてそれらには手をつけていなかった。そうするとじゃあ、あまりに着るものがないだろうということで、自分のお古なのですが……とサラが恥ずかしそうにエレスの前に差し出してくれたものは、とてもお古には思えないほどいい状態だった。色が好みであったしなにより凝った装飾がほとんどなくて、何もない自分にはお似合いだと思って好んで着ていた。私達の趣味は似ていますねとサラは笑って、何点か見繕っておきますねと言ってくれた。
自分が着ていた外套を少し肌寒い時に体に羽織った。記憶があった時の自分を知っているだろう数少ない自分の持ち物は宝物のようだった。自分が選んだのかどうかさえ覚えていないが、過去との唯一のつながりとして、いつも側に身に着けておきたかった。
「リアム様がお昼を一緒にしないかって言ってるけどね、どうする?」
朝食のりんごジュースを渡しながら、チェルシーがエレスに聞いた。
「ここでですか?」
「今日は天気がいいし、庭に出てみないかと思っているんだけどね。せっかくサラからお許しがでたんだし。デニーが丹誠込めた庭が綺麗だよ」
デニーはこの家で主に庭師として働くチェルシーの夫だった。
強面で大柄の巨体をゆさゆさと左右に振ってエレスの部屋に入ってきた時、デニーのすぐ後ろからついて来ていたチェルシーが見えなければ、両手をあげてごめんなさいと泣きそうになるくらい怖かった。
ベッドの側に飾られてある色とりどりの水々しい花はデニーが庭で育てたものだと、チェルシーが彼の髪のない頭を撫でながら朗らかに大声で笑うと、デニーは顔を赤く染めてエレスに頷いてみせた。
デニーの庭を見てみたかったし、なによりリアムに会ってお礼を言わなくてはとエレスは思っていた。初めて会った時は目覚めたばかりで混乱している所もあったし、彼に疑われているという思いもあって上手く話せなかった。聞きたいことも山のようにあってちょうどいい機会だと思い、チェルシーにリアムと一緒に昼食を取ると伝えた。
案内された庭は決して大きくはなかったが、画家が理想の庭を描いたようで、訪れる者の心を奪った。隅々まで手が行き届いていて、花の色配合がとても可愛らしかった。小さな噴水では鳥達が水浴びを楽しみ、木の枝に設置されてある小さな餌箱には訪問者が絶えることはない。庭の隅に置かれた木製の腰掛けには花と鳥の彫刻が繊細に施されてあり、俺の大好きな鳥で、ハチドリだ、と小声でデニーがエレスに教えた。それからエレスの両手に幾つか小さな葉を落とし、これでお茶を作ろうと微笑んだ。
デニーがエレスに案内している間、いつの間にか到着していたリアムが二人の背後でくすくすと笑い声を上げた。
「デニーの庭はかわいいでしょう。まったくどうやったらこの外見でこんな素敵な庭が作れるんでしょうね」
「リアム様。お迎えもしませんですみませんでした」
「いいよ、いいよ。僕にもそのお茶を貰えると嬉しいな、デニー」
「すぐチェルシーと準備しますんで」
エレスは手の中にあった香り豊かな葉をデニーに渡すと、彼はそのまま室内へ入って行った。
「サラから聞いたよ。もうすっかり良くなったようだね」
「はい。もう起きてもいいと言われました」
「サラは怖いでしょう。まったく、デニーとサラの性格は反対の方が外見と結びついて人の混乱を防止できると思いませんか」
リアムは片目を瞑ってエレスに微笑む。
「二人とも何も分からない私の為にとても良くしてくれています。お礼を言っても言い足りないくらい。でも、お二人の主であるリアム様に本当はお礼を一番に言わなくてはいけないのに――――」
リアムは片手をあげてエレスの言葉を遮る。
「リアム」
「えっ?」
「様はいらない」
「でも……?」
「私はあなたの主になった覚えはない。昔も今もこれからも」
「でも、私には何もないんです。親も兄弟も身分も。持ち物と言ったら着ていた少しの服しか。助けて下さった上にここに置いて下さっているのはあなたです。言葉でしかお礼をすることができません。せめて敬称くらい付けさせてください。それに……」
「それに?」
「王太子様だとサラに聞きました」
「ああ、おしゃべりだな、サラは」
「もし私になんらかの身分があったとしても、リアム……様以上の身分ではないはずです。リアム……様と呼ばなくてはいけないでしょう」
「そうか。エレスはけっこう堅苦しい性格なんだね」
リアムの言葉を数秒かけて咀嚼するとエレスの顔が一気に赤く染まった。口を開けて反論しようとすれば、リアムがすばやくエレスの右手を取ってその甲に口付ける。今度は耳まで赤くなるのが分かった。
「エレス、自分の年も覚えてないよね?きっと私たちは年が近いと思うんだ。私にはあんまり友人がいないんだよ。こんな身分のせいでね。エレスが友人になってくれると嬉しいし、ほら、友人には様なんてつけないだろう?」
「友人……?」
「そう。友人なら、相手が困っていたら助ける。エレスは記憶を無くして困っている。だから友人の私が助ける。どうかな?」
「でも、もしあなたが困ったら私なんかに何ができるでしょうか……」
「まぁ、その時はその時で考えるさ」
リアムに右手を拘束されたまま、エレスはチェルシーとデニーが用意してくれたテーブルへと促されるのだった。