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大樹が満ちる時  作者: 川乃 
第一章:出会い
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2.リアム・ホープ

 

 何か冷たいものが頬を撫でた。

 その心地よさにもっとこのままでいたいとエレスは思った。そうすると今度はひんやりとした何かが手を柔らかく包み込んだ。重い瞼をゆっくりと持ち上げる。


「あっ!」


 驚いた声にエレスの体がびくりと震える。


「気が付きましたね。どこか痛むところがありますか」


 ぼんやりとした視界がはっきりすると、エレスは自分がベッドの上に寝ていて、声の主がベッドの脇に立ち、自分の腕に手を添えているのが見えた。焦げ茶色の髪にお揃いの色の目を細めてにっこりと微笑んでいる。落ち着いた青色の服に金色の飾り紐が腰にゆるやかに巻かれてあって、とてもよく似合っていた。まるで子供を落ち着かせるようにエレスの髪を撫でている。撫でる手は小ぶりで、温かみのある笑顔には似合わずひんやりとした女の手だった。


「気分が良ければ、なにか飲み物か、温かいスープでも持って来ましょうね」

「あの…」


 すぐにでもそのまま部屋から去ってしまいかねないその女を引き止めたくて、勢い良くベッドから体を起こすが――――くらりと世界が揺れてそのままベッドに崩れ落ちた。


「ほら、急に体を起こしちゃだめですよ。3日も眠っていたのですから体がびっくりしたんだわ。私が戻るまでこのままでいてくださいね」


 そういって女はエレスの体にかけてあったキルトを首の所まで掛け直して部屋を出ていった。


 誰なんだろう……素敵な人……


 エレスは少しがっかりしていた。再び目覚めてもやはり自分の名前以外は何も覚えていないのだ。しかし、あの森でのことは覚えている。


 不思議な森で目覚めたこと。

 森で迷ったこと。

 喋る子リスと――直接口を動かして言葉を発するのではないが――出会って、なんとか森を抜け出したこと。

 川の水がとても綺麗で甘かったこと。

 それから……黒の男に会ったこと。


 どうやって助かったんだろう……


 男が何か叫んだのが聞こえて…そこから先が分からない。巨大な魚のようなものに飲まれてしまったと思ったが、どうやらそこで意識を失ったようだ。そして女が言うには3日も目を覚まさなかったらしい。誰かが川の氾濫から助けてだして、ここまで運んで面倒を見てくれたのだ。


 黒の人……か、な


 再びあの姿を思い出して、体が震えるのを覚えた。あの人も無事だろうか、助けてくれたのならお礼を言わなくては。でもなにより、


 もう一度会って話がしてみたい――――


 そう思った。そうして女が喉元まで引き上げてくれたキルトをさらに頭の上まで引き上げると、顔に熱がこもるのを感じた。






「リ……さま、もう少し――……でも――」


 しばらくするとさっきの女の声がちょうど扉の外から聞こえてきて、エレスはキルトを下げて顔を出す。それから3回叩く音がして扉が開かれた。

 エレスに言った通り、女は何か温かいものを持ってきたのだろう。手には木製の盆があり、薄く湯気が立ち上っている。表情にはどこか困惑したところが見えたが、エレスと目が合うとまた微笑んでみせた。


「スープを持って来ましたわ」


 ベッドの側にあった小さなテーブルにそのスープを置くと、エレスの背に幾つか大きな枕を差し入れて、体を優しく起こしてくれた。


「目覚めてすぐの所申し訳ありませんが、我が主がお会いしたいと申しております。構いませんか?」

「……はい」

「すこしの間だけですからね。じゃないとスープが覚めてしまうわ! もう、リアム様ったらいつも……」


 後半はブツブツと小声になってしまってエレスには上手く聞き取れなかったが、どうやら彼女の主を非難しているのだろう。再び扉を開けてから「どうぞ」と外で待ち構えている人に声をかけた。


「サラ、すまないね。少し話しをしたいだけだから。約束する。少しだよ」

「お願いします、リアム様」


 女と入れ違いに部屋に入ってきたのは長身の男だった。

 肩の下まであるだろう少し癖のある栗色の髪を綺麗に一つに纏め、背中に流してある。茶色の瞳を一瞬大きく見開き、そしてそれを少し細めて微笑んだ。エレスもつられて微笑んでしまいそうになるのに気がついて口元を引き締める。

 男はゆっくりとベッドに近づき、エレスの足元まで来て立ち止まる。その間、一瞬足りとも視線は振れなかった。茶色の瞳に金色が少し混じり、まるで獣が獲物を逃すまいとしているようだ。その視線とは対照的に銀の鎖つなぎである耳飾りが男の左耳で数回揺れた。


「目覚めてすぐの所悪かったね。気分はどう?」

「少し目眩がしますが、気分は悪くはないです」

「そう、良かった。サラが怒っているから今は手短に聞きたいことだけにしておくよ」


 サラというのはさっきの優しい人のことだろうなと思い、男に頷いた。


「君は何者だ?」


 そう男が言った途端、二人の間の空気の流れが止まった。

 さきほどの顔の火照りが急に冷えて指先が痺れてくるのを感じる。

 男の瞳はエレスのものをとらえて逃がさない。

 嘘や誤魔化しは通用しないのだ。

 部屋に入ってすぐ見せたあの微笑みと今の男の表情は光と影くらいかけ離れている。

 エレスは自分の声が恐怖で振れないといいなと思いながら口を開く。


「エレス」

「エレス?」

「そう、エレス。私の名前です」

「エレス……何?」

「分からない」

「分からない?」

「名しか覚えていない。姓はあるのかないのかも覚えていない。その他のことも覚えていない。自分が何者かと聞かれれば、エレスとしか答えようがないのです」

「何も覚えていない……?」


 男の質問に頷くことで答える。男は口を一旦開けて何も言葉を発しないまま閉じた。何か言いたそうにしていたが思考が定まっていない様子だった。


 そこへ沈黙を破るように突然チチチと音がして、少し開いたままになっていた扉から何かが滑るこむように入って来た。茶と白の縞リスだ。


「あなたは!」


 ベッドの上に飛び込んできた子リスを前のめりになって迎え入れる。エレスの瞳に急に暖かいものが浮かんできた。それを零れ落とさないようにと指で軽く拭う。子リスはエレスの膝の上に来ると前足を浮かべて後ろ足で体を支えた。


「無事だったのね。あなたが私を助けてくれたの?」

((違う、番人だ))

「番人?」

「ああ、ラファのことだね」


 エレスは子リスにまた会えたことが嬉しくて、側にいた男のことを一瞬忘れていた。再び目が合えば、エレスの心を冷やした表情はそこにはなかった。

 男は再び暖かい微笑みをエレスに向ける。


「君は私が危惧したような者ではなさそうだ。今はそれが分かればいい。君の体が癒えてから再び話をしよう。あまり長居をしてサラに雷を落とされたくないしね」


 男はそう言うとエレスに片目を瞑ってみせ、手のひらに丸い実のようなものを乗せて子リスに差し出した。

 嬉しそうな声を上げて子リスはその実を小さな前足で掴み、器用に何回か回転させて噛り始める。

 男は「クルミだよ」とエレスの疑問に答えるように呟いてそのまま扉の方へ歩き出した。


「あの、あなたは!」


 ちょうど扉を大きく開けて部屋を出ようと男が取っ手に手をかけたところで声をかけた。男の手はそのままで上半身だけをエレスの方へ向ける。


「リアム・ホープだよ。ゆっくりお休み、エレス」


 サラが扉の外で待っていたのだろう。二人の声がしたが内容まで聞き取れず、子リスがクルミをすべてその両頬に納めてしまった後に外は静かになって、再びサラが部屋に入ってきた。

 器に寄せられたスープはもう熱くはなかったがエレスには飲みやすく、冷えた心や指先を温めてくれるには十分だった。

 半分もなくならないうちに瞼が重くなってくるのを感じ、そのまま眠りに落ちてしまった――――リアムの耳飾りがなぜか綺麗な青緑の光を放っていて、それはあの川の輝きに似ていたなと思いながら。

 




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