1.黒の男
深く長い夢から急に手を引かれるように浮上した、そんな感覚だった。
何か冷たいものが顔にかかった気がして手を額にやると少し濡れている。
雨だろうかと思いつつ、ゆっくり瞼を開けてぼんやりとした視界がはっきりした時、一番に目に飛び込んできたのは明るい緑。木々の隙間から暖かい光が溢れていた。
えっ?
見知っている空ではない。
こんな緑が空高く在る景色を見たことがない。
そこにあるだろうと期待していたのはただ限りなく広がる青。そして転々と白の模様を描く雲。その二点のみだったはず。だがそれらは今、緑の隙間に少しだけ顔を覗かせているだけだ。
突然、パキリと乾いた小枝が折れる音がして全身を強張らせた。おそるおそる視線を音の方向に向ければ、茶色と白の縞子リスがしまった、見つかった! とばかりに目を大きくさせて、こちらを見つめている。
視点が交じり合った瞬間、子リスは小さな両手に持っていた木の実をゴトリと大きな音を立ててその場に落とし、一目散に逃げていく。土の上に横たえていた体を急いで起こすが、その訪問者は待ってくれない。
小さな姿はあっという間に見えなくなってしまった。
ま、待って!
声を出そうとして喉にピリッと痛みが走った。ケホッと空咳がでる。いつから水を飲んでいないんだろう。とにかく喉を潤さなければ。
ここって、どこ……?
辺りを見回し耳を澄ませてみるが、人の気配はない。視界に入ってきたのは、自分の背丈よりも遥かに高く、両手で抱えきれないくらい太い幹の木々。負けじと地面から背を伸ばす青草。それらは手を広げたような形で、一見硬そうに見えたが触ってみると柔らかく、手のひらに纏わりつく感触だった。
そうだ。たしかこの葉は切り傷に効くのでは? えっと、名前は……
ここではっとする。
その葉の名前は覚えていない。
そして、覚えていないのはそんなことだけではないと気づいたのだ。
何も覚えていない。
どうしてここで寝ていたのか。
昨日何をしてここで寝る羽目になったのか。
ただ今はっきりと分かるのは自分の名前、エレス。これだけしか分からない。
家、分からない。自分の街、分からない。
父、母……分からない。兄弟姉妹? 恋人? 分からない、分からない、分からない!
こんなことがあるだろうか。
自分の名前は分かるのに、他は何も覚えていないなんて。夢をみているんだろうか。そうだ、きっとこれは夢に違いない。
こんな楽しくない夢から目を覚まさなければと、頭を左右に激しく振る。 煉瓦色の髪が濡れた額に張り付き、そしてまた残りの髪は両耳の前にさらりと流れた。胸元まである髪が視界に入って違和感を覚える。
こんな色だったかな……
さらさらと癖のない真っ直ぐで指通りのいい感触は手が覚えている。だが、色だけはなぜか違うような気がしてならないが――――分からない。
考えても考えても、何も分からないのだ。
少し頭痛がしてきてそれをなんとか誤魔化そうと手でこめかみを抑えながら、とにかく歩かなければと思った。ここでじっとして自分の災難を嘆いても何も始まらない。誰か人に会うことさえ出来ればそこから何かが分かるかもしれない。
服についた土を簡単に叩いたところでようやく初めて自分がどんな格好をしているのかに気がついた。
茶色の革長靴は土で汚れているとはいえ、歩きやすく足によく馴染んでいた。格好を眺めてどこか旅人だとようだと思ったのは帽子がついている外套のせいだろう。膝が隠れるまでの長さで体をすっぽり包み込んでくれてとても暖かい。膝下まで編み上げてある靴の紐をきつく締め直し、ゆっくり歩き出した。
「ここはさっき通ったところなんじゃ……」
目線と同じ高さにある細い枝が二本折られてある。わざと半分だけ折られ、空中にぶら下がっているのだ。
三回同じ場所に帰ってきた後、何か目印をつけなくてはこの森から出られそうにないと気づき、枝を何本か折って進んだのはもう随分前。
歩き始めてから木々の間から零れ落ちる陽の光の量が減ったと感じて少し焦っていた。風も心なしか冷たくなってきた。先ほどから遠くの方で何かの遠吠えが聞こえている。このまま夜を迎えてその遠吠えの主と出会うのだけは避けたいと、先へ先へ進む足が早くなる。
だが気が動転している時は何をやっても上手くはいかない。そうして五回目にまた同じ場所に帰ってきて自分が折った枝を見た時、もうここから出られないのだと思ったら体が小刻みに震えだした。
その時、
((こっちだよ、こっち))
誰かが耳元で優しく囁いたような気がした。
体を抱きかかえるようにしてその場に蹲っていたエレスの耳元で、再び誰かが囁く。
((こっちだってば))
顔上げると、目の前には先ほどエレスの存在に恐れをなして逃げ出した子リスの姿があった。視線が合った瞬間、子リスは後ろ足で体全体を支え、前足を宙に浮かべた。
「戻ってきたの?」
子リスを怖がらせない様に注意しながらそっと手を差し伸べる。その手が子リスに触れるか触れないかのところでまた同じ声が聞こえてきた。
((ついてきて))
声はそう告げると、子リスはくるりと方向を変えて走りだした。
エレスに迷っている余裕はなかった。そしてついて行かないという選択肢もなかった。この機会を逃せば自分はここから絶対に出られないということは確実だったし、なぜ、どうしてと考えても記憶のない今の自分に答えなど見つけられない。
とにかくその小さな身体を見失わないようにエレスも駆け出した。
いくら速度を上げてもその度に子リスも同じように速度を上げるらしく、お互いの距離は一定の間を保ったまま変わらなかった。エレスが走れば子リスも走り、息が上がってもう走れないと歩き始めれば子リスも歩いた。
どうやら先ほどの場所からは脱げ出せたのだろう。頬に感じる空気はさらに冷たくて、周りに見える緑の種類も多くなってきた。道の脇には綺麗な赤紫の丸い実がついた木がちらほら生えていて、それらに出会う度にその実から醸し出される甘い匂いがエレスの鼻をかすめた。
急にズルリと地面のぬかるみに足を取られ、なんとか転ぶことを回避して、変だなとエレスは思う。今まで歩いてきた所は比較的地面は乾いていて歩きやすかったのだ。だんだんと地面に水を含んでいる所が多くなって、気をつけて下を見ながら歩かないと滑ってしまいかねない。
そうして注意深く歩いている間、子リスは器用にもぬかるみを飛び越えたり、脇にある木々にすばやく登って枝から枝へ飛び、そしてまたエレスの正面に戻ってきて歩きだすというのを何回か繰り返していた。
なんだろう、何か聞こえる。
下に向けていた顔を上げるとそこに今まであった緑はなく、光が目に勢い良く飛び込んでくる。あまりの眩しさに顔を背けて、目を庇うように手を額にあてて影を作ってやる。ゆっくりと目が光に慣れると同時に、先ほど聞こえた音の正体が目の前に広がる。
ああ、よかった。川だわ!
あまり深いように見えないのは水の透明度が高く、底の小石がはっきりと見えるせいだろうか。所々大きな石があり、水の流れの角度を変えた所からは水飛沫が上がっている。水面は幾つもの色が混じり、陽の光を受けて宝石のように輝いている。川の流れは遅く、手を水に浸すと今まで歩いて熱を持った体を冷ましてくれるようだった。両手で水を掬い、乾いて痛みをもった喉を潤す。一口、二口と水を飲み込むと、目覚めてからずっと続いていた痛みはすぐに引き、口の中に甘い匂いが広がってエレスの顔を綻ばせた。
二度目に両手を水に浸した時であった。
川の流れがさっきより早くなったと気づいて顔を上げると、エレスの隣で顔を川に近づけて水を飲んでいた子リスも何かに気づいたようだった。川の向こう岸を身動きもせず、じっと見つめている。
「どうしたの?」
((番人がいる))
「え?……番人?」
子リスの視線のある方向をゆっくり辿るようにして向こう岸に視線をやった瞬間、木々がざわざわと音を立て、黒い影が木々の間から飛び出した。
現れたのは全身黒に包まれた長身の男だった。
黒以外の色といえば、頭から爪先までありとあらゆる所につけた緑の葉や茶の枝だった。
男は煩わしそうに手でそれらを払い、全身を震わせて落とす。
まだ反対の岸にいるエレスと子リスの存在には気がついていない様子だ。エレスはようやく人に会えて嬉しいはずなのに声がかけられない。声がでない。
男の纏う黒に吸い寄せられて、目が離せない。
男が残った葉を落とそうと無造作に手で頭を掻くと、長い紐のようなものが反動で上下に動いた。ゆっくりと顔を上げ、川に視線をやり、そうしてやっと対岸のエレス達に気がついた。
二人の視線が絡み合う――――――
((逃げろ!))
耳元で子リスの焦った声がしたと同時に、ゴォォォォォと辺り一面に低い音が轟いた。
先ほどまでの水面の輝きは失せ、水の流れは止まり、水面は小刻みに揺れ始める。
「走れ!!!!!」
黒の男が叫ぶ。
だがその声は轟音にかき消されてエレスの耳には届かない。
水面が変化していく様子を見て、逃げなくては思う。
だが、足が地面に吸い付いて動かない。
体が震える。
再び低音が辺りに響いた時にようやく呪縛がとけたかのように、足が地面から離れた。
上流に視線を向けた時、巨大な水の塊が蠢きながらこちらに迫ってくるのが見えた。始めはただの塊でしかなかったのが、距離を縮めるにつれてその形は巨大な魚に変化する。どんどんと速度を上げ、大きく口を開けて、エレスを飲み込もうと迫ってくる。
「――――――!!!」
黒の男は叫ぶ。
その声に気づいて男を見ようとした時はすでに遅く、体は水に飲み込まれてしまった後だった。
はじめまして!
このお話を覗いて下さってありがとうございます。
誤字修正しました。内容の変更はありません。(9/23)