私の思い
あの場面、古ぼけたドア、ベル代わりのバケツ。
足らないもの、正解は標札。
彼は私が引っ越してくる頃にはすでにここにいた。
ちょうど三年前、この時期。
日数を追うごとに日差しが明るくなり、まだ昨日のことのようにと手のかじかんだ感覚を思い出しながら、部屋の中で一匹の虫を見つけた。その虫はろうそくの火のように安定しない体をふらふらさせ、私の持ってきた灰色のバックの上をひたすら回っていた。
天井はうっすらと茶渋の色のしみの影があって、白い壁紙には画鋲の跡が三、四個残っていた。
部屋には私、バック、虫しかいないけれど、もう少し、あと少ししたら、ここは大量の段ボール箱で埋め尽くされる。そうしたら、私は息苦しい気持ちを押さえ込みながら、パズルのピースを探していくように荷物の中に手を入れていく。
ああ。
何が好きでこんなことをしなきゃいけない?
壁にもたれ掛かりながら考える。
そりゃ大学行く為だけど。
いつの間にやら虫はどこか飛んで行ってしまって、だったら私も、と思って手のひらを大きく床についたら、床は思ったよりも滑って、鈍い音と共に視界がおかしく変わってしまった。
頬を冷たい床につけて、誰にも見られていないのに顔を指先で覆う。
恥ずかしい、そんなわけではない、やっぱり、恥ずかしい。
いや、多分今の状態を見ているのは虫だけだよ、なんて言葉で自分を励ます。
指の隙間からさびれた空間を覗く。
つまらない日常が大好き。だって何も変化しないんだもの。
友達も、両親も、同じことを繰り返していれば、それで、いい。
誕生日も来なくていい。誕生日ケーキを汚くしてしまうろうそくもいらない。
今日と全く同じことが明日来ればいい。
ニュースも今日と同じ事を繰り返していればいい。
なんで進もうとするの?私はこのままでいい。
そんなに急いで、霧の奥へいり込んで行って、昨日の思い出を美化するのはとても楽しい?
何も変化しなくていい。つまらなくて、充分。
人差し指をそっと動かした。見える物が黒く沈んでいった。
そうだ。
大事な事を思い出した。
礼儀、隣の住人に挨拶をする。
灰色のバッグの中には綺麗に包まれたお菓子が一箱だけ入っていた。
ここのアパートは二階建ての合計四部屋だったが、天井から足音が聞こえることはなかった。
大家さんは、この四部屋の中でたった一人、住んでいる若者がいるがいいかね、と言った。
もちろん、いや、むしろ、いないほうが嫌。
そうか、それならいいが。
大家さんは付け加えた。
なぜこのアパートに一人しかいないのか分かるかい?
知りません。
大家さんは困ったように、
あまり言いたくないんだが、五月蝿いから、なんだよ。
「ああ。」
ため息の代わりに情けない声が出てしまった。
その五月蝿い人に、お菓子を渡さなければいけないのか。
話を聞いたとき、辞めようかと思っていたけれど、私はここの家賃に相当ほれ込んでいたし、
それに、ほら、私は何時間かここにいるが、壁の奥からは何も聞こえてこない。
なんだ、きっと隣の人も大家さんに言われて丸くなったのね。
私はのっそり起き上がった。
だったら大量のダンボール箱が来る前にさっさと渡してしまいましょう。
灰色のバッグへと手を伸ばした。
変化しなくていいのに、どうしてそんなに私を前へと押すの?
淡い橙色に包まれた一つの箱を手に持つ。
これから、嫌なことがたくさんあるかもしれないのに、それでも面白がるつもり?
こうやって、思い入れのない場所へ来てしまった。
目標。現状、維持。
私は銀色のドアノブを触った。ぼやけた冷たさがゆっくりと皮膚に染み込んでいった。