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失敗予防接種――失敗しない子に育てたはずの息子が、卵を落とした日

掲載日:2026/05/20

一 失敗を打つ日


 息子の陽太が年長の秋、市から一通の封筒が届いた。


 小学校の就学時健康診断の案内と一緒に入っていた、もう一枚の紙だった。


 宛名は、高森沙也。


 つまり、私だった。


 封筒の表には、青い文字でこう印刷されていた。


『失敗予防接種のお知らせ』


 その下には、小さな字でこう続いていた。


『接種券在中。紛失した場合は再発行できますが、失敗そのものの再発行はできません』


 市役所は、ときどき冗談みたいな真顔をする。


 しかも、その冗談に公印を押してくる。


「失敗って、注射で防げるの?」


 陽太が、ダイニングテーブルの向こうで首をかしげた。


「防げるんじゃなくて、慣れるためのものみたい」


 私は説明書を読みながら答えた。


 正直に言うと、私にもよくわからなかった。


 市の案内によれば、失敗予防接種は、正式には「初期挫折耐性形成プログラム」という。


 名前が長い。


 制度名だけで、子どもなら一回泣ける。


 大人でも、二回読み返すころには軽く挫折する。


 小学校入学を控えた子どもに、小さな失敗を疑似体験させる。


 忘れ物。


 じゃんけんの負け。


 友達との言い合い。


 先生に名前を呼ばれて、答えを間違える経験。


 そういうものを、安全な範囲で少しずつ体験させることで、大きな挫折への耐性をつけるらしい。


 近年、初回の挫折で強いパニック反応を起こす児童が増えたため、市はこの制度を始めたという。


 転ばぬ先の杖。


 ただし、杖のほうが先に子どもを軽く転ばせてくる。


 説明書には、さらにこう書かれていた。


『本接種は、失敗しない子どもを作るものではありません。失敗しても戻れる子どもを育てるものです』


「注射、痛い?」


 陽太が腕を押さえた。


「針は使わないみたい。椅子に座って、映像と音と触覚で体験するんだって」


 市は、それでもこれを「接種」と呼んでいた。


 椅子に座るだけなのに接種。


 役所は、言葉の使い方でときどきこちらの耐性を試してくる。


「じゃあ、痛くない?」


「……少しだけ、恥ずかしい気持ちになるかも」


「いやだ」


 即答だった。


 私は返事に困った。


 親としては、こういうとき「大丈夫」「みんな受けるものだから」と言うべきなのだろう。


 けれど、私は言えなかった。


 私自身、失敗が苦手だった。


 小学校三年生のとき、音読で漢字を読み間違えたことがある。


 教室中が笑った。


 先生は「笑わないで」と言った。


 でも、笑い声は止まらなかった。


 それ以来、私は人前で本を読むのが嫌いになった。


 大人になってからも、会議で発言する前に原稿を作る。


 電話をかける前には、言うことをメモする。


 エラーを出さないための人生。


 それを、私は真面目さだと思っていた。


「受けなくても、いいんじゃないかな」


 私は、そう言ってしまった。


 陽太の顔がぱっと明るくなった。


「いいの?」


「任意接種って書いてあるから」


 書いてあった。


 ただし、太字でその下にこう続いていた。


『未接種の場合、就学後の初回失敗時に強い動揺を示すことがあります』


 私は、その一文を読まなかったことにした。


 読まなかったことにする技術は、大人になると自然に身につく。


 あまり、誇れる技術ではない。


二 失敗しない家


 それから二年あまり、私は陽太を失敗させないように育てた。


 ランドセルの中身は、前日の夜に二人で確認した。


 時間割アプリは、教科書の抜けを音で知らせてくれる。


 通知音が鳴るたび、私は神託を受けた巫女のようにランドセルへ走った。


 信仰対象は、連絡帳と時間割だった。


 鉛筆は常に三本。


 消しゴムは二個。


 体操服は月曜日の朝に玄関へ置く。


 給食袋は、洗濯乾燥機から出したらすぐにランドセルへ戻す。


 私は、自分で言うのもなんだが、よくやった。


 陽太は忘れ物をしなかった。


 宿題も出し忘れなかった。


 小テストで一問でも間違えたときは、翌朝までに類題を三枚解いた。


 陽太は「間違えた」のではない。


 私の中では、「次は満点を取る準備をした」ことになっていた。


 運動会の徒競走では、順位予測アプリを見て、無理のない目標を立てた。


 運動会まで予測する時代である。


 そのうち昼休みの転び方までシミュレーションされるかもしれない。


「三位以内なら、十分すごいよ」


 私はそう言った。


 陽太は本番で三位になった。


 私は泣きそうになった。


 その夜、夫の圭介が言った。


「陽太、たまには負けてもいいんじゃないか」


「負けたじゃない。三位だった」


「いや、そういうことじゃなくて」


 圭介は言葉を探した。


「全部、きれいに着地させすぎてる気がする」


「着地で転んだら、痛いでしょ」


「転ばないと、転んだときの起き方がわからない」


「転ばなければいい」


 私がそう言うと、圭介は黙った。


 たぶん、言い返したかったのだと思う。


 けれど、私たちは夫婦として長く暮らしている。


 相手が、どこから先は譲らないかを知っている。


 陽太は、失敗しない子になった。


 正確には、失敗が失敗として残る前に、私が全部回収していただけだった。


 我が家の危機管理室長は、母である私。


 部下は、時間割アプリとチェックリスト。


 予算は、睡眠時間だった。


 先生からも褒められた。


「高森くんは、本当にしっかりしています」


 連絡帳にそう書かれた日の夜、私は何度も読み返した。


 しっかりしている。


 失敗しない。


 それは、私にとって一番安心できる言葉だった。


 ただ、気になることもあった。


 陽太は、ゲームで負けそうになると電源を切る。


 人生にもリセットボタンがあると、どこかで思っているようだった。


 積み木が崩れそうになると、自分で壊す。


 漢字を一画間違えたら、ページごと破って書き直す。


「もう一回やればいいよ」


 私が言うと、陽太は首を振った。


「一回目じゃないと、だめ」


「どうして?」


「一回目が失敗したら、失敗したことになる」


 その言い方が少し気になった。


 でも、そのときの私は、まだ本気で心配していなかった。


 子どもは真面目なくらいがいい。


 私はそう思っていた。


三 卵が落ちた日


 事件は、小学二年生の生活科の調理体験で起きた。


 近未来の生活科には、食育体験という名札をつけた小さな家庭科が、こっそり混ざっている。


 正式には生活科。


 ただ、エプロンとフライパンと卵が出てきた時点で、保護者の脳内分類は家庭科になる。


 名札より、道具の説得力が強い。


 その日は、クラスで「朝ごはんを作ってみよう」という授業があった。


 メニューは卵焼き。


 保護者の見学もできたので、私は仕事を半休にして学校へ行った。


 調理室には、子どもたちの声が満ちていた。


 エプロンの紐が結べない子。


 卵を片手で割ろうとして、先生に止められる子。


 フライパンを前に、なぜか敬礼している子。


 全体的に、混乱していた。


 生活科というより、小規模な卵災害訓練だった。


 けれど、楽しそうだった。


 陽太は、手順表を見ながら動いていた。


 卵を持つ。


 ボウルのふちに当てる。


 ひびを入れる。


 両手で開く。


 私は窓際から見ていた。


 大丈夫。


 昨日、家で動画を三回見た。


 卵を割る練習はしていないが、手順は頭に入っている。


 練習で割って失敗したら嫌だから、本番まで卵は守られていた。


 卵にとっては過保護。


 陽太にとっては、もっと過保護。


 陽太ならできる。


 そう思った瞬間だった。


 卵が、床に落ちた。


 ぺしゃり、と小さな音がした。


 黄身が、白い床に広がった。


 調理室が、一瞬だけ静かになった。


 すぐに、隣の子が言った。


「あ、落ちた」


 誰かが笑った。


 悪意のある笑いではない。


 自分も落としそうだったから笑っただけだ。


 先生もすぐに来た。


「大丈夫。ペーパーで拭けばいいよ。予備の卵もあるから」


 それだけだった。


 それだけのことだった。


 でも、陽太は動かなかった。


 手を胸の前で固めたまま、床を見ていた。


「陽太?」


 私は思わず声をかけた。


 陽太の唇が震えた。


「戻して」


「え?」


「落とす前に、戻して」


 先生が膝をついた。


「高森くん、大丈夫だよ。もう一個あるから」


「違う」


 陽太は首を振った。


「落としたことを、戻して」


 その声を聞いたとき、私は初めて怖くなった。


 陽太は泣かなかった。


 怒りもしなかった。


 ただ、そこにいなかったことにしてほしい、という顔をしていた。


 調理室の床に落ちた卵より、そちらのほうがずっと壊れて見えた。


 その日は早退した。


 家に帰ってからも、陽太は布団にもぐったまま出てこなかった。


「学校、明日休む」


「明日は国語と図工だよ」


「もう行かない」


「卵を落としただけだよ」


 私がそう言った瞬間、陽太は布団の中で丸くなった。


「だけ、じゃない」


 小さな声だった。


「みんな見た」


 私は何も言えなくなった。


 子どもの失敗は、子どもにとって世界の終わりになることがある。


 私はそれを知っていたはずだった。


 知っていたから、避けてきた。


 避けてきたせいで、世界の終わり方だけを大きくしてしまった。


四 遅れてきた接種


 翌日、私は市の失敗予防接種センターに電話した。


 予約窓口の女性は、慣れた声で答えた。


「遅延接種ですね。最近、増えております」


「増えているんですか」


「はい。入学前に接種を見送られたご家庭が、小学校低学年から中学年にかけて来られることが多いです」


「今からでも、効きますか」


 少し間があった。


「効かせ方が、変わります」


 その言い方が気になった。


 それでも私は予約を入れた。


 センターは、市役所の隣にあった。


 白い建物で、入り口にはやわらかい丸文字でこう書かれている。


『失敗は、早めに少しずつ』


 虫歯予防標語みたいな顔で、人生のかなり深いところを突いてくる。


 隣には、予防接種らしいイラストが描かれていた。


 転んだ子どもが、膝を押さえながら立ち上がっている。


 その横で、大人が手を出さずに見守っていた。


 私は、その絵をしばらく見てしまった。


 手を出さずに見守る。


 親にとって、これはかなり難しい。


 待合室には、いろいろな親子がいた。


 通知表の「よくできました」以外を初めて見て泣いた子。


 サッカーの試合で補欠になり、ユニフォームを捨てた子。


 就職活動で第一志望の会社に落ちて、三日間スマホを握ったまま動かなくなった青年。


 青年は、明らかに子どもではなかった。


 その隣で母親らしい女性が受付票を書いていた。


 受付票には「失敗の種類」という欄がある。


 人生を一行で分類されると、人はだいたい黙る。


(二十歳を過ぎても、親は接種に付き添うのか)


 笑えなかった。


 私も、たぶん、同じ顔をしていた。


 診察室に呼ばれると、白衣の女性医師が座っていた。


 名札には「折原」とある。


「高森陽太くんですね。今日は、卵を落とした件で」


 陽太が私の後ろに隠れた。


「はい」


 私が答えた。


「入学前の接種は見送り、と」


「私が、受けなくていいと言いました」


「理由を伺っても?」


「痛い思いをさせたくなかったんです」


 折原先生は、責めるでもなく頷いた。


「多い理由です」


「多いんですか」


「はい。保護者の方は、子どもが泣くのを見たくありませんから」


 私は膝の上で手を握った。


 陽太が、私の袖をつかんでいる。


「今から接種すれば、平気になりますか」


 私が聞くと、折原先生は首を横に振った。


「平気にはなりません」


「え」


「失敗しても平気な人間は、あまりよくありません。人の失敗にも平気になりますから」


 言葉が、すっと胸に入ってきた。


「この接種は、失敗が痛くなくなるものではありません。痛いけれど、戻れる。恥ずかしいけれど、終わりではない。そういう経験を、体に覚えさせるものです」


 折原先生は、机の上に薄い冊子を置いた。


 表紙には『親子遅延接種プログラム』と書かれている。


「遅れて接種する場合、子どもだけでは効きにくいです」


「どうしてですか」


「家に戻ったとき、失敗を受け止める空気が変わっていないと、子どもはまた同じ場所へ戻ります」


 私は、黙った。


「陽太くんは、失敗したことが怖かった。けれど、それ以上に、失敗した自分をどこへ置けばいいかわからなかったのだと思います」


 袖をつかむ陽太の手に、少し力が入った。


「陽太くんだけの接種では、少し足りません。今日は、お母さんにも一緒に受けていただくことをおすすめします」


「私も、ですか」


「はい」


 折原先生は、穏やかに言った。


「今からでも、小さく失敗しましょう。お母さんも一緒に」


五 母親用の失敗


 親子用の接種室には、妙な椅子が二つ並んでいた。


 一つは子ども用。


 もう一つは、大人用。


 大人用の椅子の前には、モニターが三枚ある。


『メール誤送信』


『会議中の言い間違い』


『保護者会で名前を間違える』


 選択肢が、どれも嫌だった。


 大人の人生は、選択肢が増えるほど逃げ場が減る。


「本当に、これをやるんですか」


「軽度の疑似体験です。心拍数と表情筋の動きを見ながら、負荷を調整します」


「私は付き添いのつもりで」


「付き添いは、横で見ていることではありません」


 折原先生は、淡々と言った。


「一緒に戻ってくることです」


 その言葉に、私は黙るしかなかった。


 まず陽太が子ども用の接種を受けた。


 映像の中で、彼は給食の牛乳をこぼした。


 次に、発表で言葉につまった。


 最後に、友達に「それ、違うよ」と言われた。


 陽太は途中で何度か泣きそうになった。


 けれど、映像の中の先生は言った。


「拭こう」


「もう一回、言ってみよう」


「違ったら、直せばいい」


 どれも、当たり前の言葉だった。


 でも、陽太はその当たり前を知らなかった。


 私が、知らせてこなかった。


 次は私の番だった。


 私は『会議中の言い間違い』を選んだ。


 なぜなら、一番ましに見えたからだ。


 接種が始まると、私は会議室にいた。


 資料を読み上げている。


 上司が見ている。


 同僚も見ている。


 私は「前年比」を「ぜんねんぴ」と読んだ。


 会議室が、一瞬だけ静かになった。


 誰かが笑った。


 胸が詰まった。


 手が冷えた。


 喉の奥が、子どもの頃の教室に戻った。


 音読。


 漢字。


 笑い声。


 私は、椅子の上で固まった。


 疑似体験の中の私は、口を閉じる。


 そのとき、隣の椅子から陽太の声がした。


「ママ」


 私は現実に戻った。


 陽太が、こちらを見ていた。


「間違えた?」


「うん」


「どうするの?」


 どうするの。


 私は、その問いにすぐ答えられなかった。


 間違えたらどうするのか。


 三十年以上、私はその答えを避けていた。


 やり直す。


 謝る。


 訂正する。


 笑われても、次の行を読む。


 そんな単純なことを、私は知らないふりをしていた。


「……言い直す」


 私は、かすれた声で言った。


 疑似体験の中の私は、資料を持ち直した。


「失礼しました。前年比、です」


 会議室の空気が動いた。


 誰かが頷いた。


 上司が「続けて」と言った。


 それだけだった。


 世界は、終わらなかった。


 接種が終わると、私は汗をかいていた。


 陽太も目元を赤くしていた。


 折原先生が、二人に紙コップの水を渡してくれた。


「どうでしたか」


 私は、少し考えた。


「嫌でした」


「はい」


「でも、終わりました」


「大事なのは、そこです」


 折原先生は微笑んだ。


「失敗は、終わります。失敗した人間の人生まで終わるわけではありません」


 陽太が紙コップを両手で持った。


「卵も?」


「卵も」


「落としたことも、終わる?」


「終わります」


 陽太は、長いこと紙コップの水を見ていた。


「でも、頭の中の床に、黄身が残った」


 折原先生は、少しも笑わなかった。


「それも、少しずつ拭きましょう」


「すぐに?」


「すぐには消えないかもしれません。でも、薄くはなります」


 陽太は、紙コップを握ったまま、小さく息を吸った。


「みんな見た」


「見た人たちは、明日には別のことも見ます」


「忘れる?」


「忘れる人もいます。覚えている人もいます」


 折原先生は、そこだけごまかさなかった。


「でも、覚えている人がいても、あなたがずっと床にいる必要はありません」


 陽太は、ゆっくり頷いた。


 私はその横顔を見て、胸の奥が痛くなった。


 痛い。


 でも、それも終わる痛みだった。


六 焦げた卵焼き


 その日の夜、私は陽太に言った。


「卵焼き、作ろうか」


 陽太は目を見開いた。


「また?」


「また」


「失敗するかも」


「するかもね」


「ママ、作れるの?」


 そこが問題だった。


 私は料理が得意ではない。


 普段は自動調理器に材料を入れているだけだ。


 卵焼きも、正直に言えば、きれいに作れる自信はない。


 自動調理器に運転免許があるなら、私はまだ仮免だ。


「たぶん、下手」


 私が言うと、陽太は少し驚いた顔をした。


「ママも?」


「ママも」


 台所に立つと、陽太は踏み台に乗った。


 私は卵を二つ取り出した。


 冷蔵庫の卵ケースには、自動調理器用のラベルが貼ってある。


 今日は、それを無視した。


 文明の利器から見れば、明らかな反乱である。


「まず、割ります」


「うん」


「失敗する可能性があります」


「うん」


「もし失敗したら」


「拭く」


 陽太が先に言った。


 私は頷いた。


「そう。拭く」


 私は卵をボウルのふちに当てた。


 強すぎた。


 殻が大きく割れ、白身が指に流れた。


「あ」


 陽太が声を上げた。


 私は一瞬、固まった。


 台所の床ではなく、ボウルの中だ。


 被害は軽微。


 家庭内災害対策本部なら、レベル一で済む。


 それでも、胸が小さく跳ねた。


「失敗しました」


 私は言った。


 陽太が、私の顔を見た。


「戻す?」


「戻さない」


「どうする?」


「殻を取る」


 二人で、ボウルの中の小さな殻を探した。


 なかなか見つからない。


 陽太は真剣な顔で箸を動かした。


「あった」


「ありがとう」


「これ、失敗?」


「失敗」


「でも、ちょっと楽しい」


 私は笑いそうになった。


 笑っていいのかわからなかった。


 でも、笑った。


 卵を混ぜ、砂糖と塩を入れた。


 フライパンを温める。


 油をひく。


 卵液を流す。


 じゅう、と音がした。


「すごい」


 陽太が身を乗り出した。


「近すぎる。火は危ない」


 私は言いながら、卵を巻こうとした。


 巻けなかった。


 破れた。


 しかも、焦げた。


 台所に、少し苦い匂いが広がった。


「焦げた」


 陽太が言った。


「焦げたね」


「どうする?」


「食べられるところを食べる」


「食べられないところは?」


「切る」


「切ったら、なくなる」


「なくなる部分もある」


 私はフライ返しで、黒くなった端を皿の隅に分けた。


 皿の上には、黄色と茶色の、あまり美しくない何かが残った。


 卵焼きというより、卵の事故報告書だった。


 別紙で原因分析を添付したくなる見た目だ。


 陽太は、それをじっと見た。


「写真、撮る?」


「撮らない」


「記録しないの?」


「今日は、食べる」


 二人で食卓についた。


 圭介は仕事で遅い。


 リビングは静かだった。


 私は箸で小さく切り、口に入れた。


 甘い。


 しょっぱい。


 そして、少し苦い。


 陽太も、恐る恐る口に入れた。


 眉間に皺が寄った。


「にがい」


「焦げたからね」


「でも」


 陽太は、もう一口食べた。


「死なない」


 私は、思わず箸を止めた。


「うん」


 声が少し震えた。


「死なない」


 陽太は、焦げた卵焼きを半分食べた。


 残りは、二人で相談して残した。


 残すことも、失敗の後始末の一つだ。


 全部きれいに食べて美談にする必要はない。


 食器を片づけると、陽太が言った。


「明日、学校行く」


「うん」


「怖くない?」


 私が聞くと、陽太は少しだけ黙った。


「怖い」


「うん」


「でも、行く」


「先生に言う」


「何を?」


「昨日、卵焼き焦がしたって」


「笑われるかも」


 私は、あえて言った。


 陽太は少し考えた。


「そしたら、焦げた味を教えてあげる」


 それは強がりかもしれなかった。


 でも、強がりもまた、立ち上がるときに必要な筋肉なのだと思う。


 夜遅く帰ってきた圭介は、シンクの焦げたフライパンを見て、「大事件の現場だな」とだけ言った。


 それから、何も聞かずにフライパンへ水を張った。


 翌朝、陽太はランドセルを背負った。


 私は、いつものように中身を確認しようとして、手を止めた。


 指先がチャックに触れる寸前で止まる。


 怖いのは、陽太ではなく、私のほうだった。


「見ないの?」


 陽太が聞いた。


「自分で見た?」


「見た」


「じゃあ、大丈夫」


「忘れ物があったら?」


「困る」


「それから?」


「先生に言う。借りられるものは借りる。帰ったら次の方法を考える」


 陽太は、玄関で靴を履いた。


 少しだけ時間がかかった。


 左右を間違えかけて、自分で直した。


 それだけで、今朝の我が家では小さな拍手ものだった。


「いってきます」


「いってらっしゃい」


 ドアが閉まった。


 私はキッチンへ戻った。


 昨夜のフライパンには、まだ焦げ跡が残っていた。


 水につけておいたのに、完全には落ちていない。


 私はスポンジを手に取り、少しずつこすった。


 焦げは、すぐには消えない。


 けれど、薄くはなる。


 台所には、まだ少しだけ焦げた匂いが残っていた。


 嫌な匂いではなかった。


 私たちの家に、初めてできた抗体の匂いだった。


(了)

お読みいただきありがとうございます。


失敗をなくすより、失敗したあとに戻れる場所があること。

そんな親子の話として書きました。


ほかにも、日常に少しだけ変な制度や仕組みが入ってくるSF短編を書いています。

異世界転生とか、悪役令嬢ものも書いています。


よろしければ、そちらも読んでいただけると嬉しいです。

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