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記憶喪失の男        :約3000文字

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/03/24

 ――ここは、どこだ……?


 男はゆっくりと上体を起こし、辺りを見渡した。視界いっぱいに広がるのは、幾重にも重なる木立や草むら。湿った土と青臭い葉の匂いが、押しつけるように鼻腔に入り込んでくる。

 どうやら、ここは森か山の中らしい。


 ――だが、何も……何も覚えていない。おれは……いや、僕は……おれ……自分は……誰なんだ……。


 名前、家族、住んでいた場所――頭の奥に指を伸ばすようにして記憶をたぐり寄せようとしたが、何も掴めなかった。どれも輪郭をなくし、砂のように指の間からこぼれ落ちていった。

 男はゆっくりと立ち上がった。次の瞬間、ぐらりと足元がふらつき、思わず膝に手をついて踏ん張った。

 ゆっくりと背筋を伸ばし、自分の体をまじまじと見下ろす。黒いTシャツに青いデニム、汚れたスニーカー。ごくありふれた格好だ。次にポケットに手を突っ込み、右、左、後ろと順に探ったが、財布やスマートフォンなど身分を示すものは何一つ出てこなかった。

 しばらくその場に立ち尽くしていると、鳥のさえずりや葉擦れの音に混じり、低い音がかすかに聞こえてきた。車の走行音だ。どうやら、近くに道路があるらしい。

 そう考えた男は、音のする方角へよたよたと歩き出した。


「……そして道路に出た彼は山を下り、やがて住宅地へたどり着いたのです。彼の姿を目にした近隣住人が心配して声をかけたところ、記憶喪失であることがわかりました。そしてその住人は、なんと彼を自宅に招き入れ、食事を振る舞うなど手厚く保護したのです。今、観覧席にいらっしゃるあの方が佐野さんです。どうも。いやあ、素晴らしい。なかなかできることではありませんよ」


 とあるテレビスタジオ。司会者が大きく腕を広げて観覧席の一角を示すと、カメラが滑るようにそちらへ向いた。

 佐野さん――年配の主婦は口元を手で覆い、恥ずかしそうに小さく首を横に振った。観客席からは温かな拍手が湧き起こった。

 カメラは再び司会者へ戻り、次いで椅子に座る男の顔を大きく映し出した。男はわずかに口角を上げ、ぺこりと頭を下げて佐野さんに感謝を示した。


 男は数週間、佐野さんの家に身を寄せていた。佐野さんは当初、警察に連れて行くべきだと考えていたものの、男の不安げな表情を見ていると気が咎め、どうしても踏み切れなかった。また、数日もすれば記憶が戻るかもしれないという期待もあり、ひとまず家に置くことにしたのだ。

 近所の住人たちも男を心配して――佐野さんのこともだが――毎日のように様子を見に訪れた。温かな言葉をかけられ、男は深く感謝し、畑仕事を手伝うなどして日々を過ごした。


 いつしかそれは穏やかな日常になりつつあり、佐野さんもまた自然とそれを受け入れていた。

 だが、やはりいつまでもこのままでいいはずがない。記憶が戻る気配はなく、焦りと不安は日に日に膨らんでいく。

 自分はいったい誰なのか。どこから来たのか。家族はいるのか。どうしてあんなところにいたのか。知りたい……知りたい――。

 そしてある日、男は意を決して警察を訪れたのだった。

 事情を話すと、すぐにマスコミが嗅ぎつけてきた。

 記憶喪失の男。山中で意識を取り戻し、町へ下りる。身元は不明。

 瞬く間にニュースは拡散し、男の存在は日本中に知られることとなった。それに目をつけたテレビ局が保護を申し出、こうして特別番組が組まれたのだった。


「話題作りだというネットの心ない意見もありますが、断じて違います。こちらの田中さん――もちろん仮名ですが、医学的にも記憶喪失と診断されています。我々は、なんとか田中さんの記憶を取り戻すお手伝いができないかと考え、全国の視聴者の皆さんに情報提供を呼びかけてきました。その結果……言わせてください。やはりテレビの力はすごいんだと。そうです、ついに田中さんを知る人物が現れたのです! そしてその方は今、このスタジオ――あのカーテンの向こうにいらっしゃいます!」


 司会者がスタジオセットの一角を大きく指さした。赤いカーテンにスポットライトが当たり、その奥に立つ人物のシルエットがくっきりと浮かび上がった。

 男はごくりと唾を飲み込み、膝の上で拳を握りしめた。


「それも……なんと、彼のお母様なのです! さあ、スタジオの皆さん、そして生放送をご覧の皆さん。ここまで大変お待たせしました。そして田中さん。本当によく耐えてこられましたね……。自分が何者なのか、なぜ山の中にいたのか、これまでどんな人生を歩んできたのか。何一つわからないなんて、それがどれほど不安で心細かったか、我々には想像もできません。……ですが、我々が唯一、確信をもって言えることがあります。それはね、田中さん……あなたは幸せになるべき人間だということです。あなたは本当に素晴らしい人だ。その人柄は、我々もよく知っています。佐野さんも、近所の皆さんも、視聴者の皆さんも、みんな知っています。ねえ、そうでしょう! ええ、温和で知的で誠実。あなたのような若者がこの国を支え、未来を創っていくのだと、誰もがそう信じています! さあ、田中さん。どうぞ席をお立ちください。そしてカーテンの前へ。……さあ、いよいよです。感動の再会の瞬間です、どうぞ!」


 照明が一段と強くなり、白い光がスタジオ内を縦横無尽に走り回る。観覧席からは期待と緊張が入り混じったざわめきが広がった。

 そして司会者の大きなジェスチャーに合わせ、カーテンが左右へと滑らかに開いた。同時に照明の動きがぴたりと止まった。

 そこには、白髪まじりの中年の女が立っていた。

 両手で口元を覆い、目を細めて涙を浮かべている。その視線は男へとまっすぐ向けられていた。


「さあ、お母さん。あらためてお聞きしましょう。こちらの彼が、あなたの息子さんで間違いありませんね?」


 女は一度深く息を吸い、そして小さく頷いた。


「……はい」


 その一言が落ちた瞬間、観覧席からどよめきと感嘆の息が広がった。


「では、お母さん。息子さんのお名前を呼んであげてください。それが、きっと記憶を取り戻す大きなきっかけになるはずです」


「はい……。あの、その前に少しだけ、感謝の言葉を述べさせていただいてもよろしいでしょうか……?」


「ええ、もちろんです」


 女は小さく息を漏らし、スタジオ全体に向かって深く、何度も頭を下げた。観覧席の人々も、つられるように頭を下げた。そして、女はゆっくりと顔を上げ、カメラのレンズをまっすぐ見つめて口を開いた。


「ありがとうございます……。本当に、本当に、先生と神様には感謝してもしきれません。息子は生まれたときから、頭に重度の障害があると言われていました。一生このまま、ろくに会話もできないだろうと。……でも、私は信じていました。いつか、きっと治る日が来ると。ずっと家の中で育てて、先生と一緒に神様にお祈りを続けてきました。その結果、こうして治ったんです! 家からいなくなったときは、本当にもうどうしたらいいのかわからなくて、頭がおかしくなりそうでした。でも、祈り続けていたら、こうして神様がまた会わせてくださいました。本当に先生は素晴らしいお方で、先生がお作りになったこの数珠も、悪い氣をすべて跳ねのけて、良い氣だけを取り込んでくれるんです。もしよろしければネットでも購入できますので、皆さんもぜひ。ソマヴェンドッグテックもおすすめです。他に販売しているところがあるようですが、先生のもの以外は偽物です。どうかお気をつけください。ああ……何度でも言わせてください。先生、神様……本当に、本当に、ありがとうございました……!」


「ああああああああ!」


 田中――彼は喉が裂けるような叫び声を上げた。

 顔は蒼白に歪み、目は大きく見開かれている。次の瞬間、体を反転させて走り出した。スタッフが慌てて腕を伸ばしたが、彼はそれを振り切り、スタジオの出口へと駆け抜けた。

 突っ込むようにして扉を開け、その姿は廊下の奥へと消えた。

 生放送は混乱のまま終了した。

 その後、彼の行方は報じられていない。ただ……。


 ――見つからないほうがいい。


 誰もが心のどこかで、そう思っていた。

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