5話 加護
軋む木の扉を開けると、中はむせ返るような湿気と薬草の匂いが充満していた。
部屋の奥、粗末なベッドの上に横たわっているのは、ヘルメスと同じ金糸の髪を持つほっそりとした女性だった。荒い呼吸を繰り返し、ひどく汗をかいている。
「母さん、俺だよ。果物、持ってきたから……」
ヘルメスがベッドの傍らに跪き、震える手で母親の手を握る。
その姿を見て、俺は小さく息を吐き、ヘルメスの背中にそっと手を置いた。
「ウィル……?」
「俺を中継にしろ。お前の本来の力を、お母さんに流し込むんだ」
俺の言葉に力強く頷いたヘルメスが目を閉じると、俺たちの繋がった部分から、再びあの黄金の光が溢れ出した。
風を操る神の力が、清らかなそよ風となって部屋の淀んだ空気を一掃し、母親を包み込んでいく。
「……ん、ぁ……」
数分後。奇跡は確かに起きた。
母親の苦しげな呼吸が次第に穏やかになり、青白かった顔にほんのりと赤みが差したのだ。ゆっくりと目を開けた彼女は、ヘルメスを見て優しく微笑んだ。
「ヘルメス……? ああ、なんだか急に、身体が軽くなって……」
「母さん! よかった、本当によかった……っ!」
母親の胸にすがりついて号泣するヘルメス。
俺は「ふぅ、これで一件落着か」と肩の荷を下ろしかけた――その時だった。
俺の脳内に、契約者としての『直感』のような情報が流れ込んできた。
(……待て。違う。完全に治ってない)
俺は目を細め、母親の様子を観察した。
確かに熱は下がり、顔色も良くなった。だが、彼女の命の根源にこびりついている『魔神の呪い』のような黒いモヤは、完全に消え去ってはいなかった。
「ヘルメス、水差すようで悪いんだが……」
「え?」
「お母さんの病気、完全には治ってない。お前の力で症状を強引に抑え込んでるだけだ」
「なっ……嘘だろ!? なんでだよ、俺はゼウスの血を引く神だぞ!」
「お前、『旅と商売と風』の神だろ。医療とか生命の専門外じゃないか」
「あ……」
図星を突かれたのか、ヘルメスが間の抜けた声を出す。
そうだ、神様にも「管轄」というものがある。風の力で環境を整え、体力を回復させることはできても、魔神由来の重篤な病を完全に消し去るほどの『加護』は、今のヘルメス単体の力では足りないのだ。
「じゃあ、どうすれば……! このままじゃ、母さんはまた……!」
「答えは簡単だ。俺が他の神様……できれば医療や生命に特化した神、あるいは単純にバカでかい加護を持ってる神を見つけて、さらに契約を結ぶ。俺という器に神の力が蓄積されれば、魔神の呪いごと病気を吹き飛ばせるはずだ」
俺の現実的な提案に、ヘルメスはハッと顔を上げ、そして力強く俺を指差した。
「なら決まりだ! 俺も行くぜ、ウィル!」
「は? お前、お母さんの看病はいいのか?」
「俺は旅の神だぜ? じっとしてるより、世界中を駆け回って他の神を引っ張ってくる方が性に合ってる! それに、母さんの病気を治すにはお前が必要だ。お前一人じゃ、またスライムにビビって丸焼きにされるかもしれないしな!」
「一言多いぞクソガキ」
ベッドの上の母親も、「どうか、この子をお願いします」と優しく微笑んでくれた。
こうして俺の異世界生活は、偉大なる最高神の息子(ただし親父はクズで本人は元泥棒)という、なんとも頼もしいような不安なような相棒を得て、本格的に幕を開けたのである。
「よし、じゃあ行くか相棒! 目指すは世界を救い、母さんを救う大冒険――」
バンッ!!!
ヘルメスが意気揚々と小屋の扉を開けた瞬間。
そこに、腕組みをして仁王立ちしている一人の村娘がいた。
「――大冒険の前に、まずは現実のお話をしましょうか、ウィルさん」
地獄の底から響くような、冷ややかな声。
命の恩人であり、さっきまで俺と一緒に路地裏を走っていた少女、リーネだった。彼女の背後には、なぜかフルーツ店の店主と、屈強な衛兵が二人控えている。
「あ、リーネちゃん。いやぁ、実はこれには海よりも深い訳が……」
「あの高級な『太陽果実』、一箱で5000ゴールドだそうです。泥棒を捕まえるって言っておきながら、そのまま果物ごと逃げるなんて、どういう了見ですか?」
「ひっ」
「しかも私、衛兵さんに『あの泥棒の仲間ですよね?』って疑われて、危うく牢屋に入れられるところだったんですよ?」
リーネの目が、完全に据わっている。
スライムより、魔神より、怒った金欠の女が一番怖い。
「へ、ヘルメス! お前、風の神だろ!? さっきの神速でここからズラかるぞ!」
「ばっ、お前バカか! 母さんの前でまた罪を重ねるわけにいかねえだろ! そもそも盗んだのは俺だけど、お前が『これでお母さんを治そうぜ』って唆したようなもんじゃないか!」
「お前、こんな時だけ俺に責任転換するな!」
結局。
俺とヘルメスは、スラムの泥水の上に並んで綺麗な土下座を披露することになった。
「……ねえ、ウィルさん。なんで私があなたたちの借金を背負って、しかも一緒に次の街まで歩いてるんですか?」
「いやぁ、俺たちみたいな身元不明の男二人を信用して大金をポンと貸してくれるなんて、リーネちゃんは女神より女神だね! 監視役としてついてきてくれるなら、こっちとしても心強いよ!」
「誰が好んでついてきてるんですか! あなたたちから目を離したら、一生5000ゴールドが返ってこない気がしたからです!」
怒り心頭のリーネが、魔法の杖の先で俺の背中をツンツンと小突く。
そう、彼女は「借金取り」兼「監視役」として、俺たちの神様探しの旅(という名の出稼ぎの旅)に同行することになったのだ。
「まあまあ、リーネ姉ちゃん! 俺の相棒になったウィルは、これからバンバン神様の力を手に入れて稼ぎまくるから安心しろって! な?」
「そのお調子者の元泥棒神様に言われると、不安しか倍増しないんですけど……」
ヘルメスは両手を頭の後ろで組みながら、呑気に口笛を吹いている。彼のお母さんの看病は、リーネのつてで近所の人に頼んできたらしい。借金は作ったが、根回しは完璧だ。
果てしなく続くのどかな街道を歩きながら、俺はふと疑問に思っていたことを口にした。
「なあヘルメス。お前と契約して手に入れた『神速』と『風の加護』なんだけどさ。これ、具体的にどうやって使うんだ? さっき路地裏で発動した時は、なんか無我夢中で勝手に身体が動いた感じだったんだけど」
俺がそう尋ねると、ヘルメスはパッと顔を輝かせた。
「おっ、ついに神の力を使う気になったか! いいぜ、偉大なる俺様が直々にレクチャーしてやる! まず『神速』はな、足元に風を集めて、こう、シュバッと気合を入れるんだ! そしたら景色がグワァーッて後ろに飛んでいくから、あとは足の回転をドガガガッて合わせるだけだ!」
「……」
「で、『風の加護』はもっと簡単! 周りの空気に『俺を守れ!』ってビシッと念じれば、ヒュンヒュンヒュンって風の壁ができる! どうだ、完璧だろ?」
俺は死んだ魚のような目で、リーネに助けを求めた。
「リーネ先生。このバカの言ってること、魔法理論的に翻訳できますか?」
「無理ですね。ただの感覚派の野生児じゃないですか」
「だよな」
「なんだよ! 俺の完璧な指導にケチつけるのか!?」と喚くヘルメスを無視して、俺は自分の身体に意識を集中させた。
代理人である俺の身体には、今確かにヘルメスから流れ込んでいる「神の力」の感覚がある。
「要は、魔力みたいなものをイメージして足に集中させればいいんだろ。……よし、やってみるか。『神速』!」
俺がスキル名を意識して唱えた瞬間。
足元から小さなつむじ風が巻き起こり、身体が羽のように軽くなった。
(おおっ、いける! これならチート主人公っぽく、一瞬で遥か彼方まで――)
一歩を踏み出した。
その瞬間、俺の身体は弾丸のようなスピードで前方へとカッ飛んだ。景色が文字通り線になって流れていく。すげえ! 俺、今間違いなく音速超えてる!
――が。
「あ、これ、脚の筋肉がスピードについてきてなッ!?」
速いのは「移動速度」だけで、俺自身の「基礎体力」や「動体視力」がチート化しているわけではなかったのだ。
結果どうなるか。
足がもつれ、バランスを崩し、俺の身体は猛スピードを保ったまま、街道脇の茂みへと頭から突っ込んでいった。
ズドドドドォォォンッ!!
「ウィルさん!?」
「ぎゃはははは! お前、見事な顔面スライディングだったな! 腹痛ぇ!」
土埃の中から、全身葉っぱと泥まみれになった俺が這い出てきた。鼻血が出ている。
「痛っっっ……! おいクソ神! なんで動体視力とかブレーキのかけ方までセットでくれないんだよ!」
「知るか! 俺は生まれつきそのスピードで走れたんだよ! お前がヒョロガキなのが悪いんだろ!」
「このっ……! もういっそ『風の加護』で俺の周りにクッション作ってやる!」
俺は半ギレで『風の加護』を発動した。
しかし、想像していたようなカッコいい風のバリアではなく、俺の周囲数十センチに「そよ風」がクルクルと回るだけだった。これじゃ精々、夏の暑い日に涼むくらいしか使い道がない。
「……あのー。自称神様と、ルーターさん?」
「なんだよリーネ!」
「それ、たぶんウィルさんの『器』としてのレベルが足りないんだと思いますよ。ヘルメスさんの本来の力は凄いんでしょうけど、それを出力するウィルさんが一般人だから、力が漏れてるんじゃないですか?」
リーネの容赦ないマジレスが、俺の心に深く突き刺さった。
「うっ……。つまり、俺自身のレベルを上げないと、神の力も宝の持ち腐れってことか……」
「そういうことですね。5000ゴールド返すまでは死なないでくださいね、ポンコツルーターさん」
爽やかな笑顔で恐ろしいプレッシャーをかけてくる村娘。そして腹を抱えて笑っている落ちぶれ神。
前途多難すぎるこのパーティで、俺たちは最初の目的地である隣街を目指して歩き続けた。




