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4話 ゼウスの息子

俺たちは、華やかな商業区から一転して、ツンとしたカビの匂いが漂う薄暗いスラム街を歩いていた。

ヘルメスとの契約によって得た『神速』と『風の加護』の余韻で、俺の身体は恐ろしく軽い。足元の水たまりを避ける動きすら、まるで重力がないようにスムーズだ。


先を歩くヘルメスは、俺から取り返した(元々はあいつがフルーツ店から盗んだものだが)木箱を、やはり大事そうに両手で抱えている。


その小さな背中を見ているうちに、俺の中にひとつの素朴な疑問が湧いてきた。


「なあ、ヘルメス。ちょっと聞いていいか?」

「ん? なんだよ相棒。俺の神々しいステップの秘訣か?」

「いや、お前の家庭環境について」


振り返ったヘルメスが、ピクリと眉を動かした。


「お前さっき、自分のこと『偉大なる主神ゼウスの息子』って名乗ってたよな?」

「おう。俺の親父は、雷を操る天界のトップ。間違いなく最強で最高の神様だからな!」

「じゃあ、なんでそのすげえ親父に頼まないんだ?」


俺は率直な疑問をぶつけた。


「お前のお母さんが原因不明の病気で死にかけてるなら、その偉大なる最高神サマに泣きつけば一発で治せるんじゃないのか? お前が泥棒に身をやつす必要なんて……」


俺の言葉に、ヘルメスは少しだけ足を止め、複雑そうに空を見上げた。


「……勘違いするなよ、ウィル。俺の親父は間違いなく最強で、最高に偉大な神だ。あいつが本気で雷を落とせば山が吹き飛ぶし、その威厳の前じゃどんな魔物もひれ伏す。俺はゼウスの血を引いてることを誇りに思ってるし、親父の強さは誰よりもリスペクトしてる」

「おお、立派な息子じゃん」

「でもな」


ヘルメスはくるりと振り返り、死んだ魚のような、どこか達観した目つきで俺を指差した。


「『偉大な神』と『まともな父親』は、悲しいくらい完全に別物なんだよ」


「……はい?」

「あいつはな、世界を統べるのに忙しい……いや、手当たり次第に人間の女や精霊に声をかけるのに忙しくて、うちに寄り付いたことなんて一度もねえんだよ! 圧倒的なカリスマの裏側は、養育費の金貨一枚すら送ってこないただの種馬エロジジイだ!」


スラムの中心で、神の息子が実の父親への呪詛を盛大に叫んだ。


(あー……うん。知ってる)


俺は心の中で、そっと遠い目をした。地球の神話知識でも、ゼウスの節操のなさと浮気癖は超絶有名だ。神としてのスケールがデカすぎる分、被害の規模もデカい。


「母さんが熱を出して倒れた時、俺だってプライドを捨てて一度だけ天に祈ったさ。どうか母さんを助けてくれってな」

「……親父さん、来てくれたのか?」

「あぁ。数日後に空から特大の雷が落ちてきて、うちのボロ家の屋根に風通しのいいデカい穴が開いたよ!」

「ひどすぎない!?」

「絶対アレ、別の女のケツ追いかけてる最中に『おお息子よ、元気にしてるか!』くらいのノリで適当に返事しただけだぜ! おかげで雨漏りするようになって、母さんの風邪が悪化したんだからな! 圧倒的な力も、コントロールできなきゃただの災害だっつーの!」


ギリギリと歯を鳴らすヘルメスを見て、俺は深く、深く納得した。

神様としては超一流だが、親としては関わってはいけないタイプだ。


「……ごめん。俺が間違ってた。お前の親父さん、神としては最高かもしれないが、親としては控えめに言ってクズだな」

「だろ!? だから俺は、あんなオッサンには頼らねえ。俺の力で……いや、お前と契約した俺自身の力で、母さんを治すんだ」


ヘルメスは力強く頷き、再び歩き出した。

自分勝手な神様(あの事務仕事女神)に振り回された俺と、偉大すぎるがゆえに大雑把な神様(親父)に人生を狂わされたヘルメス。

俺たちの間に、なんだか奇妙な、しかし確固たる連帯感が生まれた瞬間だった。


「ほら、着いたぜウィル。……ここが俺たちの家だ」


ヘルメスが立ち止まったのは、スラム街のさらに奥。

半分崩れかけたような木造の、本当に屋根に雷で開いたような真っ黒く焦げた大穴がある、小さなバラック小屋の前だった。


「……母さん、起きてるかな」


ヘルメスが先ほどまでの怒りをスッと引かせ、急に不安そうな少年の顔になって、そっと軋む木の扉に手をかけた。

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