第20話 英雄の終わり
洞窟は、闇に口を開けていた。
岩肌に走る無数の亀裂が、まるで巨大な獣の歯列のように見える。 その前に、リリア・ヴァルハートは一人で立っていた。
武器は、持っていない。
剣も盾も、魔導具もない。
ただ――
静かに、怒りだけを携えて。
「……」
一歩、足を踏み入れた瞬間だった。
洞窟の奥から、地鳴りのような振動が伝わる。
闇の中から、巨大な影が一斉に動いた。
大型のトカゲのような魔物。
鱗は鉄のように硬く、爪は人間の胴を裂くには十分すぎるほど鋭い。
一匹、二匹ではない。
数十匹。
それらが、リリアへと雪崩れ込む。
「卑劣な野郎ね……」
低く、吐き捨てるような声。
リリアは立ち止まらない。 避けることも、防ぐこともせず―― “進みながら”蹴散らした。
最初の魔物の顎を、掌で叩き砕く。
次の一体は、踏み込み一歩で胸骨ごと圧壊。
跳びかかってきた三体は、衝撃波だけで吹き飛ばされ、岩壁に叩きつけられた。
肉と骨の潰れる音が、洞窟内に連続して響く。
血飛沫が舞う。
だがリリアは、それすら視界に入れていない。
「……直接来ないなら」
淡々と呟く。
「私が引きずり出してやる」
魔物の悲鳴も、咆哮も、意味をなさない。
リリアの歩みは止まらず、ただ、奥へ、奥へと進んでいく。
◆
洞窟の内部は、下へ下へと続く構造だった。
階層ごとに、空気が重くなる。
魔力が濃くなり、岩肌が赤黒く染まり、腐臭が漂い始める。
やがて、壁から無数の穴が開き、矢が放たれた。
鋭利な鉄の雨。
だが矢は、リリアの肌に触れる直前で弾かれ、無力に地へ落ちる。
次は、天井から落ちる落石。
そして、地面に浮かび上がる拘束魔法陣。
だがどれも、彼女の進行を止めることはできなかった。
拘束魔法陣は、踏み潰され。
落石は、肩で弾かれ。
毒霧は、息を吸い込む前に霧散する。
やがて、巨大な魔物が姿を現す。
洞窟の天井に頭がつくほどの、異形の巨獣。
だが、リリアは止まらない。
一歩踏み込み、拳を突き出す。
“ズン”という鈍い音と共に、巨獣の腹に風穴が開いた。
そのまま、魔物は崩れ落ちる。
迷いはない。
躊躇もない。
ただ――
“奥へ行く”という意志だけが、すべてを支配していた。
◆
やがて、最後の部屋の手前に辿り着く。
そこだけ、空気が違っていた。
濃密で、粘ついた魔力。
今までの魔物とは明らかに異質な“気配”。
その中央に――
人型の魔物が、腕を組んで立っていた。
「よく来たなぁ……英雄サマ」
薄く笑い、拍手でもするかのように両手を叩く。
「ガルヴァの言う通り、本当に来たんだな。
いやぁ正直、途中で死ぬと思ってたぜ?」
洞窟の壁に寄りかかり、余裕を装うような態度。
「俺は魔王軍幹部、グラード。ここの“門番”ってやつだ。ガルヴァはな……幹部の中でも“遊び”が好きでよ…まぁそんな事はいいか」
そう言いながら、視線だけでリリアを値踏みする。
「英雄ってのは、やっぱり人間辞めてるなぁ……
ま、でも――」
グラードの口角が、ゆっくりと吊り上がる。
「ここまで来たってことは、
“あのガキ”の無様な姿、もう見たんだろ?」
その言葉に――
リリアの視線が、初めて、グラードを正面から捉えた。
だが、答えはなかった。
「はは、無言かよ。
まぁいいさ。あいつ、よく叫んでたぜ?
『助けて』だの『リリアさん』だの」
その瞬間だった。
目にも止まらぬ速さで、リリアは踏み込んでいた。
次の瞬間――
グラードの頭部が、床へと叩きつけられる。
轟音。
床が砕け、衝撃が洞窟全体を揺らす。
「……っが……!?」
口から血を吐き、白目を剥くグラード。
だが、リリアは止まらない。
その頭を、踏みつける。
ぐしゃり、という鈍い音。
「黙れ」
冷え切った声。
「奥にルミナはいるの?」
「……て、てめぇ……!」
震える声で叫び、反撃しようと腕を振り上げた瞬間――
“引きちぎられた”。
グラードの腕が、根元から宙を舞う。
「ぎ、ぎゃあああああ!!」
洞窟内に、凄まじい悲鳴が響く。
だが、リリアの表情は、微塵も動かない。
「喚くな」
淡々と、言い放つ。
「お前が発していいのは、私の問いへの答えだけ。
それ以外は、殺す」
初めて、グラードの顔から余裕が消える。
「……い、います……!
奥の部屋に……ルミナさんは……!」
血と汗に塗れながら、必死に吐き出す。
リリアは、その顔を見下ろし、ほんの一瞬だけ、目を細めた。
「そ」
次の瞬間。
「じゃあ、もういいや死ね」
踵が、振り下ろされた。
轟音と共に、
グラードの頭部は跡形もなく消し飛ぶ。
床に巨大なクレーターが生まれ、
洞窟全体が軋み、悲鳴を上げる。
だがリリアは、それすら気にも留めず、奥へと進んでいく。
◆
最後の扉を開けた瞬間。
“臭い”が、リリアの鼻腔を殴った。
血の匂い。
生臭く、鉄のように重く、喉の奥に絡みつく匂い。
それだけじゃない。
腐りかけた肉の匂いと、内臓が露出した時特有の、生温かい湿った臭気が混ざっている。
視界に映った光景に、リリアの呼吸が止まった。
部屋の床一面が、赤黒く染まっていた。
壁には、引きずられたような血痕。
天井から垂れ落ちる血の滴が、ぽたり、ぽたりと不規則な音を立てている。
そして、その“中心”。
横たわる、ルミナ。
否――
“横たわっている”などという言葉では、生ぬるい。
右腕は、肩口から噛みちぎられ、骨と肉が無惨に露出している。
左手は、かろうじて残っているが、指が二本、無くなっていた。
両脚は――
膝から下が、ほとんど“存在していなかった”。
骨がむき出しになり、肉は抉られ、
その場に、食い散らかされたような“痕”が転がっている。
ルミナは、まだ生きていた。
胸が、かすかに上下している。
だが、その呼吸は浅く、苦しげで、
喉の奥から、ひゅう、ひゅうと空気の漏れる音がしている。
血と汗と涙で濡れた顔が、微かに揺れ、
その口だけが微かに震えている。
「……ひ……っ……」
声にならない声が、喉から漏れた。
その傍らで――
ガルヴァ=ザル=レクスが、
ルミナの“残った肉”を、平然と貪っていた。
歯を立て、肉を引きちぎり、
骨を噛み砕く、湿った音が部屋に響く。
まるで、
“食事”をしているかのように。
その光景を見た瞬間。
リリアの視界から、音が消えた。
洞窟に響いていたはずの、 血が滴る音も、 肉を噛み砕く湿った音も、 ルミナのかすれた呼吸音すら――
すべてが、遠ざかる。
ただ、 “目の前の光景”だけが、異様なまでに鮮明だった。
――違う。
これは戦場じゃない。
戦いですらない。
“屠殺場”だ。
「……っ」
喉の奥が、ひくりと鳴る。
胸の奥が、熱い。
熱すぎて、痛い。
怒り? 憎しみ?
違う。
それよりも、 もっと底にあるもの。
――“許さない”という感情。
理由も理屈も、もはや存在しない。 世界がどうなろうと、 魔族がどうなろうと、 魔王がどうであろうと――
どうでもよかった。
ただひとつ。
“これをやった存在を、この世から消す”
それだけが、 頭の中に、冷たい炎のように燃えていた。
「……やっときたか」
ガルヴァが、振り向いた。
口元と顎が、血と肉で汚れている。 その歯の間に、まだ“何か”が挟まっている。
それを見た瞬間。
リリアの中で、 “人間としての限界”が、完全に砕け散った。
――殺す。
声に出す必要すらなかった。 思考が、それだけに塗り潰される。
次の瞬間。
リリアは“そこ”にいた。
距離も、時間も、存在しなかった。 ただ――
“殴った”という結果だけが残った。
拳が、ガルヴァの顔面に叩き込まれる。
爆音。
空気が破裂し、 洞窟の壁が揺れ、 岩が砕け散る。
顔面の半分が、文字通り“消えた”。
肉が吹き飛び、 歯が散り、 血と脳漿が、壁一面に叩きつけられる。
ガルヴァの身体は、 まるでゴミのように岩壁へと叩きつけられた。
「ぶち殺す……クソトカゲ野郎が」
それは“怒号”ですらなかった。
ただ、
吐き捨てるような、
“事実の宣告”だった。
リリアは、走った。
獲物に向かう捕食者のように、 いや――
“災害”が、災害を破壊しにいくかのように。
「ちょ……まっ……」
半分消えた顔で、 それでも喋ろうとするガルヴァ。
だが、 その声が、リリアの意識に届くことはない。
彼女の中で、 “ガルヴァ=ザル=レクス”という存在は、 すでに“敵”ですらなくなっていた。
ただの、 “消去すべき異物”。
拳が振り下ろされる。
骨が砕ける。
肉が潰れる。
音が、響く。 何度も。 何度も。 何度も。
ガルヴァの身体が、 岩と岩の間で、 “潰れていく”。
呻き声は、やがて意味を持たなくなり、 悲鳴は、ただの“音”になり、 最後には――
“何かを壊す音”にしか聞こえなくなった。
それでも、リリアは止まらない。
止まる理由が、どこにもなかった。
“殺す”という行為ですら、 彼女の中では、 すでに“感情”ではなく、 “処理”に近かった。
やがて。
ガルヴァの身体は、 “形”を保てなくなった。
骨と肉と血が混ざった“赤い塊”が、 そこにあるだけだった。
それを見下ろしても、 リリアの表情は、変わらない。
呼吸も、乱れていない。 鼓動すら、静かなまま。
ただ、 ほんの一瞬だけ。
彼女の指先が、わずかに震えた。
――ルミナ。
その名前が、 ようやく、意識に浮かび上がる。
リリアは、 ようやく“殺すための自分”から、 “守るための自分”へと、戻ってきた。
「……ルミナ」
そう呟いて、 彼女は振り返る。
そこには、 まだ“生きている”ルミナがいた。
そして、 その事実だけが――
リリアを、 “完全な怪物”に、堕とさずに済ませていた。
◆
ガルヴァが“消えた”あと。
洞窟に残ったのは、 肉と骨と血が混ざり合った、言葉にできない“残骸”と、 湿った静寂だけだった。
天井から、ぽたり、ぽたりと、 赤黒い液体が滴り落ちる。
それが床に落ちるたび、 ぬちゃり、と嫌な音が響く。
リリアは、 それを一瞥もせず、踵を返した。
彼女の視線は、最初から――
“ひとつの場所”にしか、向いていなかった。
「……ルミナ」
その声は、 さきほどの“狩る者”の声ではなく、 わずかに震えを帯びた“人の声”だった。
一歩、近づく。
血の匂いが、強くなる。
腐敗とは違う、 “生きたまま裂かれた肉”の匂い。
鉄の匂い。 臓物の匂い。 そして――
“恐怖”の匂い。
床に引きずられたような血の跡が、 ルミナの身体へと続いている。
リリアは、その“道”を辿るように歩いた。
「……っ」
ルミナは、 冷たい石床の上に転がされていた。
身体は、痩せた獣のように丸まり、 血に濡れた髪が、顔に貼りついている。
腹部から太腿にかけて、 噛み裂かれた跡が、何ヶ所も走っている。
裂けた肉の隙間から、 白い骨と、暗い赤が覗いていた。
呼吸のたび、 喉の奥から、ひゅう、と湿った音が漏れる。
――それでも。
“生きている”。
それだけで、 リリアの胸に、痛いほどの感情が込み上げる。
「ルミナ……!」
リリアは膝をつき、 その小さな身体を、そっと抱き起こした。
その瞬間。
「いやだ……やだ……!」
ルミナが、叫ぶ。
「もう……やめて……食べないで……!」
爪で引き裂かれた喉から、 掠れた声が、必死に絞り出される。
身体は、震えていた。 抱きしめようとしたリリアの腕から、 必死に逃げようとする。
「いやだ!いやだ!リリアさん助けて!!」
その言葉が、 リリアの心を、深くえぐった。
――“助けて”と呼ばれているのに、 目の前にいる“私”を、認識できていない。
「ルミナ……私よ……!」
震える声で、 何度も呼ぶ。
だがルミナは、 焦点の合わない目で、虚空を掴むように手を伸ばしながら、 必死に首を振る。
「違う……来ないで……!」
「また……また……食べられる……!」
その言葉ひとつひとつが、 刃物のように、リリアの胸を抉る。
――どれだけの恐怖を味わえば、 ここまで壊れる?
リリアは、ルミナの手首をそっと掴み、震えを止めようとした。
そして、顔を覗き込む。
――そこで、ようやく“違和感”の正体に触れた。
ルミナの目が、こちらを見ていない。
焦点が合わない、という次元じゃなかった。
瞳が、ない。
まぶたは半開きのまま、乾きかけた血で縁取られ、
眼窩の奥には、黒く濁った空洞だけが口を開けていた。
涙の通り道すら赤く染まり、頬に残る筋は、途中で途切れている。
一瞬、リリアの脳が理解を拒んだ。
見えているのに、見えていないふりをした。
けれど、ルミナが無意識に宙を掴む指先が、
その“空白”を現実として突きつけてくる。
「……っ」
喉の奥で、息が詰まった。
胸の中心が、冷たく抜け落ちる。
リリアは、 歯を食いしばった。
怒りが、込み上げる。 だがそれ以上に――
“取り返しのつかなさ”が、胸を締めつけた。
リリアは、 そっとルミナの額に、自分の額を当てる。
「……もう、終わった……」
囁くように、言う。
「誰も……もう、いない……」
震える指で、 ルミナの頬に触れる。
その肌は、氷のように冷たかった。
「……私が、いる……」
その瞬間。
ルミナの身体から、 ふっと力が抜けた。
リリアは、 自分でも知らない“魔力の使い方”で、 ただひとつだけ、願った。
――“戻して”くれ。
光が、淡く広がる。
それは術式でもなく、 詠唱でもなく、 ただ“想い”が魔力に変わっただけの光だった。
裂けた肉が、 ゆっくりと、繋がっていく。
露出していた骨が、 再び肉に覆われる。
血が、止まり、 呼吸が、わずかに落ち着いていく。
それでも。
リリアは、気づいていた。
――“全部”は、戻せていない。
“戻ってきていないもの”が、ある。
だが、 今は、それを考える余裕すらなかった。
リリアは、ルミナを抱きしめる。
壊れ物を扱うように、 いや――
壊れてしまったものを、必死で繋ぎ止めるように。
やがて。
「……あ……」
かすかな声。
ルミナの唇が、震えながら動く。
「……リリア……さん……?」
その一言で、 リリアの胸の奥に溜まっていたものが、 音を立てて、崩れ落ちた。
「……よかった……」
声が、掠れる。
「……生きてて……」
ルミナは、微かに笑ったように見えた。
だが――
「……でも……」
その声は、か細く、震えていた。
「……どこに……いるんですか……?」
その言葉に、 リリアの心臓が、凍りついた。
“見えていない”。
理解した瞬間、リリアの指先が、反射的にルミナの顔へ伸びた。
頬を撫で、こめかみを辿り――まぶたの縁に触れる。
そこには、まだ乾ききっていない血のざらつきが残っていた。
そして、触れた先は“空”だった。
埋まるはずのものが、埋まっていない。
「……っ」
リリアは息を呑み、震える手でルミナの身体を抱き直す。
脚。
膝下へ指を滑らせる。
そこでも同じだった。
治った。
裂けた肉は繋がり、露出していた骨は覆われ、血は止まった。
痛みの波も、呼吸も、脈も、確かに落ち着いている。
――なのに。
“無いもの”だけが、無いままだった。
回復はできる。
傷は塞げる。
命は繋げる。
けれど――失われた部位を「最初からあった形」に戻すことは、できない。
リリアの魔力は、何度も何度もその空白へ流れ込もうとした。
だが魔法は、そこに“戻るべき形”を見つけられない。
まるで、世界そのものが「もうここには存在しない」と告げているみたいに。
「……ごめん」
声にならない声が漏れた。
謝る相手も、理由も、分からないまま。
リリアはルミナを抱きしめる腕に、力を込めた。
壊れないように、崩れないように。
――それでも、抱きしめた腕の中には、確かに“欠けた分”の軽さがあった。
それを、 この瞬間になって、ようやく理解する。
リリアは、 言葉を失ったまま、 ただ、ルミナを抱きしめるしかなかった。
リリアは、ゆっくりと顔を上げた。
洞窟の奥。
潰れたガルヴァの“残骸”。
血と肉と骨が混ざり合い、何の形も成していないそれを、静かに見つめる。
(……これでも、足りない)
胸の奥で、冷たい声がした。
ひとり殺したところで、何が変わる。
ひとり潰したところで、何が戻る。
ルミナの目は、帰ってこない。
脚も、戻らない。
――時間も、戻らない。
ならば。
戻らないものがある世界なら、
“同じことが二度と起きない世界”にするしかない。
魔族がいる限り、
“次のルミナ”は、必ず生まれる。
誰かの娘が。
誰かの妹が。
誰かの恋人が。
同じように、
同じように――
食われる。
壊される。
捨てられる。
「……許さない」
その言葉は、怒号ではなかった。
呪いでもなかった。
ただ、
“決めてしまった”者の声だった。
魔族は、話せる存在だった。
知性も、理屈も、文化もある。
もしかしたら、正義すら持っているのかもしれない。
――それでも。
ルミナの“空洞”を見た今、
それらすべては、意味を持たなかった。
「……存在してはいけない」
それは、善でも悪でもない。
ただの“結論”だった。
魔族という種が存在する限り、
同じ悲劇は、必ず繰り返される。
だから――
「……魔族は」
一度、言葉が止まる。
だが、次の瞬間には、迷いなく続いた。
「……全員、殺す」
世界がどうなろうと、
魔王が何者であろうと、
理屈も、未来も、知らない。
――私は、この子を選んだ。
その選択の“代償”が、
世界中の魔族の命だとしても。
リリアは、ルミナを抱いたまま、静かに立ち上がった。
もう、英雄ではなかった。
もう、自身の平和のために剣を振るう存在ではなかった。
ただ――
“たったひとりのために、魔族を敵に回す女”だった。




