第19話 英雄の逆鱗
夜更け。
街はすでに眠りについていた。
リリアといつも宿泊している宿屋、その一室でルミナは目を覚ました。
「……?」
理由は分からない。
ただ、胸の奥にひっかかるような、不快な違和感があった。
耳を澄ます。
遠くで風が鳴る音、誰かが寝返りを打つ気配。
それ以外は、何もない。
――でも。
「……おかしい……」
ルミナは静かに上体を起こした。
魔力感知に、かすかに“異物”が引っかかっている。
人間でも、魔物でもない。
どこか歪んだ、嫌な魔力。
リリアの寝顔を、ちらりと見る。
英雄は、深く静かに眠っていた。
呼吸は穏やかで、何の異変も感じ取っていない様子だった。
(起こした方が……)
そう思って、口を開きかけて――やめる。
(……でも、もし気のせいだったら)
もし、何もなかったら。
夜中に叩き起こして、心配させるだけだ。
ルミナは、ぎゅっと拳を握った。
「……ちょっと、見てくるだけ……」
(……もう、守られるだけじゃ嫌なんです)
杖を手に取り、静かに部屋を出る。
廊下を抜け、裏口から外へ。
夜の街は、静かすぎるほど静かだった。
◆
街の外れ。
人気のない通りを抜けた先で――
ルミナは、立ち止まった。
「……そこ……」
街灯の届かない影の中に、何かがいる。
鱗に覆われた脚。
しなやかに揺れる長い尻尾。
爪が、石畳に軽く触れる音。
「ッ……!」
ルミナは反射的に杖を構えた。
影から姿を現したのは、トカゲのような鱗を持つ獣人の魔族だった。
人型だが、明らかに“人間ではない”。
鋭い爪、裂けた口元。
その瞳は、獲物を見る捕食者の色をしている。
「なんだァ……こんなとこに小娘かよ」
魔族は、愉快そうに笑った。
「お前……何者だ!」
ルミナは声を張り、魔力を杖に込める。
「……こんな時間に歩いてる魔族だぜ?考えたら分かるよなぁ」
軽い口調。 だが、ルミナはその“軽さ”に、むしろ嫌な予感を覚えた。
(……強い)
直感だった。 魔力の密度、圧のかかり方、視線の質。 どれも、今まで相手にしてきた魔物や魔族とは明らかに違う。
ルミナは、杖を強く握り締める。
「……ッ!」
先手を取ったのは、ルミナだった。
「《風烈》!」
詠唱と同時に、圧縮された風刃が一直線に魔族へと走る。 人間の冒険者なら、確実に両断される速度と威力。
だが――
魔族は、軽く首を傾けただけで、それを避けた。
「……は?」
避けた、のではない。 “そこに当たらない位置に、最初から立っていた”かのような動きだった。
(……読まれてる……!?)
ルミナは即座に後退し、間合いを取る。
「《火弾》!《雷撃》!」
炎と雷を連続で放つ。 間合いを潰し、足止めを狙ったはずの連撃。
だが魔族は、火弾を爪で弾き、雷撃を尻尾で受け流した。
「いいねぇ……なかなかやるじゃねぇか」
余裕の笑み。 遊んでいるような態度。
その瞬間、ルミナの背筋を、冷たいものが走った。
(……勝てない)
理屈ではなく、本能が告げていた。
(……このまま戦っても、時間稼ぎにもならない……)
ルミナは、奥歯を噛み締める。
(撤退……リリアさんに、伝えなきゃ……!)
魔王軍幹部。 なぜか、その言葉が脳裏をよぎった。
これほどの存在感を持つ魔族が、ただの斥候や雑魚のはずがない。
「……ッ!」
ルミナは煙幕代わりに、地面へ魔力を叩き込む。
「《霧障壁》!」
視界を覆う魔力の霧が、一瞬だけ広がる。
その隙に、ルミナは身を翻し、街の方角へと走り出した。
(間に合って……!)
だが――
「おっと」
次の瞬間。
視界が、回転した。
「……え?」
気づいた時には、宙を舞っていた。
背中から地面に叩きつけられ、息が詰まる。
「がっ……!」
霧は、いつの間にか霧散していた。
ルミナの視界の上に、ゆっくりと影が覆いかぶさる。
「撤退判断は悪くねぇよ」
魔族は、楽しそうに笑いながら言った。
「でもさ――」
次の瞬間、ルミナの身体に、重みがのしかかる。
魔族は、ルミナに馬乗りになり、鋭い爪を喉元へ突きつけていた。
「……俺から逃げられると思った?」
「ッ……!」
必死で杖を横にして、防ぐ。
「へぇ……ちゃんと反応できるじゃねぇか」
魔族は楽しそうに笑った。
「なんだァお前?英雄のツレとかいう魔法使いか?」
「お前こそ……何者だ……!」
ルミナは歯を食いしばり、叫ぶ。
「はぁ……会話にならねぇな」
魔族は、爪をぐっと押し込んだ。
杖が軋み、ルミナの腕が震える。
「街の人間何人か殺しゃ、英雄が出てくると思ったんだが」
顔を近づけ、にやりと笑う。
「ま、代わりにお前でいいか」
「……っ!」
「とりあえず――死んどけよ」
魔族は、もう片方の爪を振り上げた。
その瞬間。
――“圧”が、降りた。
空気が、重くなる。
まるで、空間そのものが軋むような感覚。
魔族の腕が、止まった。
「……あ?」
背筋に、冷たいものが走る。
ゆっくりと、ガルヴァは視線を動かした。
そこにいたのは――
「……気色悪い気配がしたから見に来てみれば」
夜闇の中に、静かに立つ一人の女。
「何してんの?」
リリア・ヴァルハートだった。
魔族の喉が、ひくりと鳴る。
「……お前が……英雄……」
額に、じわりと汗が浮かぶ。
「とりあえず」
リリアは、淡々と告げる。
「ルミナから、どきなさい」
その一言で、地面が震えた気がした。
魔族は、反射的に飛び退き、距離を取る。
爪を構え、戦闘態勢に入る。
「……俺は魔王軍幹部、ガルヴァ=ザル=レクスだ」
名乗る声に、微かな震えが混じる。
「へぇ」
リリアは、肩をすくめた。
「君が魔王軍幹部?……めっちゃ雑魚だね」
「……なっ……!」
ルミナは、息を呑んだ。
(こ、この魔族が……雑魚……!?)
ガルヴァの表情が、怒りに歪む。
「舐めやがって!お前ら、やれ!!」
その号令と同時に、影の中から大型のトカゲのような魔物が複数、飛び出した。
だが。
リリアは、一瞬でそれらを蹴散らした。
踏み込み一歩。
衝撃波だけで、魔物たちは粉々に吹き飛ぶ。
視界が晴れた、その時。
「……ッ!?」
そこに――
ガルヴァも、ルミナも、いなかった。
次の瞬間、どこからともなく声が響く。
「へへへ……このガキは貰ってくぜ」
リリアの背後から、ではない。
頭の中に直接響くような、歪んだ声。
「殺されたくなかったらよォ。単身、武器無しで、街から少し離れた洞窟に来い、俺の気配は追えるだろ」
ドサッ――と言う鈍い音とともに、何かが地面に落ちる。
それは、噛みちぎられたような傷跡の残る――
ルミナの右腕と、彼女の杖だった。
その瞬間、音が消えた。
夜の虫の声も、風の音も、すべてが“遠ざかった”。
「……お土産だ」
声は、そこで途切れた。
夜が、静まり返る。
リリアは、ゆっくりとそれを見下ろした。
噛みちぎられたような、血に濡れた右腕。
そして、無惨に折られたルミナの杖。
一瞬、彼女の瞳から――
“色”が消えた。
怒りでも、悲しみでもない。
それらすら通り越した、感情の“空白”。
けれど、次の瞬間。
リリアの奥底で、何かが音を立てて砕けた。
――“英雄”としての理性が。
――“冷静であろうとする自分”が。
喉の奥から、押し殺した息が漏れる。
拳が、わずかに震えた。
「……殺す」
その声は、低く、ひどく静かだった。
だが、その一言には――
世界そのものを敵に回してでも、
相手を消し去ると誓うほどの、
純粋で、剥き出しの“怒り”が込められていた。
次の瞬間。
周囲の大地が、悲鳴を上げるように軋んだ。
地面にひびが走り、草木が根こそぎ浮き上がる。
空気が重く沈み、
まるで世界そのものが、彼女の感情に引きずられているかのようだった。
英雄の威圧――
それはもはや“威圧”という言葉で収まるものではない。
“災厄”に、近い。
その中心で、リリアはただ、静かに立っていた。
誰かを守るためではない。
世界のためでもない。
ただひとりの少女を、傷つけられた“怒り”だけで。
◆
舞台は変わる。
――魔界・辺境地帯。
空は常に暗く、地平線には赤黒い雲が垂れ込めている。
大地はひび割れ、禍々しい瘴気が漂うその場所に、一人の男が立っていた。
ディルク・ザルヴァート。
剣神と呼ばれる男の身体は、すでに傷だらけだった。
肩口から血が流れ、衣服は裂け、息も荒い。
「……ふふ」
それでも、彼は笑っていた。
「今回、ヤバいかも」
ディルクの視線の先。
そこにいたのは――
圧倒的な威圧感を放つ存在。
玉座もなく、軍勢もいない。
だが“それ”が立っているだけで、空間が歪む。
魔王。
魔族たちの頂点。
世界における“災厄”そのもの。
だが、その姿は、ディルクが想像していた“怪物じみた王”とは少し違っていた。
背丈は人間と大差なく、体格も異様に大きいわけではない。
むしろ均整の取れた、静かな佇まいの青年のようにも見える。
しかし――
その身体には、明確に“人ならざるもの”の痕跡が刻まれていた。
額から生える二本の黒い角。
刃物のように鋭く、まるで王冠のように頭部を飾っている。
両腕と胸元には、まるで呪いのような黒紫の紋様が走り、
それは脈打つたびに淡く光を放ち、禍々しい魔力を滲ませていた。
そして、何より異様だったのは――その“目”だ。
片方は、深紅に濁った魔族の眼。
もう片方は、まるで夜空を閉じ込めたかのような、底の見えない闇色。
人と魔族、どちらにも完全には属さないような、その異質な双眸が、
静かにディルクを射抜いていた。
ディルクは、思わず口の端を上げる。
「なるほどね……」
剣を肩に担ぎ、楽しそうに言った。
「見た目は人型でも、中身はバケモンってわけだ」
魔王の身体から放たれる魔力が、じわりと濃くなる。
低く、地鳴りのような声。
「その“見た目”に騙される者は、すでに死んでいる」
「そりゃそうだろうね」
ディルクは笑う。
「こんなのと正面からやり合って、生きてる方がおかしい」
魔王の足元から、禍々しい魔力が溢れ出す。
大地が、ひび割れ、瘴気が吹き荒れた。
「我は、魔王だ」
ただ、それだけを告げる声。
「この世界の理を、破壊する存在」
「はいはい、理ね」
ディルクは剣を構え直した。
「じゃあ俺は、その“理”を斬りに来た剣神ってことで」
次の瞬間、
剣と魔力がぶつかり合い、空間が激しく震えた。
「まさかさ」
ディルクは、血の滲む口元を拭いながら言う。
「ラスボスがいきなり出てくるとはね」
魔王は、低く響く声で答えた。
「貴様は、我の部下を殺しすぎた」
ディルクの足元には、すでに幾体もの魔族の死骸が転がっている。
「これ以上は、魔王軍の威厳に関わる」
「へぇ……威厳、ねぇ」
ディルクは剣を肩に担ぎ、楽しげに笑う。
「だから人間相手に頭下げたのかい?」
その一言で、空気が凍る。
魔王の瞳が、わずかに細くなった。
「……黙れ、“手を組んだ”だけだ」
「一緒だと思うけどね!」
ディルクは、剣を地面に突き立て、体を起こす。
「“手を組んだ”だけ?
人間と敵対するために、人間と手を組む魔王ってさ」
軽く肩をすくめる。
「それ、もう魔王じゃなくない?」
魔王の足元から、禍々しい魔力が溢れ出した。
「……我は、我の在り方を貫くのみ」
「へぇ」
ディルクは、剣を抜いた。
「じゃあ、俺も俺の在り方を貫くよ」
剣神と魔王。
両者の魔力がぶつかり合い、空間が震える。
次の瞬間。
衝突。
剣と魔力が交差し、衝撃波が大地をえぐる。
ディルクは弾き飛ばされ、地面を転がる。
「ぐっ……!」
立ち上がるより早く、魔王の魔力が襲いかかる。
だが――
ディルクは、笑っていた。
「やっぱさ……」
剣を振るい、魔力を切り裂きながら言う。
「なんでかしんないけど余裕ぶってるよね」
魔王の一撃が、ディルクの肩を裂いた。
だがディルクは、退かない。
「まさか、あの英雄が現れても――
“まだ”余裕ぶるつもり?」
魔王の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
「……貴様」
「図星?」
ディルクは、歯を見せて笑う。
「リリアが動いたらさ」
剣を構え直す。
「この世界、どうなると思う?」
魔王は、答えなかった。
ただ、静かに魔力を高める。
「……続きは、また今度にしよっか」
ディルクはそう言いながらも、距離を取らなかった。
むしろ、剣を深く構え直す。
「……って言いたいとこだけどさ」
剣先が、魔王を真っ直ぐ捉える。
「逃がしてくれる気ないよね?」
魔王の口元が、わずかに歪んだ。
「……貴様」
次の瞬間。
魔王の魔力が、空間を圧し潰した。
大地が沈み、空が歪み、
魔界の風景そのものが“戦場”に変わる。
ディルクは、踏み込んだ。
剣と魔力が、正面から激突する。
衝撃で、周囲数百メートルの地面が粉砕される。 視界が白く染まり、轟音が空間を裂いた。
「……ははっ」
ディルクは、血を吐きながらも笑った。
剣を振るい、魔王の魔力を切り裂く。
「ラスボス戦って、こうでなくちゃ!」
魔王の瞳が、確かに“戦意”を帯びた。
「……ならば、見せてやろう」
魔王が、両腕を広げる。
「貴様が斬ろうとした“世界”をな」
その瞬間、魔界全体が、唸った。
――剣神VS魔王、決戦開幕。
◆
一方。
夜の森。
木々の隙間から覗く月は、雲に半分隠れ、淡く歪んだ光を落としていた。
その光の中、リリアは、ひとりで洞窟の前に立っていた。
武器は、持っていない。
剣も、盾も、何も。
あるのは、静かに燃え続ける感情だけ。
洞窟の奥から漂ってくるのは、湿った空気と、血の匂い。
それは、戦場の匂いでも、死の匂いでもない。
――“奪われた側”の匂いだった。
リリアは、ゆっくりと目を伏せる。
脳裏に浮かぶのは、
杖を握るルミナの手。
必死に魔法を放ち、歯を食いしばっていた顔。
そして――地面に落ちていた、噛みちぎられた右腕。
胸の奥で、何かが、静かに、音を立てて壊れた。
怒りではない。
憎しみでもない。
それよりも、ずっと深く、冷たいもの。
――“許さない”という、感情の底。
リリアは、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、もはや迷いも、ためらいもなかった。
「……待ってて」
それは、ルミナに向けた言葉だったのか。
それとも、自分自身に向けたものだったのか。
誰にも分からない。
ただ、確かなのは――
今のリリアは、“英雄”ではなく、“狩る者”になっているということだった。
洞窟の奥から、かすかに伝わる魔力。
それは、ルミナのものだった。
生きている。
それだけで、十分だった。
リリアは、静かに、一歩、前へ踏み出す。
地面を踏むその音は、驚くほど小さい。
だが、その一歩は――
この洞窟と、この夜と、そして魔王軍幹部ガルヴァ=ザル=レクスの運命を、確実に変える一歩だった。
「……覚悟しなさい」
声は低く、感情を削ぎ落としたように冷たい。
次の瞬間。
リリアの姿は、闇の中へと溶けていった。
――狩りは、始まる。




