第16話 剣神vs英雄
風が、止まった。
リリアとディルクが真正面から向き合った瞬間、森という空間が、まるで“息を呑んだ”かのように静まり返った。
互いに構える。否――
ディルクは、構えてすらいなかった。剣を持つ腕は、だらりと下がり、その姿は戦闘態勢というより“待機”に近い。
だが、その“待機”のあり方が、異常だった。
だらしなく下げられた手に握られた剣が、この場のすべてを支配している。
異様な刀身だった。赤黒く、まるで乾いた血が染み込んだような色合い。刀身には、意味を持たないはずの紋様が刻まれており、それらはまるで“呼吸しているかのように”淡く脈打っている。
光を反射しない。だが、闇にも溶けない。
存在しているだけで、周囲の“世界”と微妙にズレている――そんな感覚を覚える剣だった。
ルミナの喉が、ひくりと鳴る。
(……なに、あの剣……)
魔力ではない。威圧でもない。
それなのに――
“あれに斬られたら、すべて終わる”
そんな確信だけが、直感として身体に流れ込んでくる。
リリアは、剣神の剣から視線を外さず、ゆっくりと息を整えた。
(……ネクロディウスとは……まるで違う……)
あれは“壊す存在”だった。存在そのものが破壊であり、質量だった。
だが――目の前の男は違う。
(……斬るためだけに、いる……)
皮膚の内側に張り付くような感覚。理解したくもないのに、理解してしまう。
「……来ないの?」
ディルクが、軽い声で言った。
「英雄」
その一言に、リリアの目が細くなる。
次の瞬間――
リリアが踏み込んだ。
剣が、一直線に振り抜かれる。迷いのない、渾身の一撃。
だが。
金属音が鳴るより先に。
――剣が、砕けた。
音もなく、刃が“崩れ落ちる”ように分解し、空中でただの金属片へと変わる。まるで、刃そのものがこの場に存在する資格を失ったかのように。
「……は?」
リリアの動きが止まった。
手の中に残っているのは、柄。刃はもう、どこにもない。
「……なに、今の……」
呟きは震えていない。恐怖ではなく、呆れに近い。
ディルクは、その光景を見て、肩をすくめた。
「……あー、やっぱり」
軽い声。
「剣で勝負する相手じゃなかったか」
その言葉が、ルミナの背を冷たく撫でた。
(……勝負に、ならない……リリアさんが?)
リリアは砕けた剣を一瞬見下ろし――ふっと、笑った。
「……なるほどね」
そのまま、柄を地面に捨てる。乾いた音が森に落ちた。
「剣で勝つ相手じゃない、か」
言い切る声には、悔しさよりも“納得”があった。
リリアは、ゆっくりと顔を上げる。
「じゃあ……こっちで行くしかないね」
次の瞬間。
リリアの足が、地面を叩いた。
ドン、と空気が震え、土が跳ねる。
拳が振り上げられ、ディルクへ向けて放たれる。
――拳の風圧だけで、前方の草木が倒れた。
「……っ」
ディルクが、ほんの僅かに首を傾ける。
拳は空を裂き、拳が通った“跡”が、細い溝として地面に残った。まるで斬撃の跡だ。
(……拳で、地面が……)
ルミナは目を見開いた。
リリアは止まらない。
次は蹴り。横薙ぎの一閃のような蹴りが放たれ、蹴りの軌道に沿って木々が一列に折れていく。
「……はは」
ディルクが笑った。
笑いながら、剣を振る。
たった一振り。
それだけで、森が“割れた”。
木々が切断される。岩が斜めに断ち割られる。地面が放射状に裂け、土煙が噴き上がる。
拳と剣。
どちらも“攻撃”というより、“災害”だった。
ルミナは反射で杖を握り、詠唱を吐き出した。薄い光の膜が周囲に広がり、自分の身体を包む。
(……近くにいるだけで、死ぬ)
理解した瞬間に、身体が勝手に動いていた。
リリアの拳が突き出されるたび、膜が震える。
ディルクの斬撃が掠めるたび、膜に細いひびが走る。
(……嘘)
まだ当たっていない。
“近くでぶつかり合っただけ”なのに、防御が削れていく。
二人は、もはや“間合い”という概念で戦っていなかった。
そこに立つだけで、周囲の空間を破壊しながら進む。
リリアが踏み込む。
ディルクが後退ではなく、前へ出る。
拳と剣が交差する。
ズン、と腹の奥まで響く衝撃。
視界が白く揺れる。
次の瞬間、リリアの肘が、剣の腹を叩いた。
剣が僅かに軌道を逸らす。
その逸れた斬撃が、後方の大岩を“消す”ように断ち切った。岩が二つに分かれ、ずり落ちる。
(……今の、リリアさんが逸らしてなかったら――)
ルミナの背筋が凍る。
リリアは拳でディルクの懐に潜り込もうとする。
ディルクは剣を短く使い、身体の周囲に“切断の領域”を作る。近づいた瞬間、そこに触れたものは裂ける。
だがリリアは止まらない。
拳で地面を叩いた。
地面が“えぐれる”。土と石が噴き上がり、そのまま弾丸のようにディルクへ飛ぶ。
ディルクは剣を振る。
飛んできた土塊が、空中で細切れになる。
その破片の隙間を、リリアが突っ切ってきた。
(……通るの……!?)
肉体で、切断の隙間を読んで――躱している。
躱すというより、“すり抜ける”に近い。
リリアの拳が、ディルクの頬を掠めた。
掠めただけで、ディルクの頬が裂け、血が飛ぶ。
「……っ、は」
ディルクが笑う。痛みを楽しむような目だった。
「……すごいね」
軽い声ではない。
心からの感嘆。
「素手で、ここまでやれる人、初めて見たよ」
リリアは息を吐きながら、肩を回した。
腕が痺れている。拳の皮膚が裂け、血が滲んでいる。だが顔は笑っていた。
「脳筋だからごめんね」
「謝ることじゃないよ、それ」
言い終える前に、ディルクの斬撃が走る。
リリアは身を捻り、紙一重で避けた。
避けた斬撃が背後の森を“開拓”した。木々が一斉に倒れ、視界が一気に開ける。
その開けた空間へ、リリアが跳び込む。
跳び込む勢いのまま、拳を叩き込む。
――ディルクの顔面に、直撃。
鈍い音。
骨に響く手応え。
ディルクの身体が、宙を滑った。
「……がっ……!」
吹き飛ばされる。木々をなぎ倒し、地面を抉りながら後方へ。
だが、剣神は沈まなかった。
吹き飛ばされる途中で、ディルクの手が剣を握り直す。
そのまま――投げた。
一直線。
躊躇のない軌道。
“投げた”というより、“放った”。
剣が飛ぶ。
風を割る音すら、遅い。
リリアが反射で腕を上げるより早く、剣はリリアの右肩を貫いた。
「――っ!?」
衝撃が身体を貫通し、視界が一瞬白くなる。
剣の勢いは止まらない。肩に刺さったまま、リリアの身体ごと一直線に吹き飛ばす。
ドンっと鈍い音と共に岩壁に、突き刺さった。
剣が岩に深々と刺さり、リリアはそのまま壁に縫い付けられる。
衝撃で岩が砕け、細かな砂が落ちる。
一方、ディルクは。
殴られた衝撃の残りを地面に擦り付けるように滑り、最後に背中から叩きつけられた。
「……っ、は……っ」
息が荒い。
肩が上下する。
リリアは、壁に刺さったまま顔を顰めた。
「……いっったいなぁ!」
軽い口調を装うが、声が少し掠れている。
右肩から流れた血が、腕を伝って落ちる。
それでもリリアは笑った。
「……いい剣、持ってるね」
そのまま、剣を掴む。
普通なら抜けない。抜けば肩が裂ける。
だがリリアは――躊躇なく、引き抜いた。
「っ……!」
痛みが走る。
だが歯を食いしばり、足を地面につけて立ち上がる。
剣を握ったまま、二歩、三歩。
そして、遠くへ――投げ捨てた。
ガン、と鈍い音を立てて剣が地面を跳ねる。
ディルクが、肩で息をしながらも呆れた顔をした。
「はぁ、はぁ……脳筋すぎるでしょ、君……」
「ごめんね、手加減って苦手なの」
「それは僕もだよ」
言葉を交わしているのに、次の瞬間にはもう走っている。
リリアが踏み込む。
ディルクが剣を持つ――と思った瞬間、手元には剣がない。
なのに、ディルクは動じない。
素手で、リリアの拳を捌いた。
捌く、と言っても、受けていない。
“ずらす”。
ほんの数ミリ、角度を変えて威力を逃がす。
それでも、リリアの拳は地面をえぐる。
ディルクの足元が崩れ、土煙が舞う。
リリアが、連打。
拳、拳、肘、膝。
蹴り、回し蹴り、踵落とし。
肉弾戦では、明らかにリリアが押していた。
ディルクの頬が裂け、唇が切れ、呼吸が乱れる。
「……っ、く……!」
ディルクが後退する。
その後退の一歩が、遅れた。
リリアの拳が、腹にめり込む。
「……がっ!」
ディルクの身体がくの字に折れ、吐息が漏れる。
続けて顎へ拳。
頭が跳ね、視界が揺れる。
「……っ、は……」
それでも、ディルクは笑った。
笑いながら、呟く。
「……やっぱ、面白い」
次の瞬間。
背後から、冷たい感覚。
リリアの背中――肩甲骨のあたりから腹へ向けて、何かが“通った”。
「……え……?」
遅れて痛みが来る。
熱い。
息が詰まる。
リリアは、自分の腹を見下ろした。
――赤黒い刀身が、突き出ていた。
「……っ……!」
喉の奥から血がこみ上げる。
足が一瞬、止まる。
ディルクが、目を細めて言った。
「やっと戻ってきたか」
剣は、いつの間にかディルクの元へ“帰ってきていた”。
投げ捨てたはずの剣が、まるで意思を持つように、最短距離で持ち主へ戻り――そのまま、“次の一手”になった。
ディルクは剣を握り、引き抜く。
抜いた瞬間、血が噴き、リリアの身体がぐらつく。
そこへ――蹴り。
「……っ、ぐ……!」
リリアが吹き飛ばされる。木々を倒し、土を抉り、地面に転がる。
口から血がこぼれた。
「……っ、は……っ」
リリアは膝をついたまま、呼吸を整える。
目の焦点がぶれそうになる。
(……痛すぎ)
けど、笑う。
「……それ、反則じゃない?」
ディルクは肩で息をしながら、苦笑した。
「反則とか、言える余裕あるの……?」
「あるある。だって私、まだ負ける気してない」
「……ほんと、脳筋」
その言葉が、どこか嬉しそうだった。
ディルクの身体も、限界に近い。
リリアのラッシュで肋がやられているのか、呼吸のたびに肩が震える。腕にも細かい裂傷が増えている。
二人は、少しだけ距離を取った。
森が、ようやく音を取り戻す――いや、取り戻せない。周囲の木々は倒れ、岩は割れ、地面は傷だらけだ。
そして、忘れかけていた存在が、ようやく動いた。
「……リ、リリアさん……!」
遠くで、ルミナの声。
防御魔法が砕け、吹き飛ばされていたルミナが、ふらつきながら戻ってくる。頬に擦り傷。息が上がっている。
「……っ、だいじょうぶ……?」
震える声で、杖を握り直す。
リリアは、ルミナを見て――一瞬だけ、目が優しくなった。
「大丈夫。生きてる」
「……それ、平気な人の言い方じゃないです……!」
ルミナが泣きそうな顔で言う。
ディルクは、そのやり取りを眺めて、ふっと息を吐いた。
剣を下ろす。
「……今日はここまでだね」
その言葉に、森の空気が変わった。
殺意が消える。切断の匂いが薄れる。
「このまま続けたら……どっちかは死ぬよ」
リリアは腹の傷を押さえながら、顔をしかめた。
「痛すぎるんですけど……」
それでも、笑う。
「まぁでも……そうね」
二人の視線が、交わる。
剣神の目には、興奮と満足がある。
英雄の目には、怒りと誇りがある。
勝ち負けではない。
どちらが上かではない。
ただ――
“同じ場所に立てる存在を見つけた”
そんな感覚だけが、そこにあった。
ルミナが駆け寄り、震える手で治癒魔法をかける。
柔らかな光が、リリアの傷口を包む。
「……っ、はぁ……」
リリアの呼吸が少し落ち着く。
痛みが和らぎ、視界が戻ってくる。
ディルクは、その光景を見ながら、にこっと笑った。
「いい支援だね」
ルミナが睨む。
「……あなた、最低です」
「うん、よく言われる」
「言われてるんだ……」
ルミナが呆れた声を漏らす。
リリアは、治癒の光の中で肩を回しながら言った。
「次会ったら、酒でも飲もう」
ディルクは、楽しそうに目を細める。
「楽しみにしてる」
それだけ言うと、ディルクは背を向けた。
剣を肩に担ぎ、森の奥へ歩き出す。
「待って!」
ルミナが叫ぶ。
「なんで……こんなこと……!」
ディルクは立ち止まらず、振り返りもしなかった。
「……理由?」
少し考えて、あっけらかんと言う。
「暇だったから」
ルミナが言葉を失う。
そのまま、ディルクの姿が“薄く”なる。
森の影に溶けるように、気配が消えていく。
最後に、リリアだけが聞こえるくらいの声が、風に乗った。
「……リリア」
ディルクの声には、さっきまでの軽さがなかった。
「壊れないでね」
一瞬。
リリアの胸が、ほんの僅かに揺れる。
「……言われなくても、またねディルク」
小さく呟いた。
ディルクの気配は、完全に消えた。
◆
残ったのは、破壊された森と、傷だらけの英雄と、震える支援職。
ルミナは、リリアの腹の傷を見て顔を青くした。
「……リリアさん……これ……」
「大丈夫大丈夫。死んでないし」
「死にかけてます!」
「へへ」
リリアは笑って、ルミナの頭を軽く撫でた。
ルミナの目が潤む。
「……怖かった……」
その言葉に、リリアは少しだけ真面目な顔になる。
「ごめん」
短い謝罪。
それだけで、ルミナの涙が落ちた。
「……でも」
ルミナは袖で涙を拭って、震える声で言う。
「……負けて、ないですよね……?」
リリアは、森の裂けた跡を見る。
剣が通った線。拳が抉った穴。
どれも、信じられないほどの破壊。
そして、笑った。
「うん」
はっきり言った。
「引き分けだね」
その言葉に、ルミナの肩が少しだけ軽くなる。
「……帰りましょう」
「うん。キノコも忘れずにね」
「今それ言う!?」
リリアは、籠を指差した。
破壊された森の中で、籠だけが妙に平和に見えた。
――平和なキノコ狩り。
そう呼ぶには、あまりに血と土と剣の匂いが濃すぎたが。
それでも、二人は歩き出す。
ギルドへ戻れば、また怒られる。
英雄として、S級として。
責任が、待っている。
でも今だけは――
生きて帰れることが、何よりの勝利だった。
森の奥で、折れた木が軋む音がした。
風が、再び吹き始める。
そして、どこか遠くで。
“剣神”の笑い声が、聞こえた気がした。




