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第5話:代償が必要なら

その日は、

何の変哲もない一日になるはずだった。


「お姉さま、今日は街まで一緒に行きませんか?」


シシィがそう言ったのは、

昼下がりのことだった。


護衛もいる。

人通りの多い通り。

危険など、どこにもない――はずだった。


だから私は、

断らなかった。


(……原作でも、この日は特に何もなかった)


少なくとも、

私の記憶の中では。


事件は、一瞬だった。


人通りの少ない路地に入ったとき、

背後から――乱暴な力で引きずられた。


「――っ!」


シシィの悲鳴。


振り返った瞬間、

私は理解してしまった。


刃物。

男。

濁った目。


――暴漢。


護衛が反応するより早く、

男はシシィを突き飛ばし、

刃を振り上げた。


(間に合わない)


その確信が、

私の頭を真っ白にした。


次の瞬間。


私は、考えるより先に

シシィを抱き寄せていた。


刃が、

こちらへ向かう。


(――死ぬ)


そう思った。


でも。


(……それでも)


この子だけは――。


――女神アルカディア。


その名が、

頭の中に浮かんだ。


前世の記憶。

この世界の、神話。


“強く願った者に、

一度だけ奇跡を与える女神”。


代償は、

必ず支払われる。


(……いい)


何を失ってもいい。


命でも、

未来でも。


だから。


(この子を……)


世界が、

白く染まった。


音も、

光も、

時間も。


すべてが、

遠ざかっていく。


私は、確かに願った。


――妹を守ってください。


その代償は私が払います。


気がついたとき。


私は、地面に座り込んでいた。


目の前には、

無傷のシシィ。


口を動かしている。

泣いている。


でも――。


(……声が出ていない?)


いや。


違う。


(私が……聞こえていない)


周囲の音が、

一切、存在しなかった。


護衛の口が動いている。

人々が集まっている。


でも、

何も聞こえない。


――無音。


医師の説明も、

両親の声も。


すべて、

何か言っているとしか分からなかった。


私は、

聴覚を失っていた。


女神アルカディアの奇跡。


その代償は――

“音の世界”。


シシィは、

無事だった。


それだけで、

よかった。


彼女が泣きながら、

何度も謝っているのが分かる。


私は、首を振った。


大丈夫。

あなたは、生きている。


それでいい。


(……これで)


私は、

もう“元の場所”には戻れない。


婚約者の隣にも、

社交界にも。


――悪役令嬢としての舞台は、

ここで終わった。


数日後。


私は、筆談で告げた。


婚約を解消してください。


理由は、

語らなかった。


語れなかった。


そして――

静かに、貴族社会から姿を消した。


短編と同じように。


運命は、

確かに変わった。


でもそれは、

幸福への近道ではなかった。


――ここからが、

本当の物語の始まりだった。

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