第五話:天皇のはじまり
あらすじ
紀元前六六〇年頃、神武天皇(破壊柱)は、日向から大和への東征という破壊的な軍事行動を通して、既存の地域的な支配構造を粉砕し、大王権の基盤を開いた。しかし、その後の大和朝廷は、統一感に欠け、不安定であった。数代の後、崇神天皇(創造柱)が登場し、疫病という危機に直面する中で、祭祀の分離と四道将軍の派遣という新しい統治機構と精神的な権威を創造し、国家の統一を図った。
そして三世紀末から五世紀にかけて、大和朝廷の基盤が確立される時代。応神天皇(おうじんてんのう / 創造柱)は、朝鮮半島との交流を通して新しい文化や技術を大胆に受け入れ、倭国に「新たな文明」の種を創造した。その後、仁徳天皇(にんとくてんのう / 建設柱)は、租税の猶予や巨大な土木事業によって国家の経済基盤と民の生活構造を堅固に建設した。そして、五世紀になり、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう / 破壊柱)が登場し、豪族の専横という旧秩序を容赦なく破壊し、大王に権力を集中させる「中央集権」の破壊的な加速を実行する。
本編
紀元前六六〇年頃、神武天皇(破壊柱)が日向から東へ向かった時、海の潮の匂いと、船が波を切る音が、彼の進軍の開始を告げていた。彼の破壊の役割は、既存の地方豪族の支配構造を力で粉砕し、新しい大王の権威を打ち立てることであった。
瀬戸内海を進む間、彼は、道を阻む豪族たちに向かって、弓の弦を引き絞った。弦が軋む音が、彼の意志を表していた。大和に入る際、長髄彦との戦いでは、幾度も苦戦し、血と泥の匂いが野に満ちた。
彼は、戦いの最中、静かに弓を置いた。敵の矢の音が頭上を通り過ぎる。
「わしは、日の出に向かって戦っている。これは、道義に反する破壊だ。道を改めねばならぬ」
神武は、軍を率いて紀伊半島を迂回し、日の光を背に受けて長髄彦と対峙した。背後から差し込む朝日の温かさが、彼の覚悟を照らす。ついに長髄彦を打ち破り、橿原の地で即位した時、神武は静かに土の上に膝をついた。破壊の役割は、新しい国の基盤を打ち立てることで終わった。
数代の後、崇神天皇(創造柱)の治世が始まると、国は疫病に襲われ、人々は苦しんでいた。都の集落には、病と死の匂いが濃く漂い、人々の呻き声が昼夜を問わず響いた。神武が破壊の上に築いた国の基盤はまだもろかった。
崇神は、自ら病の蔓延する場所を訪れ、土の上に座り込んで病に伏す民の手に触れた。彼の手に伝わる民の体温は、熱を帯びていた。彼は、この疫病が、統治の形ではなく、神々への祭祀の乱れにあると見なした。
崇神は、伊勢に天照大御神を祀る豊鍬入媛命を派遣した。神を大王と同じ宮中で祀るのを止め、祭祀と政治を分離する新しい「統治の形」を創造したのである。
伊勢への出発の日、崇神は豊鍬入媛命に玉串を渡した。玉串の葉の青い匂いが、緊張した空気を一時和らげる。
「これまで、神と政治を同じ場所に置いた故に、国は乱れた。新しい世を創るため、神々への崇敬の場を外に設けよ。これは、この国の新しい精神的な構造となる」
豊鍬入媛命は、玉串を両手で受け取り、深く頭を下げた。
「承知いたしました。この役目、国の安寧のための一歩とします」
疫病が収束した後、崇神は、未だ大和朝廷に服従せぬ地方の豪族を統治下に置くため、四道将軍を派遣することを決断した。彼は、中央から地方へと権力を伸ばす新しい「統治の仕組み」を創造した。
崇神は、将軍たちの前で、地図を広げた。地図に記された未知の地域が、蝋燭の光に照らされる。
「祭祀の場を整え、国の心は安定した。次は、実際の統治だ。国の隅々まで、大王の威光を届かせよ」
彼は、将軍たちの肩に触れ、その武具の鉄の冷たさを感じた。
「力を示し、服従を求めよ。これは、新しい国の構造を創造するための儀式だ」
四道将軍の派遣は、大和朝廷の支配領域を広げると同時に、地方への中央の統治を定着させる新しい創造であった。神武が破壊した旧秩序の跡地に、崇神は、目に見える統治と、目に見えない精神的な権威という二重の構造を創造したのである。
時は下り、三世紀末の難波。波の音と、朝鮮半島から渡来した船の帆が風に鳴る音が混ざり合っていた。応神天皇(創造柱)は、海岸に立ち、遠くの水平線を見つめていた。彼の肌には、潮風の塩気が張り付く。彼の創造の本質は、外の世界から新しい知識や技術を受け入れ、倭国の文化を一新させることであった。
船からは、機織りの技術を持つ者、文書を解読する者、そして新しい鉄の道具が次々と降ろされる。応神は、自ら、渡来人の弓月君の手を取り、彼の技術に対する敬意を示した。
「その機織りの技術、倭国にとっては宝だ。これは、衣の文化を一新させる、新しい創造の光だ」
応神は、彼らに住居と土地を与え、積極的に技術を学ばせるよう命じた。鉄の工具の冷ややかな手触りが、彼の指に伝わる。
彼は、新しい文字の知識を持ってきた者たちに向かって、静かに言った。
「文字は、時と場所を超えて、わしの意志と知識を運ぶ器だ。この知識を、国の基盤に根付かせるのだ」
応神の創造は、倭国を「文字と鉄の国」へと変貌させる最初の一歩となり、後の律令制という建設の土台を築いた。
四世紀。応神の子である仁徳天皇(建設柱)は、父が創った新しい文明の種を、長期的な構造として定着させる役割を担った。彼の治世の建設は、何よりも「民の安寧」を基盤としていた。
ある日、仁徳は、難波の高台に立ち、都の集落を見渡した。煙の立ち上がる数が、驚くほど少ないのに気づいた。夕方の冷たい風が、彼の頬を撫でる。竈の煙が立たぬのは、民が貧しく、煮炊きをしていない証拠である。
仁徳は、傍に控える臣下に向かって、静かだが力のある声で命じた。
「今より三年間、民からの税の徴収を停止する。宮殿の修理もやめよ」
臣下は、驚いて土下座した。
「大王様!宮殿は荒れ、漏りもひどい。国の威厳が保てませぬ!」
仁徳は、その臣下の言葉を遮り、遠くの煙の立たぬ集落を指さした。
「宮殿の威厳よりも、民の生活の安寧が先だ。彼らの心に安堵と、豊かさの基盤を建設せねばならぬ。それこそが、永く続く国の構造だ」
三年後、再び高台に立った仁徳の目に入ったのは、無数の竈から立ち上がる、温かい煮炊きの煙であった。その時、彼は、宮殿の柱の腐った匂いや、屋根の雨漏りの音も、全てが心地よいものに感じられた。
彼は、その後、難波の堀江の開削や茨田堤の築造など、水害を防ぎ、農地を広げる大規模な土木事業を行い、国の建設を確固たるものにした。土の湿った匂いと、鍬の金属音が、彼の治世の証であった。
五世紀中頃。仁徳が築いた構造の下で、有力豪族が再び力を強め、大王権を脅かし始めていた。そこに、雄略天皇(破壊柱)が登場した。彼は、旧秩序と豪族の専横を容赦なく破壊し、大王への権力集中を断行する役割を担った。
雄略の破壊は、即位前から始まっていた。彼の治世は、反抗する豪族への厳しい断罪と処刑で知られる。ある日、権勢を振るう豪族の邸に、雄略は突然、側近数名だけを連れて現れた。邸内の酒と料理の匂いが濃く漂う中、豪族は驚きの色を隠せなかった。
雄略は、座敷の中心に座ると、豪族に向かって、脇に置かれた太刀の柄に手を置いた。太刀の冷ややかな感触が、彼の手に伝わる。
「汝らの専横は、国の秩序を乱している。民の間では、大王ではなく、豪族の名が響いているぞ」
豪族は、平伏して震えた。
「恐れ入ります。大王様の御意に背くつもりはございませぬ」
雄略は、返事を待たず、太刀を鞘から抜き放った。鉄と空気が擦れる鋭い音が響き、部屋の空気が一瞬で凍りつく。
「言葉はいらぬ。わしが望むのは、わしの下への一点の曇りもない『服従』だ。この国の主は、わし一人である。汝らの力は、今日、ここで終わる」
雄略の破壊は、反抗する豪族を徹底的に排除し、彼らの支配下の民や土地を大王の直轄とした。彼は、新しい「部民制」の整備を進め、大王に仕える役職を制度化した。この破壊的な中央集権化の断行によって、応神が創り、仁徳が建設した大和朝廷の構造は、武力を持った一人の大王の下に固められたのである。この破壊柱の雄略としての大王の地位を担う活動は、後のナポレオンやスレイマン一世としての活動に通ずるものがある。




