第三十三話:内なる毒と建設の礎
あらすじ
一五九〇年、豊臣秀吉(内なる毒)は小田原を攻め落とし、戦国という旧秩序の最終破壊を完了させた。しかし、その華麗な桃山文化の裏側で、秀吉の自己顕示欲と破壊衝動は暴走し、朝鮮出兵という無謀な遠征へと向かう。一方、徳川家康(建設柱)は、秀吉の支配下にあっても、地味で堅固な長期的建設に資する行動を継続した。一六〇〇年、天下を二分する関ヶ原の戦いの直前、鳥居元忠(義の体現者)は伏見城で、家康の建設のための「捨て石」として壮絶な討ち死にを遂げる。その犠牲と関ヶ原の勝利は、家康の目指す「平和」という名の建設の正当性と土台を確立させた。
本編
一五九二年頃。大阪城の一室には、金箔が貼られた黄金の茶室が眩しく輝いていた。豊臣秀吉(内なる毒)は、朝鮮出兵という壮大な破壊的遠征を命じた後、その黄金の茶室で茶を飲んでいた。熱湯の湯気が金に反射して、周囲の空気さえも熱を帯びているようだった。華麗な絢爛さと、際限のない破壊衝動という「毒」が、秀吉の内に暴走していた。
秀吉は、茶碗を置いた後、遠く大陸の方向を見つめた。
「日の本の統一は済んだ。これでは、武士たちの血が淀む。新たな破壊の場が必要だ」
その声は、静かでありながら、自らの建設の限界と飽き足らなさを示唆していた。秀吉が築いた華麗な建設は、その破壊衝動によって自壊する運命にあった。
同時に、遠く関東の広大な平野では、徳川家康(建設柱)が、泥にまみれた領民たちと共に、水路の整備を進めていた。彼の手には、墨と土の匂いが混ざり合っていた。秀吉が大陸への破壊に溺れる間、家康はひたすら、長期的な安定に資する、地味で堅固な土台作りに注力した。
家康は、検地の記録を示す巻物を広げ、一点を指差した。
「急ぐことはない。この土地の隅々まで把握し、武士と民が互いに律し合う『構造』を築く。華麗さは要らぬ。永く続く堅固さを」
家康の意識は、百年先の平和のシステムを見つめていた。
一五九八年、秀吉の死後、豊臣政権は急速に瓦解し始める。大老たちの間で権力の空白が生じ、天下は再び混沌の縁に立たされた。
一六〇〇年、関ヶ原の戦いの直前。伏見城には、徳川家康に忠義を尽くした鳥居元忠(義の体現者)が少数の兵と共に残っていた。彼は、過去には楠木正成として後醍醐天皇(建設柱)に遣えた身であり、今回も建設柱のため、西軍(反家康勢力)の大軍を引き受ける「捨て石」の役割を負っていた。
家康は、東へ向かう直前、伏見城の門前で元忠と対面した。家康は、馬上で元忠を見下ろす。その目には、親愛の情と同時に、建設のために必要な「犠牲」を求める意志が宿っていた。
家康は、静かな声で問うた。
「元忠。お前には、この世の道筋を作る、重い責務を課す。生きては戻れぬ道だが、お前の死は、私が進む建設の道を開く」
元忠は、地に膝をつき、家康の馬の脚に額を擦り付けた。土の冷たさが彼の頬に伝わる。元忠は、自らが建設のための「義の体現」となることを承知していた。
「殿、承知いたしました。私の命は、殿の築かれる百年の平和の礎となりましょう。私が何日か、敵の足を止める間に、殿は関ヶ原へと進みたまえ」
元忠は、十日以上に亘って敵軍を足止めし、最期は自刃して果てた。その血は、家康が天下を握るための、最初の足掛かりとなった。
一六〇〇年九月。関ヶ原は、朝霧の冷ややかな湿気に包まれていた。東軍を率いる家康は、鳥居の犠牲によって得た時間を利用し、戦場に到着した。この戦いは、単なる軍事的な衝突ではない。秀吉が残した権力の真空と、武士たちの溜まった破壊のエネルギーを、家康が一点に集め、自らの建設の推進力として利用する、極めて効率的なプロセスであった。
家康は、陣の上で、遠くから響く鬨の声と、鉄砲の火薬の匂いを嗅いだ。彼は冷静に、西軍の隊列の隙を見つめた。
「これで、乱世は終わる。全ての破壊は、新たな平和という建設のために捧げられる」
西軍の敗北は、戦国の残滓を完全に破壊し、家康の目指す「平和」という名の建設の正当性を確立した。関ヶ原の勝利からわずか三年後の一六〇三年、徳川家康(建設柱)は征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開いた。
家康の建設は、武士の階級制度、朱子学のイデオロギー、そして参勤交代といった、「力を蓄えることを許さず、平和を強制する」という安定を目的としたものであった。
最後に家康は、一六一四年~一六一五年に大坂の陣を引き起こし、豊臣家という反乱の可能性を完全に破壊し尽くした。火を放たれた大阪城から立ち上る煙を、家康は遠くから見つめた。彼の目は、一点の曇りもなく、建武の新政以来の変則的なサイクルを終わらせ、約二六〇年にわたる江戸時代として定着した、堅固な建設の完成を確認していた。




