第二十八話:桶狭間、創造の雷鳴と旧時代の終焉
あらすじ
一五六〇年五月。尾張を統一したばかりの織田信長(創造柱)は、海道一の弓取りと呼ばれる大大名、今川義元(伝統の拘泥者)の二万五千の大軍に攻め込まれる。義元は、室町以来の古い権威と公家的な優雅さを纏った旧勢力の象徴であった。この桶狭間の戦いは、創造者・信長が旧時代の権威を打ち破り、天下へと飛躍するための決定的な試練となる。一方、この戦いの直前、信長に仕え始めた豊臣秀吉(内なる毒)は、創造の側で活躍し、後に家康(建設柱)へと時代を繋ぐ補助者としての頭角を現し始める。中国三國志の時代には曹操(創造柱)と袁紹(伝統の拘泥者)として活動をした関係性が、ここでは信長と今川義元の関係性として現れていた。
本編
西暦一五六〇年。今川義元が大軍を率いて尾張に侵攻した。今川義元(伝統の拘泥者)の本陣は、公家の儀式のように整然としていた。義元は、お歯黒をつけ、優雅な衣装を身に纏い、その威容は、単なる地方の大名ではなく、室町の権威と伝統を体現していた。
義元は、進軍の途中、輿の中で、熱のこもった茶を啜り、悠然と扇を広げた。茶のほのかな苦みと、公家が焚く香の匂いが周囲に漂っていた。彼の周辺には、「勝ち戦」の慢心と、旧来の武士の形式を重んじる重苦しい空気が澱んでいた。
彼は、扇で顔を隠し、付き従う家臣に低い声で尋ねた。
「尾張の『うつけ』は、まだ城に篭もっているか。数の差の前に勝利が覆ることはない」
義元は、自らの二万五千の大軍という「数の論理」が、信長のいかなる奇策も粉砕すると確信していた。義元の存在は、信長が創造しようとする新しい世界の前に立ちはだかる壁であった。
清洲城の評定の場は、重い空気に満ちていた。家臣たちは、義元の軍勢の数を記した紙を握りしめ、唇を噛んでいた。数十倍に及ぶ敵の兵数が、墨の文字で重々しく示されている。
信長は、評定の間で、自らの脇に置かれた愛刀の鞘を指で叩いた。カツ、カツという乾いた音が、沈黙を破る。
「常識に従えば、我々は負ける。だが、わしが創る戦の形は、あの巨大な力を一瞬で無に帰す」
家臣の柴田勝家が、額に汗を滲ませ、進み出た。汗が頬を伝う。
「殿、御無理です。籠城でなければ、兵の士気は保てませぬ。御覚悟を」
信長は、勝家の顔を見ず、畳の縁を踏み越え、庭へと出た。彼は静かに弓を取り、弓の弦をきりきりと音を立てて引き絞った。弦の張り詰めた音が、彼の覚悟を示す。
「籠城では、古い形を守るだけだ。私は、勝つ。今川の首級を取り、その血で、新しい時代の扉を塗り替える」
彼は、矢を放たず、弓をゆるりと下ろした。評定に残る武士たちの間には、火薬のような熱と緊張が広がった。
未明、信長は、愛唱していた『敦盛』を舞い始めた。床を踏む素足の音が、木の床に響く。
「人間五十年、下天の内を比ぶれば…」
彼の舞は、生と死を一瞬で受け入れる、激しくも諦めのよい動きであった。舞を終えると、彼は、湯気の立つ白湯を一気に飲み干し、湿った着物の上から甲冑を身に着けた。冷たい鉄の感触が彼の肌に触れる。
「出陣だ。今、この瞬間に、古い常識は死ぬ」
信長は、少数の兵を率いて城を出た。雨上がりの早朝、森の中の土の匂いは濃く、彼らの行く手には「桶狭間」という、中世の権威が崩壊し、新しい時代が始まる場が待っていた。信長は、旧勢力の権威が持つ「慢心」と「緩み」という弱点を、本能的な嗅覚で嗅ぎ付けていた。時代は、ついに、本格的な創造者の手に委ねられた。
雨と泥の中を駆ける織田勢の中に、一際小柄で、俊敏な動きを見せる男がいた。豊臣秀吉(内なる毒)である。彼は、信長の急進的な命令に対して、一切の疑問を挟まず、ただ、その意図を汲み取り、迅速に実行した。泥を踏みしめるたびに、靴の裏から湿った土の匂いが立ち上る。
秀吉は、敵の動きを探る斥候を的確に出し、信長の本隊を桶狭間の隘路へと導いた。彼は、創造者・信長が自ら破壊した後に、次の建設者・家康へと繋ぐ「天下の統一」という橋渡し役(補助者)としての役割に向け、無意識のうちに行動し始めていた。
豪雨が一時、止んだその瞬間、信長の軍勢は義元の本陣へと突入した。突然の事態に、義元の周囲は混乱の叫びと、刀と刀がぶつかる金属の激しい音に包まれた。
桶狭間で、義元の首が刎ねられた瞬間、室町以来の旧勢力の権威は崩壊した。信長の創造は、この劇薬的な破壊を経て、天下統一へと向かう、不可逆な一歩を踏み出したのである。
秀吉は、泥にまみれた手で、信長の馬の手綱を引いた。水を含んだ革の重さが手に伝わる。その手には、次の時代の可能性が握られ始めていた。
桶狭間の激戦から三日が経った。清洲城の広間には、勝利を祝う酒の残り香と、運び込まれた戦利品の血の乾いた匂いが混ざり合っていた。織田信長(創造柱)は、床に広げられた尾張周辺の地図を見つめ、無言で膝を突き、座っていた。彼は、鎧を脱ぎ、木綿の簡素な着物姿であったが、その背中からは、張り詰めた熱が放たれていた。信長は、ただ、地図の上の点を指先でなぞった。彼の指が示したのは、旧敵今川の残党でも、尾張の国境でもない。遠く、京へと向かう街道の一点であった。
信長は、背後に控える秀吉に、振り返らず声をかけた。
「藤吉郎、今川が運んできた、京の公家の文は、全て焼いたか」
秀吉は、広間の柱に背を預けていたが、信長の問いに、即座に体の向きを変えた。その動きは、狩りを終えた獣のように俊敏であり、微かに汗の匂いがした。
「焼きました。彼らの京の優雅な権威の匂いは、もはや残っておりませぬ」
秀吉の声は、勝利の高揚ではなく、実務の低い熱を帯びていた。
信長は、地図を見たまま、静かに問うた。
「今川を破ったことで、東の三河はどう動く。松平元康(後の徳川家康)の奴は、自らの国の独立を喜んでいるか」
信長の指は、地図の上の三河の地を一点、強く押さえた。
秀吉は、その指先を見て、頷いた。
「元康殿は、即座に岡崎城を奪還したとの報せ。彼は、今川の死に、自由を感じているでしょう。親方様、この東の緩衝地帯は、当分は揺るがぬでしょう」
秀吉は、信長の意図が、東の安寧を確保し、西の京へと目を向けることにあると正確に理解していた。彼は、信長の創造を可能とする「場」を整えることに集中していた。
信長は、ゆっくりと地図から顔を上げた。彼の視線は、広間の屋根を貫き、遥か西の空を見つめていた。彼の目は、夜の闇に光る刃のように鋭かった。
「東の憂いは去った。今、この国には、わしが破壊しなければならぬ古い形が多すぎる。室町以来の権威の匂いを、すべて焼き尽くす」
信長は、地図の上の京の場所を、強く握りしめた拳で叩いた。
秀吉は、その音を聞き、静かに腰を落とした。彼は、創造者の狂気的な熱を間近で感じ取り、その熱に焼かれながら、自らの役割を確信した。
「承知いたしました。私は、親方様が天下へと向かう道の泥を払う、掃き清める役割を担います。織田様の行く先に、障害は残しませぬ」
秀吉は、信長に深く頭を下げた。
創造者と補助者の間で、天下布武という巨大な創造の計画が、この静かで熱を帯びた会話の中で、確実に固められていた。そして秀吉の内なる毒としての時代の余白を作る役目の萌芽も芽生え始めていた。




